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明賢の物語(日本建国物語)正式版  作者: 大和草


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105/128

105話 汎名到達

汎名パナマへの航路準備


 翌朝、海軍本隊は再び動き出した。


 山番市の浜辺には、規則正しく並んだ艦船の列があった。

 霧の名残がまだ水面に漂う中、船体の鋼鉄だけが朝日に鈍く光っている。


 補給艦では燃料の移送が続き、太いホースを通って重油が低く唸りながら流れ込んでいく。

 淡水タンクへの注水、塩にやられた配管の交換、遠征で痛んだ部品の取り外しと再装着、作業は無言の連携で進められていた。


 機関兵はエンジンルームに潜り込み、ディーゼル機関の振動と音を確かめる。

「よし、回転数、安定」

 汗にまみれた顔でそう呟き、油で汚れた手を布で拭った。


 補給士官たちは冷凍庫の前で温度計を覗き込み、

「マイナス二度、問題なし」

 「血清は最奥へ。揺れが少ない」

 と短く指示を飛ばす。


 ここから先は、補給の間隔が一気に伸びる航路だ。

 忘れ物は、死に直結する。


 甲板に集められた将兵を前に、航海長が告げた。


 「目的地は、汎名――パナマ。

  ここを越えれば、南米大陸の海が見えてくる」


 その言葉に、兵たちは一斉に頷いた。


 風は穏やかで、潮の流れは南へと引き寄せるように緩やかだ。

 だがそれは、優しさではなく誘いに近いものだった。


 明賢は艦橋の上から、静かに山番市の港を見下ろした。


 霧の向こうに、確かに灯が見える。

 人の手によってともされた、小さく、しかし確かな文明の光。


 「残る者たちは、よくやるだろう」


 誰に言うでもなく呟き、そして顔を上げる。


 「よし。行こう。次は、パナマだ」


 その一言で、艦隊の汽笛が鳴り響いた。


 低く、深い音が、未開の海へと長く尾を引いて消えていく。


赤道の海 ― 灼ける航路


 山番市を離れ、艦隊は南へと舵を切った。


 数日が経つにつれ、海風は次第に生ぬるさを帯び、空はどこまでも白く霞み始めた。


 雲は高く、動かない。

 太陽は真上から照りつけ、日中の甲板は、まるで焼けた鉄板のように熱を持つ。


 立っているだけで汗が滲み、制服はすぐに重く湿った。


 「もうすぐ赤道だな」


 航海長がそう呟く。


 羅針盤の針は、目に見えぬ磁場の揺らぎに微かに震え、

 六分儀の金属は熱で膨張し、角度の読み取りが一層難しくなっていた。


 「この辺りは、星よりも太陽が厄介だ」

 航海士が苦笑し、夜の観測記録を何度も見直す。


 船内では、機関室の温度がさらに上昇した。


 ディーゼル機関の冷却水が、まるで生き物のように唸りを上げて循環する。

 機関兵たちは交代で作業に入り、誰一人、長居はしなかった。


 冷凍庫の氷は目に見えて減り、冷やした飲料水は、今や貴重な資源となっていた。


 「熱帯の海ってのは、こうも重たいものか」


 副官が額の汗を拭いながら言うと、前田中将は甲板でロープを張り直す兵たちを見つめ、静かに答えた。


 「この重さを知った者だけが、この海を越えられる」


 昼の海は鏡のように光り、空と海の境が溶け合う。


 そして夜。


 太陽が沈むと、今度は見慣れぬ星々が姿を現した。


 南十字星、日本本土の空では決して見えぬ星座。


 それを見上げる兵たちは、誰もが一瞬、言葉を失った。


 新しい星の下を進む船団は、もはや東洋の艦隊ではない。

 世界の中央を渡る、人類の艦隊の一部として航行していた。


 未知の神話の登場人物のように、彼らは灼ける航路を、一歩ずつ進んでいく。


 その先に、大陸を繋ぐ狭き地、汎名パナマが待っていることを胸に。


 密林の海岸 ― 汎名への道


 十数日に及ぶ航海の果て、ある朝、見張りの声が静かな緊張を帯びて響いた。

