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明賢の物語(日本建国物語)正式版  作者: 大和草


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81話 運命

1606年。

明賢が十六となった年、日本政府を樹立してから三年が過ぎていた。


新政権はまだ若く、各地には不安と期待が入り混じって残っていた。

明賢は徳川家康の名を背に、地方との調整と説得のため、日本中を駆け回る日々を送っていた。


その旅の途中、京都で一夜の休息を取ることになった。

国賓として迎え入れられた明賢は、数ある宿の中でも最も格式の高い一軒に案内される。


松屋旅館

その宿で、明賢は出会った。


給仕として現れた一人の少女。

その顔を見た瞬間、明賢の思考は完全に止まった。


息が詰まる。

胸の奥が、強く締め付けられる。


間違えるはずがなかった。


前世を共に生き、何十年も寄り添い、老い、別れた妻。


その面影と、あまりにもよく似ていたからだ。


年齢も、立場も、時代さえも違う。

それでも、分かってしまう。

長い年月を共に過ごした者だけが知る、その人の顔だった。


明賢は、その夜ほとんど食事の味を覚えていなかった。


部下が買い出しのため席を外し、一瞬だけ訪れた静寂の中で、明賢は意を決して声をかけた。


「すまない、君の名前を、教えてくれないか」


少女ははっと顔を上げた。

疑問と緊張が入り混じり、身体がわずかに強張る。


「松屋旅館の長女の名を、まつと申します」


「この旅館の娘さんだったのか」


明賢は、できるだけ穏やかに続けた。


「歳はいくつなんだ」


「今年で、十二になります」


その答えを聞いて、明賢は静かに息を吐いた。


「すまないな。君を呼び止めてしまって」


まつの肩が、びくりと震える。


「君の親御さんを、呼んでもらえないだろうか。訳があるんだ」


その言葉に、まつの顔から血の気が引いた。


今にも泣き出してしまいそうなほど、必死に唇を噛みしめている。


何か、してしまったのだろうか。

自分が失礼を働き、怒りを買ってしまったのではないか。


この人は、徳川家康の直属の付き人と言われていたはずだ。

国を動かすほどの人物だと、宿の者たちは口々に言っていた。


もし怒りを買えば、家は取り潰されるかもしれない。

父も、母も、弟たちも、すべて自分のせいで


まつは、必死に涙を堪えながら、小さく頭を下げた。


すると、明賢は静かに言った。


「先に結論を言おう」


まつは、息を呑んだ。


「まつよ。私の正妻になってくれないか」


一瞬、時間が止まった。


「私は君に、一目惚れしてしまった。十八で成人を迎える。その時、君と結婚したい」


言葉は淡々としていた。

だが、そこに迷いはなかった。


まつは、驚きのあまり完全に固まってしまった。

目の前の少年は、国賓として扱われるほどの高貴な身分。

その人物から、突然求婚されたのだ。


「そういえば、自己紹介を忘れていたな」


明賢は、少し困ったように微笑んだ。


「私は葛城明賢。歳は十六。徳川家康殿に仕える、思案役だ」


その名を聞いた瞬間、まつの胸が大きく跳ねた。


「君の親御さんと、正式に話し合いたい。君を、私の正妻として迎えたい」


一拍、間を置いて、明賢は言葉を和らげる。


「すまない。嫌だったか?もしそうなら、ここで話は終わりだ」


そして、ゆっくりと続けた。


「だが、もし了承してくれるなら君の親を呼んできてほしい」


まつの頭は、まったく回っていなかった。


求婚。

それだけでも信じ難い。


ましてや、それを口にしたのが、国の支配層に連なる人物であること。


そして何より

自分を好きだと言ったこと。


すべてが、常識からあまりにもかけ離れていた。


この時代、男性が女性に求婚することなど、ほとんどない。

結婚は家と家の取り決めであり、当人の意思など意味を持たない。


高貴な身分の者は、同等の身分の者と結ばれる。

それが当然だった。


なのに。


この明賢という高貴な方は、旅館の娘である自分と結婚したいと言った。


聞き間違いではないか。

何かの冗談ではないか。


そう思おうとした。

だが、目の前の少年の表情は、あまりにも真剣で、冗談とは程遠かった。


間違いなく、自分は今、求婚されている。


その事実だけが、胸の奥で重く響いていた。


もし、これが本当なら。

私は、一生分の運を使い果たしてしまったのではないだろうか。


本当に、私でいいのだろうか。

