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感情のレンタル屋  作者: おこげ


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第1章 空の男

感情がない、という言い方は正しくなくて、正確に言えばそれは存在しないのではなく、ただ薄く、あまりにも薄く、触れたかどうかもわからない霧のように広がっては消えていくものだった。


 怒りは湯気のように立ちのぼったかと思えばすぐに空気へ溶け、喜びは水面に落ちた小さな雨粒ほどの波紋しか残さず、悲しみは胸に届く前にどこか遠くで蒸発してしまうから、何かを失ったはずの記憶でさえ、遠い出来事のように整然と棚へ収まっていた。


 だから困ることはなかったし、壊れることもなかったが、そのかわり、何かを強く望むことも、取り返しがつかないと震えることもなく、ただ毎日が摩擦の少ない布のように静かに擦れていくだけで、そこには傷も跡も残らない。


 夜間のデータ監視室でモニターを眺め続ける仕事は、そんな自分に都合がよく、警告音が鳴れば確認し、異常があれば報告し、問題が解消されればログを閉じる、それだけの繰り返しが、妙にしっくりと身体に収まっていたし、誰かの感情に巻き込まれることもない閉じた空間は、温度の一定した水槽のようで、呼吸をするのにちょうどよかった。


 焦らないし、苛立たないし、達成感もないが、失敗の痛みもないという状態は、幸福とは呼べなくても安定とは呼べるはずで、少なくとも自分はそれを疑ったことがなかった。

 同僚に一度、「お前、機械みたいだな」と言われたことがあったが、そのときも特に何も感じず、否定も肯定もせず、ただそうかもしれないと思っただけで、その言葉が胸のどこにも引っかからなかったこと自体が、今思えば奇妙だったのかもしれない。


 その日も雨が降っていて、仕事を終えた午前四時、始発までの中途半端な時間を潰すために普段は通らない路地へ足を向けたのは、気まぐれというより、やけに雨音が耳に残ったからで、世界が少しだけ輪郭を持ちすぎているような気配から逃げたかったのかもしれない。

 古びた商店街の奥に、一軒だけ灯りのついた店があった。

 木の看板が雨に濡れながら揺れていて、そこには墨で書いたような文字が並んでいる。


 ――本日、覚悟あります。


 意味は理解できるのに意味が通らない文章で、冗談なのか商売なのかもわからず、それでも視線が離れなかったのは、好奇心というより、空白に小さな亀裂が入ったような感覚が胸の奥に走ったからで、それが不快なのか期待なのか判別できないまま、扉に手をかけていた。

 鈴の音は、思ったより澄んでいた。

 店主は年齢の判別がつかない顔をしていて、若くも老いても見え、男にも女にも見え、ただこちらを正確に見ているという事実だけがはっきりしている。


 棚には小さな瓶が整然と並び、淡く光る液体がそれぞれ違う色を宿していて、怒り、恋、安心、覚悟、罪悪感、執着、といった文字が静かに貼られており、それらが商品として陳列されている光景は、奇妙なはずなのにどこか整いすぎていて、否定するための足場を与えてくれない。


「どの感情にしますか」

 説明より先にそう言われ、冗談だと思うべき場面なのに、なぜか笑う気になれず、むしろこの状況を拒絶しない自分のほうが異物のように感じられた。

「飲み物ですか」

「体験です」

 店主が差し出した小瓶の中で、赤い液体がゆらりと揺れ、その色がやけに生々しく、まるで体温を持っているかのように見えた。

「怒り。初回は軽めがおすすめです」

 断る理由を探したが、強い拒絶も浮かばず、値段を尋ねると、「あなたはもう預けているので」と静かに返され、その言葉だけがわずかに引っかかる。

 預けた覚えはないはずなのに、即座に否定しきれない曖昧さがあって、それを追及するほどの衝動も湧かないまま、瓶を受け取り、言われるままに胸へ当てた。

 次の瞬間、内側へざらりとした熱が流れ込み、それまで均一だった世界の輪郭が急に硬質な線を持ちはじめ、雨音が針のように刺さり、遠くの車のエンジン音が不快な振動として背骨を伝った。

 店を出た途端、水たまりを踏む足音がやけに耳障りで、信号が赤に変わっただけで胸の奥がざわつき、向こう側で傘も差さずに横断歩道を渡る若者の姿に、理由のわからない棘のようなものが突き刺さる。

 なんで守らない。

 なんで平気なんだ。

 気づけば口が動いていて、「危ねえだろ」と自分の声が雨を切った瞬間、自分が他人に対して怒っているという事実が、遅れて衝撃として胸に落ちる。

 怒りは熱を持ち、形を持ち、方向を持っていた。

 それはただの刺激ではなく、世界に対してこちらから何かを返そうとする力で、その力が身体の奥から湧き上がる感覚は、怖さと同時に奇妙な充足を伴っていた。

 帰宅後も熱は消えず、濡れた服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びても、湯の温度とは別の温かさが胸の内側で揺れ続け、鏡に映る自分の目がわずかに強く見えることに気づいたとき、初めて「変化」という言葉が頭をよぎる。


 変わった。


 ほんの少しだが、確実に。

 布団に横たわっても心臓はいつもより速く、まぶたを閉じると、さきほどの若者の顔や雨粒の跳ねる様子が鮮明に浮かび、世界がこれほど具体的な質量を持っていたのかと遅れて理解する。

 痛い。

 だが確かだ。

 その確かさが、空白だったはずの自分の内部に細い杭を打ち込み、そこに初めて何かが固定される感覚をもたらす。

 明日も、あの店に行こう。

 その決意は静かで、しかし今までになく重みがあり、まるで自分が自分に命令しているようでもあり、あるいはようやく欲望らしきものを持った証のようでもあった。

 怒りはまだ、胸の奥で微かに燃えている。

 消えてほしくない、とさえ思いながら。

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