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感情のレンタル屋  作者: おこげ


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第3話

鼓動を聞きながら立ち尽くしているうちに、その規則正しさがかえって息苦しさへと転じ、このまま自前の揺れを育てるという選択が理屈の上では誠実であるように思えながらも、過去に何度か胸に当てたあの冷たい薄片の感触と、その直後に世界の輪郭が鋭く立ち上がった瞬間の鮮明さを、身体がほとんど反射のように思い出してしまうことを否定できず、結局のところ自分は揺れを抱え続ける覚悟よりも、揺れを一度圧縮してしまう即効性を知っているがゆえの弱さに傾いているのではないかという、うす暗い自覚を抱えたまま視線を店の方向へ戻してしまう。

借りなくても揺れるという事実は確かに救いであり、同時に拷問でもあって、その揺れは外部からの注入ではなく自前の神経が生み出しているものだという確信があるからこそ逃げ場がなく、拡散するばかりで焦点を結ばない感情の霧の中に立ち続けることが思いのほか消耗を伴うと理解している自分は、焦点を与えられた状態をすでに経験しているという点で、完全な未経験者よりもずっと不利なのだと、半ば言い訳のように考える。

足は、逡巡を誇張することなく向きを変え、初めて訪れた日のような劇的な葛藤もなく扉の前に立ち、取っ手の冷たさを確認するだけで押し開けることができる自分の慣れを、どこか他人事のように観察しながら、店内の均一な温度と時間の遅延のような静けさに身を滑り込ませる。

カウンターの向こうの人物は、説明を省いても問題がないと判断したらしく、こちらの顔を一瞥するだけで引き出しを開け、その動作に余分な意味はなく、ただ「また来た」という事実だけが空気に置かれる。

「怒りを、短く」と告げる声には、かつてのような理屈や自己弁護は混じらず、持続時間や反動の性質、個体差による落差、怒りのあとに訪れる無力や過剰な共感や自己否定の重さを、すでに身体で知っている者の諦観が淡く含まれている。

差し出された透明な薄片は、光をほとんど反射せず、存在を主張しないまま指先に収まり、その冷たさが期待なのか恐怖なのか判別できないまま、胸の中央、鼓動の上に服越しに押し当てると、一拍、二拍の遅延ののちに内側で拡散していた揺れが急速に収束し始め、曖昧だった圧が一点に吸い寄せられていく感覚がはっきりと分かる。

胸の奥で何かが反転し、問いとして漂っていた思考は断定へと姿を変え、なぜ借りなかったのかという内向きの疑念は消え、なぜ動かない、なぜ黙っている、という外向きの苛立ちが立ち上がり、羨望は蒸発し、抱えること自体を美徳と見なしていた数分前の自分が急速に色褪せる。

思考は直線になり、余白は削がれ、曖昧さは無用のものとして切り捨てられ、胸に当てた薄片は鼓動と同調しながら熱を帯び始め、その熱が自前の怒りを増幅しているのか、外部から与えられた模造品なのかという区別は意味を失い、いま重要なのは方向が与えられたという事実だけになる。

店を出た瞬間、街の色はわずかに濃く、人々の足取りは鈍く見え、自分に向けていた疑念は他者へと向きを変え、どうしてそんな速度で生きていられるのか、どうして何も変えようとしないのかという断定が次々と湧き上がり、拳を握っても震えはなく、代わりに衝動だけが明確に存在する。

いまなら言える、いまなら踏み込める、この熱があるうちに何かを決定しなければならないという焦燥が全身を駆け巡り、同時に、この熱が急激に立ち上がるのと同じ速度で落ちることも、そして落ちたあとには必ず反対の感情が深く沈んでくることも、過去の使用経験から冷静に理解している自分がどこかでそれを数え始めている。

怒りのあとに訪れる、視界が曇り、自分の言葉を恥じ、他者の痛みに過敏になるあの過剰な共感、あるいは底の見えない自己否定の沈下を、前回は三日、その前は一晩引きずった記憶が、遠くで警鐘のように鳴っているにもかかわらず、いまはその音を意図的に無視し、借りなくても揺れたという事実よりも、借りたことで揺れが武器になったという即時的な手応えのほうを選び取る。

