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感情のレンタル屋  作者: おこげ


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第2章 怒りを借り続ける中年

あの夜以来、あの店には近づいていないし、近づかないと強く決めたわけでもないのに、帰り道だけは自然と変わり、遠回りになると分かっていながら別の通りを選び、その結果わずかに遅くなる帰宅時間を、ただの気分の問題として処理している。

借りなかった。

あのとき、何も言わずに帰った。

それだけだ。

それだけのことなのに、あの扉の前を通るのは、内側の何かを再び測られるような感覚があり、それを避けるように足が向きを変える。

その夜、駅前は珍しくざわついていた。

酔客でも若者でもなく、スーツ姿の中年の男が歩道の中央で立ち止まり、携帯電話を握りしめたまま、長いあいだ押し込めていた声を抑えきれずに溢れさせている。

「それは違う、ずっと違うと思ってた」

怒鳴ってはいない。

だが声は震え、言葉は荒れ、沈殿していた何かが急にかき混ぜられたような不安定さが背中から滲む。

足が止まる。

関係のない他人。

ただの通行人。

それでも、その揺れ方には覚えがある。

硝子瓶の赤。

「構いません」と言い切った声。

「俺は、あの時、納得してない」

言葉が途切れ、呼吸が乱れ、通話は突然切れる。

周囲はすぐに流れを取り戻すが、男だけがそこに残り、肩で息をしながら俯いている。

不安定だ。

社会的に見れば、みっともない瞬間かもしれない。

感情を制御できない大人。

だが、言った。

飲み込んできたものを外へ出した。

やがて顔を上げ、震えの残る手でネクタイを締め直し、誰に向けるでもなく呟く。

「これでいい」

強くはない。

むしろ危うい。

後悔を含んだ声だ。

それでも、自分の言葉を自分で引き受けようとする重さがある。

内側は静かだ。

驚きも怒りも衝動もない。

状況を理解し、整理し、均された水面のように波立たない。

借りなかった。

だから揺れていない。

だから失敗もしていない。

だが、あの男は揺れている。

壊すかもしれない。

関係を失うかもしれない。

それでも、言葉を外へ出した。

不安定になることは損失だろうか。

それとも、選択の証だろうか。

男は歩き出す。

足取りは整っていない。

だが止まってはいない。

こちらも歩き出す。

一定の歩幅で、乱れない呼吸で、社会に適した速度で。

そしてふと、かつて店に預けた何かが単なる感情ではなく「揺れる許可」だったのではないかという考えが浮かびかけ、すぐに思考の外へ押しやられる。

思い出さなければ、安定は保てる。

だがあの背中は鮮明に残る。

帰宅後も内側は静かなままだ。

テレビの音も、冷蔵庫の唸りも、窓の外を走る車の気配も、すべて平坦に処理される。

それなのに、駅前で震えていた肩だけが繰り返し再生される。

後悔するだろうか。

明日の朝、言い過ぎたと思うだろうか。

関係を壊したと悔やむだろうか。

だが悔やむとしても、それは何かをした結果だ。

こちらは何もしていない。

借りなかった。

言わなかった。

選ばなかった。

理屈はそれが賢明だと告げる。

社会は安定した人間を好む。

均された感情は扱いやすく、摩擦が少なく、誤差が出ない。

それでも布団に横たわると、「これでいい」という声が具体的な質量を伴って蘇り、その重さが内部の軽さを際立たせる。

軽い。

傷もつけていないが、刻みもしていない。

翌日、同じ時間、同じ場所に男は立っている。

偶然かもしれない。

習慣かもしれない。

誰かを待つ様子で、視線は落ち着いているが、わずかな緊張が残る。

逃げなかったのだと思う。

昨日の続きを今日へ持ち越している。

通り過ぎようとする。

関わる理由はない。

だが足が一瞬だけ遅れる。

視線が合う。

それだけで胸の奥に微細な違和感が走る。

軽く会釈をされる。

「昨日は、すみません」

声は落ち着いているが、完全には整っていない。

「少し、取り乱して」

首を振る。

それ以上の言葉が出ない。

内部が凪いでいるせいで、慰めの形が見つからない。

小さく笑う。

「でも、言えてよかったんです。長いこと、黙っていたので」

返せない。

黙っていることのほうが得意だからだ。

「怖いですよ、不安定になるのは。でも、ずっと安定しているのも、息が詰まる」

喉がわずかに乾く。

「揺れると壊れるかもしれない。でも、何も揺れないと、自分がどこにいるのか分からなくなる」

会社と家の往復。

規則正しい生活。

摩擦の少ない人間関係。

座標はある。

だが、自分の位置はない。

「大丈夫ですか」

唐突な問い。

「揺れていない顔をしているから」

責める響きではない。

ただの観察。

答えられない。

揺れていないのは事実だ。

だがそれが大丈夫と同義なのか分からない。

やがて待ち人を見つけ、手を上げて歩き出す。

足取りはまだ不安定だ。

それでも昨日より迷いが少ない。

その背中を見送りながら、かつて預けたものが感情ではなく「揺れる覚悟」だったのではないかという考えを、今度は追い出さず、そのまま内側に置いてみる。

置いただけで何も変わらない。

それでも、完全な凪ではいられなくなる。

それが小さな波なのか、亀裂なのかは、まだ分からない。

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