そんな疑問が胸の中で渦を巻く。


まつは混乱したまま、軋む階段を一段一段、ゆっくりと下りていった。

足が震えているのが、自分でも分かる。


一階では、家族が固まったように待っていた。


父も、母も、弟たちも、誰一人として声を出さない。

ただ、怯えきった目で階段を見上げている。


まつが、何をしでかしてしまったのだろうか。

この家は、取り潰されてしまうのではないか。


それだけなら、まだいい。

だが、国賓の怒りを買ったとなれば、家族全員が打首になってもおかしくない。


そんな最悪の想像が頭を支配し、恐怖で喉が締め付けられ、誰も言葉を発することができなかった。


そこへ、まつが姿を現した。


泣いてはいなかった。

だが、笑っているとも言えない。

疑問と戸惑いと、わずかな安堵が入り混じった、不思議な表情だった。


その顔を見て、家族はとりあえず理解した。


少なくとも、悪い話ではなさそうだ。


その事実だけで、張り詰めていた空気が、わずかに緩む。


しかし。


次の瞬間、まつが放った言葉が、その場の空気を完全に凍り付かせた。


「あの方に、求婚されました」


誰も、その意味を理解できなかった。


「は?」


父の口から、かすれた声が漏れる。


「結婚したい、と言われました」


信じられなかった。


将軍に限りなく近い立場の人物。

国の中枢に連なる、高貴な身分。


そんな方が、このような、ただの旅館の娘と結婚したいなど


冗談にしか聞こえない。

だが、まつの表情は真剣で、嘘をついているようには見えなかった。


恐怖は消えた。

代わりに現れたのは、理解不能という名の混乱だった。


家族は互いに顔を見合わせ、誰一人として、どうすればいいのか分からずにいた。


父は、明賢と話すことを決めた。


だが、何をどう話せばよいのか、まるで分からなかった。


相手は国賓。

将軍家に連なる高貴な身分。

言葉一つ間違えれば、家の命運どころか、一族の首が飛ぶ。


それでも、娘の人生がかかっている。


父は腹を括り、静かに客間へと足を運んだ。


一方、明賢は畳に正座しながら、内心で思案を巡らせていた。


(あまりにも、急ぎすぎたかもしれないな)


会ってから、まだ一日も経っていない。

それにもかかわらず、正妻としての求婚。


(失礼なことを言ってしまっただろうか。断られても仕方がないな)


そんなことを考えているところへ


「失礼いたします、明賢様」


松屋旅館の亭主である、まつの父が入ってきた。


深く頭を下げ、緊張で強張った声で切り出す。


「先ほど、まつからお話を聞きました。娘に、求婚されたと、それは、本当でしょうか」


明賢は迷いなく答えた。


「本当ですよ」


あまりに素直な返答だった。


「つい、一目惚れしてしまってね。もし結婚を許していただけるなら、ぜひ娘さんを、私の正妻として迎えたい」


父は息を呑む。


明賢は、言葉を続けた。


「ただ、正直に申し上げますと私はこれから、日本中を飛び回る身になります。とても忙しくなるでしょう」


一瞬、視線を落とし、

それから真っ直ぐ父を見た。


「そのため、この旅館からまつさんを連れ出してしまうことになるかもしれません。それでも、許していただけるでしょうか」


そして、少し困ったように笑った。


「無理でしたら、断っていただいて構いません。急なお願いですからね」


その言葉に、父はしばらく沈黙した。


畳の目を見つめ、拳を膝の上で固く握りしめる。


やがて、顔を上げ、はっきりと答えた。


「いえいえ、とんでもございません」


そして、深く、深く頭を下げた。


「結婚を、許可いたします」


声は震えていたが、迷いはなかった。


「まさか、このような高貴なお方に娘を貰っていただけるとはこれ以上ない、光栄でございます」


畳に額が触れるほど、頭を下げながら。


「どうか、どうか、よろしくお願いいたします」


「それでは、まつさんを呼んできていただけますか」


明賢は、父に向かって静かに言った。


「大切なお話があります」


父は一度うなずき、部屋の外へ出ると、階段の下から声を張り上げた。


「まつ。明賢様がお呼びだ」


その声に応え、まつはゆっくりと階段を上り、明賢の部屋へと入ってきた。


先ほどまでの怯え切った表情はなく、不安は残しつつも、どこか覚悟を決めた顔をしていた。


明賢は、まつを正面から見つめて言った。


「あなたのお父様から、直接、結婚の許しをいただきました」


まつの目が、大きく見開かれる。


「来年、私は成人を迎えます。その時に、正式に結婚しましょう」

 