 視界の彼方、水平線の上に、これまでとは明らかに異なる色が浮かび上がったのである。


 それは、濃く、重く、圧倒的な緑の壁だった。

 中米の密林、熱と湿気を抱え込んだ森は、まるで海を拒むかのように海岸線へと迫り、巨大な樹木の根がそのまま海水へと沈み込んでいた。

 葉は幾重にも重なり、太陽光を遮り、内部にどれほどの暗がりを抱えているのか想像もつかない。


 湿り気を帯びた風が艦隊に吹き付け、腐葉土と樹液の混じった、甘くも重苦しい匂いを運んでくる。

 甲板の上では、見慣れぬ鳥が旋回し、遠く密林の奥からは猿の甲高い鳴き声が断続的に響いていた。

 文明の海を進んできた船団は、今、まったく異なる世界の縁に立っていた。


「これが、汎名パナマか」


 前田中将は低く呟き、手元に広げた地図に視線を落とした。

 現代の海図と予定航路図を重ね合わせ、指で慎重に海岸線をなぞっていく。

 入り組んだ湾、奥へと伸びる細い水路、そして両洋を隔てる細長い地峡。


 「地図では、この奥に、細い水の道が続いている」

 独り言のように言葉を継ぎ、視線を再び密林へ向けた。

 「ここが、将来、二つの海を分ける。いや、繋ぐ場所になるのかもしれないのか。」


 艦隊は沖合から進路を変え、外海からは目立たぬ湾の外れへと慎重に入り込んだ。

 波は穏やかで、入り江の水面は濁り、静まり返っている。

 錨が下ろされると、低い金属音が水中に吸い込まれ、船体はゆっくりと落ち着いた。


 すぐさま偽装作業が始まる。

 帆布立てに古びた麻布を張り、艦体の金属光沢を意図的にくすませる。

 木目を模した塗装を施し、甲板上の近代的な器具は布で覆われた。

 遠目に見れば、どこかの時代に取り残された旧式の帆船。

 この海域に溶け込むための、静かな仮面だった。


異国の影 ― 西洋人の足跡


 ほどなくして、偵察隊が小型舟を操り、沿岸の様子を探りに出た。

 密林に沿って進み、岬の向こうを慎重に回り、再び湾へ戻ってくるまで、艦内には張り詰めた沈黙が流れていた。


 報告は、艦橋にて行われた。

 「前田様。南の岬の先に、白壁の建物を確認しました。数は三、もしくは四棟……」

 偵察兵は息を整えながら続ける。

 「いずれも十字架を掲げております。さらに、掲揚されていた旗には赤い印が、形状から見て、スペインのものかと」


 その言葉を聞き、艦橋の空気が一段と重くなった。

 前田中将は腕を組み、しばし黙して遠くの水平線を見つめる。

 「やはり、先に足を延ばしていたか」

 感情を抑えた声でそう呟き、静かに続けた。

 「だが、我々の目的は土地の奪取ではない。ましてや戦争ではない」


 艦橋備え付けの双眼鏡を取り、前田は海岸線を覗いた。

 視界の先には、小さな砦と粗末な桟橋があり、その横には異国の帆船が一隻、静かに停泊していた。

 帆は張られ、いつでも動ける状態に見える。

 帽子をかぶった白人の兵が、見張りとして立っていた。


 「偵察は、ここまでにしよう」


 前田中将は短く、しかし明確に命じた。

 「無用な接触は避ける。こちらの存在を深く悟らせる必要はない」

 一拍置いて、さらに言葉を重ねる。

 「我々は外交のためにここへ来た。それ以外の情報は、決して取らせるな」


 命令は即座に伝達され、艦隊は帆を静かに下ろした。

 船団は湾のさらに奥、密林に抱かれるような入り江へと身を潜める。

 エンジン音も抑えられ、波を切る音さえ最小限に留められた。


 夜が訪れると、湿った風が木々の間を抜け、葉擦れの音が低く響く。

 密林の向こうでは、雷鳴が鈍く轟き、空が一瞬だけ白く照らされた。

 暗い海面には艦影が揺れ、まるで森と海と夜そのものが、静かに呼吸しているかのようだった。


 艦隊はその中で息を潜め、新しい世界への一歩を踏み出す、その時を待っていた。

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