308話 テセウスの保管庫
歴史資産の総収集・総保存が始まる
1:文化財収集班(歴史科・考古科)が編成
新領土の統治が安定し始めると、日本政府は次の段階へ移行した。
それは資源開発でも、軍事拡張でもない。
人類の歴史そのものを保存する計画であった。
陸軍の進駐部隊や工兵隊の後を追うように、文部科学省直属の特別組織「歴史資産保護班」が世界各地へ派遣されていった。
彼らは軍人ではない。
大学教授級の知識を持つ歴史学者。
考古学者。
建築史研究者。
古文書の専門家。
美術史家。
保存科学の技術者。
日本国内から集められた、各分野の専門家たちである。
出発前、明賢は彼らにこう語った。
「軍は国を守る。」
「だが諸君らは、人類の記憶を守る。」
「後世の人々が過去を知ることができるのは、諸君らの働きにかかっている。」
専門家たちは静かに頭を下げ、それぞれの目的地へ向かった。
世界各地で始まる調査
彼らが到着すると、最初に行うのは徹底した調査だった。
どこに遺跡があるのか。
どこに古文書が眠っているのか。
何が失われつつあるのか。
現地の長老。
神官。
修道士。
役人。
職人。
あらゆる人々から話を聞き、地図へ書き込んでいく。
「この山には古い神殿がある。」
「地下に王の墓が眠っている。」
「古い巻物が修道院に残されている。」
そうした情報は、一つ残らず記録された。
やがて彼らの手元には、世界中の文化財情報が集まっていった。
2:脆弱な文化財は耐環境ケースで輸送
調査の結果、今にも失われそうな文化財については優先的な保護が始まった。
特に危険視されたのは、
紙
布
木材
土器
木簡
壁画の断片
レリーフ
染織品
などである。
湿気。
虫害。
火災。
戦乱。
これらによって失われる危険が極めて高かった。
日本は知識を活用し、
耐湿。
耐虫。
耐酸。
防振。
これらを考慮した特殊な保管ケースを製造した。
文化財は一つひとつ丁寧に梱包され、振動を最小限に抑えながら輸送されていく。
ある考古学者は、千年以上前の写本を箱へ納めながら呟いた。
「これを失えば、二度と取り戻せない。」
「だから一枚の紙であっても、守らなければならない。」
古文書の四段階保護
特に重要な古文書については、厳格な保存手順が定められた。
第一段階:デジタルスキャン
全文を高精細で記録する。
第二段階:写真記録
表紙。
破損箇所。
筆跡。
装飾。
すべてを撮影する。
第三段階:複製作成
耐酸性紙を用い、可能な限り原本を再現した複製を作る。
第四段階:原本保存
温度と湿度が管理された保管庫へ収蔵する。
つまり、たとえ原本が失われても、
内容。
形状。
材質。
筆跡。
そのすべてを後世へ残せるようにしたのである。
3:宗教的価値の高い物は文化財保全として扱う
日本はもう一つの原則を定めていた。
「信仰を奪わない。」
宗教的価値を持つものについては、
聖具
祭器
聖書
神像
祭壇
儀式道具
などを、原則として現地へ残した。
所有権も移転しない。
勝者として持ち去ることもしない。
代わりに、
保護。
修復。
調査。
記録。
複製。
スキャン。
これらを徹底する。
日本の専門家は答える。
「文化を奪うことはしない。」
「破壊されるなら守る。」
「そして記録だけは、日本が責任を持って保管する。」
その言葉に驚く者は少なくなかった。
歴史的建築物の完全記録
建築物については、さらに徹底していた。
日本政府は、
「将来破壊されても復元可能な状態で残す」
ことを目標に定めた。
そのため、携行式三次元スキャナが各調査隊へ配布された。
世界の建築物を丸ごと記録する
対象は非常に広かった。
城塞
大聖堂
神殿
ピラミッド
市庁舎
要塞
石造りの街区
修道院
民家
小屋
に至るまで、重要と判断された建造物は徹底的に記録された。
寸法。
傾き。
彫刻。
柱。
壁面。
屋内構造。
床の模様。
窓の位置。
一つ残らず記録していく。
その結果、建築物は単なる写真ではなく、立体的なデータとして保存されるようになった。
さらに、
石材。
木材。
顔料。
金属。
漆喰。
こうした材質の分析まで行われ、未来において全く同じものを再現できるだけの情報が残された。
大型建築物の全景記録
巨大建築の調査では、さらに新しい手法が用いられた。
日本製の手動式小型ドローンである。
これによって、
大聖堂の高い塔。
宮殿の屋根。
巨大な彫像。
城壁の外側。
通常では近づけない部分まで詳細に記録された。
空から見た都市。
建築物の全景。
街路の配置。
それらが次々と保存されていく。
「世界そのものを保存する」
歴史資産保護班のある学者は、報告書の最後にこう記した。
「我々が保存しているのは、石でも紙でもない。」
「人が何を信じ、何を築き、何を残したのか、その証そのものである。」
そして日本は、
遺跡。
建築。
古文書。
信仰。
芸術。
それらすべてを記録し始めた。
世界で初めて、人類文明そのものを丸ごと保存しようとする国家へと、静かに変貌していったのである。