明賢は現実を包み隠さず告げた。


「それまでは、私についてきてもらいます。これから始まるのは、非常に長い旅です」


「この宿へ戻れるのは……十年後か、あるいは二十年後になるかもしれません」


「あなたに、やってもらわなければならないことも多い。楽な道ではありません」


そして、問いかけた。


「それでも、よろしいですか」


部屋は、しんと静まり返った。


まつは一度、小さく息を吸い、迷いのない声で答えた。


「大丈夫です」


その目は、まっすぐだった。


「明賢様の正妻として、お仕えしたいと思います」


その言葉を聞き、明賢は静かにうなずいた。


「ならば、よろしいですね」


立ち上がり、決断を告げる。


「私たちは、明日出発します」


「支度をしておいてください」


こうして

松屋旅館の長女・まつの人生は、一夜にして、大きく動き出した


明賢の部下たちは、物資の買い出しを終えて旅館へ戻ってきた。


玄関に近づいた瞬間、先程とは明らかに違うざわめきが耳に入る。


「なんだか、騒がしくありませんか?」


部下の一人が首をかしげながら尋ねた。


「旅館の人たちが落ち着かないようですが、何かあったのですか?」


明賢は、こともなげに答えた。


「ああ。この旅館の娘に、求婚した」


「はぁ!?」


思わず全員の声が揃った。


「い、いったい何をしているんですか!」


「結婚というのは、本人同士ではなく、家長が決めるものですよ!」


「家主の了承がなければ、そもそも成立しません!」


明賢は少し首を傾げて言った。


「それなら、さっき父親に認めてもらったところだが」


「えぇ、もうそこまで話を進めてしまったのですか」


別の部下が、今度は別の点に気づく。


「というか明賢様、まだ成年ではありませんよね?」


「今は結婚できないのでは?」


「ああ、その件なら問題ない」


明賢は淡々と続けた。


「彼女には我々と共に行動してもらい、来年、私が成年を迎えた時に結婚することにした」


部下たちは、言葉を失った。


「勝手に、どんどん話を進めていきますね」


「家康様には、なんと説明するおつもりですか、これは」


少し考え、明賢は答えた。


「将来の妻が決まった、とでも言えばいいのではないか?」


沈黙。


やがて、一人が諦めたように言った。


「もう、好きにしてください」


「どうもありがとう」


明賢は満足そうにうなずいた。


「それでは、出発のための支度をしようか」


その夜、松屋旅館は、かつてないほどの騒がしさに包まれていた。


次の日の朝、まだ町が完全に目覚めきる前、薄い朝靄の中で明賢たちは身支度を整え、旅館の前に立っていた。


昨夜の騒がしさが嘘のように、辺りは静まり返っている。

冷えた空気が、これから始まる長い旅を予感させていた。


明賢は旅館の主人、まつの父の前に進み出て、深く一礼した。


「どうも、お世話になりました。それと娘さんは、私がお預かりします」


父は一瞬だけ表情を引き締め、そしてゆっくりとうなずいた。


「どうか、よろしくお願いいたします」


まつは一歩前に出て、家族に向かって丁寧に頭を下げた。


「お父様、お母様、ありがとうございました。行ってまいります」


その声は震えていたが、目はしっかりと前を向いていた。

家族は言葉をかけようとしたが、何も言えず、ただ見送ることしかできなかった。


「それでは、行こうか」


明賢の一言で、切り替わる。


「次の目的地が、我々を待っている」


明賢は馬にまたがり、手を差し出した。

まつは一瞬だけ実家の方を振り返り、そしてその手を取った。


馬の後ろに乗せられ、しっかりと明賢の背に掴まる。


蹄が地面を打つ音が、静かな朝に響く。


こうして、葛城明賢と、その正妻となる少女まつは、戻る時期すら定まらぬ長い旅へと旅立った。


その背中を、松屋旅館の人々は、いつまでも見送っていた。

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