まだ、効いている。

まだ、熱い。

まだ、強い。

そして、その「まだ」が尽きた瞬間に、自分がどこまで沈むのかを知りながら、それでも一時的な方向と輪郭を手放せずにいる自分の依存を、怒りという鮮明な光の中で一瞬だけ見失う。

その依存を見失ったまま歩き出した足は自然と速度を上げ、視界の中のすべてが判断の対象へと変わり、これまでなら通り過ぎていた小さな不整合や曖昧な笑みや曖昧な言い訳がいちいち引っかかり、引っかかるたびに胸の奥の熱が燃料を与えられたように強まり、自分が正しい側に立っているという確信が、理屈ではなく体温として身体を満たしていくのを感じながら、いまこの瞬間の自分には迷いがなく、迷いがないという状態そのものが快感であることを、半ば陶酔的に受け入れてしまう。

言葉は以前よりも速く、鋭く、無駄がなく、相手の沈黙や戸惑いを待たずに押し出され、反論の余地を与えないというよりも、反論という概念自体を不要にしてしまう勢いを帯び、その勢いに乗っているあいだは、自分が借り物であるという意識は遠ざかり、むしろこれこそが本来の自分なのではないかという錯覚すら芽生え、その錯覚を疑う余裕がないことが、さらに熱を増幅させる。

しかし、胸に当てた薄片の存在は、鼓動の奥で微妙に変質し始め、さきほどまで明確だった輪郭の縁がわずかに滲み、直線だった思考の速度がほんの少しだけ緩み、その変化を、経験済みの身体は正確に察知してしまい、来る、と思う。

熱は、永続しない。

怒りは、頂点に達した瞬間から、すでに下降を始めている。

言い切った言葉の余韻がまだ空気に残っているのに、その余韻を内側から裏切るように、胸の奥で別の感触が芽を出し始める。

相手の表情が、急に鮮明になる。

さきほどは鈍く見えていたその顔に、戸惑いと、わずかな傷つきと、理解できなさが浮かんでいることに気づいた瞬間、怒りの残り火がそれを照らし出し、同時に、その光が弱まっていくのを感じる。

薄片が、冷えていく。

鼓動が、平常へ戻ろうとする。

代わりに、重さが落ちてくる。

怒りの反転は、静かだ。

爆発の反対側にあるのは、無音の沈下だ。

さきほどまで確信だったものが、過剰だったのではないかという疑念に変わり、言葉は正しかったのかという問いが遅れて押し寄せ、相手の立場や事情や、こちらが知らない背景が急に想像できるようになり、その想像力の過剰さが、胸の奥を締め付ける。

熱は消え、冷えが残る。

拳はほどける。

代わりに、指先がわずかに震え始める。

借りなくても揺れたあのときとは違う、明確な落差を伴った揺れ。

自分が押し出した言葉の鋭さを、いまは自分のほうが受け止めている。

怒りで切り開いた空間が、急速に広がり、その広がりに取り残される感覚がある。

正しかったはずだ。

必要だったはずだ。

そう繰り返しながらも、胸の奥には別の声が響く。

やりすぎたのではないか。

借り物の熱に任せただけではないのか。

薄片は、もうただの冷たい物体になっている。

鼓動は、規則正しい。

だが、その規則正しさが、さきほどよりも重い。

怒りが去ったあとの空白に、過剰な共感が流れ込み、相手の沈黙の意味を勝手に膨らませ、さきほどまで断定していた自分の姿を、いまは他人のように見つめ直し、その姿の不自然さに耐えられなくなる。

これが反転だ、と理解する。

何度か使ってきた。

分かっていた。

それでも、毎回同じように落ちる。

借りなくても揺れた。

だが、借りたことで、揺れは一度刃になり、いまはその刃の切っ先が、自分のほうへ向いている。

胸の奥が、静かに痛む。

この痛みは、自前か、反動か。

区別がつかない。

だが、ひとつだけ確かなのは、さきほどの強さはもうないという事実で、その喪失が、怒りそのものよりも深く、自分の依存を照らし出している。

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