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感情のレンタル屋  作者: おこげ


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第1話

数日後、雨が降った。

強くはない。だが街の輪郭を鈍く滲ませ、光と影の境界を曖昧にする種類の雨だった。会社を出て、無意識に遠回りの道を選びかけ、そこで初めて選択の方向を自覚し、ほんのわずかに迷った末に、結局まっすぐ駅前へ向かった。

理由はない、と内側で処理する。

ただの気まぐれだ、と。

駅前の通りは湿った光を反射し、看板の色が水面のように揺れている。その中に、見覚えのある背中があった。

傘も差さず、濡れることを気にする様子もなく、ただ一点を見つめて立っている。その視線の先を辿った瞬間、呼吸がわずかに浅くなる。

そこにあるのは、あの店の扉だった。

躊躇はない。

日常の一部であるかのような自然な足取りで歩き、取っ手に手をかけ、迷いなく中へ入る。

扉が閉まる。

静かに。

その動きには、初めての者の緊張がなかった。空気を知っている者の、それも一度きりではない慣れが滲んでいる。

遅れて理解が形を持つ。

借りていたのか。

あの夜の怒り。

歩道の真ん中で溢れた言葉。

震える声。

偶発ではなかったのかもしれない。長年の蓄積が偶然決壊したのではなく、意図的に取り出されたものだったのかもしれない。

だから、あれほど過剰だったのか。

だから、あれほど危うかったのか。

自前の怒りなら出力の加減を知っているはずだ。だがあの揺れ方は、容量を超えて流し込まれた何かに身体が追いついていないような、不格好で、だが切実な不安定さだった。

雨が強まる。

動かない。

店はただそこにある。存在しているだけで、選択を迫るわけでも、引き寄せるわけでもない。それでも、あの扉の向こうに「感情を借りる」という仕組みがあると知っているだけで、街の風景はわずかに歪む。

なぜ借り続けるのか。

「ずっと違うと思っていた」

「納得していない」

長いあいだ黙っていたとも言っていた。

黙ることで保ってきた安定。

壊さないために飲み込んできた言葉。

自前の感情だけでは踏み越えられなかったのかもしれない。だから外部から補充する。足りない分を流し込む。揺れるために。壊すかもしれない言葉を口にするために。

借り物の怒り。

それは純粋ではないかもしれない。

だが借りなければ永遠に言えなかった言葉があるとしたら、それは偽物だと言い切れるのだろうか。

胸に意識を向ける。

静かだ。

借りなかった。

だから揺れていない。

失敗もしていない。

だが、揺れた。

そして昨日も今日も、続きを生きている。

扉が開く。

出てくる。

怒りに満ちているわけでもなく、抜け殻でもない。ただ、何かを選び続けている顔をしている。

一瞬、目が合う。

小さく頷かれる。

挨拶というより、共有の確認に近い仕草。

内部に、微細な波が立つ。

羨望に似ている。

あるいは、恐れか。

借りてまで揺れることを選ぶ者と、借りずに凪を保つ者。

どちらが賢明なのかは分からない。

ただ確かなのは、不安定を恐れながら、それでも足を運び続けているということだ。

扉を見る。

入らない。

まだ。

だが、完全に無関係ではいられない。

雨粒が頬を伝う。

それが雨なのか体温の変化なのか判別がつかないほど小さな違和感が、胸の奥に残る。

借りていたのか、と気づいたことで世界はほんの少しだけ構造を変えた。

借りなかった。

だが、揺れないことが正解だと、以前ほど確信できなくなっている。

翌日、駅前は乾いていた。

同じ時間。

同じ場所。

また立っている。

落ち着いているが完全ではない。指先がわずかに動いている。内側で何かが継続している証拠のように。

通り過ぎる。

昨日より自然に。

だが無関心ではない。

「あなた」

呼び止められる。

足が止まる。

少し迷った顔。怒ってはいない。ただ決めかねている。

「少し、話せますか」

断る理由はある。義務もない。

それでも頷く。

なぜ頷いたのか分からない。

ベンチに座る。雑踏が遠くで波のように揺れている。

しばらく黙り、それから言う。

「借りないと、言えなかったんです」

やはり、と思う。

「自分の怒りだけでは足りなかった」

乾いた笑み。

「本当は、あったんです。ずっと。でも出せなかった。勇気がなかった。だから行った」

勇気。

その単語が重く沈む。

「借りると境界が曖昧になる。自分の怒りなのか借り物なのか分からなくなる。でも、その曖昧さが背中を押す。これは全部自分のせいじゃない、って思えるから」

責任の分散。

借り物であれば、失敗は少し軽くなる。

「でも、借り続けると分からなくなる。どこまでが自分で、どこからが外なのか」

声が揺れる。

「昨日も借りました。でも帰り道で怖くなった。これがなかったら何も言えない人間なのか、と」

胸に小さな圧がかかる。

同情ではない。

理解でもない。

揺れだ。

「借り物で動き続けたら、自分の中身が空になる気がして。でも借りないと、また黙る。どっちも怖い」

沈黙。

借りなかった。

だから空洞になる不安もない。

だが満ちている感覚もない。

凪いでいるだけだ。

「借りないんですか」

柔らかい問い。

少し考え、答える。

「分かりません」

本当に分からない。

借りることが弱さなのか。

借りないことが臆病なのか。

小さく頷く。

「俺も、分からなくなってきました」

目の奥に微細な亀裂が見える。

怒りではない。

疲労だ。

借り続けた結果の歪み。

「今日も行くつもりでした。でも、今は迷っている」

借りれば言える。

借りなければ黙るかもしれない。

借り続ければ、自分が希薄になる。

破綻は劇的ではないのかもしれない。少しずつ輪郭が削れ、気づいたときには何を自分と呼ぶのか分からなくなる。

立ち上がる。

店を見る。

一歩踏み出す。

だが止まる。

長い沈黙。

「今日は、行きません」

声は震えている。

借りない選択。

だが何も言えなくなる可能性を抱えたままの選択。

それでも歩き出す。

足取りは明らかに不安定だ。

支えがないからだ。

背中を見る。

借り物の不安定と、自前の不安定。

どちらが壊れやすいのかは分からない。

ただ確かなのは、いま剥き出しのまま歩いているということ。

そして胸の奥でも、凪いでいた水面に、はっきりとした波が立ち始めている。

借りていないのに。

誰にも渡していないはずなのに。

理由の分からない揺れが、確かにある。

小さい。

だが無視できない。

店を見ない。

背中も追わない。

ただ内側の震えから目を逸らさずに立っている。

初めて、不安定を外に求めずに感じている。

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