9:指輪と決意
エリセーヌとリヒトの間に、何度目かの停滞の時間が流れる。リヒトは言葉を重ねることも、去ることもせず、エリセーヌの反応を待っている。
呼吸さえ憚られるような沈黙の中、エリセーヌはやっとの思いで口を開いた。
「きょ、興味があるって……なんで、そんなこと……」
しどろもどろな言葉に、リヒトは目を細める。
「妻に興味を持つことは、いけないことか?」
「つっ……い、いえ、いけなくはないけど……」
じゃあ最初の『義務です』みたいな無表情は何だったのよ! とエリセーヌは叫びたかった。あの時、リヒトが少しでも感情を見せてくれていたら――エリセーヌは、どうしていただろうか。
右手の指輪に触れる。
「少し、貸してくれ」
リヒトが空の手を差し出したので、エリセーヌはそこに木剣を乗せた。彼は軽く握り直してから、木剣を構える。
(きれい)
リヒトの姿勢には無駄がない。一拍間を置いてから、彼は木剣を振り抜いた。その動きはしなやかで、それでいて力強い。彼が描く軌跡に、エリセーヌは魅入られたように動けなくなった。
「……邪魔をして悪かった」
声をかけられて、我に返る。差し出された木剣を受け取ってから、エリセーヌも彼に倣って構えた。
あの美しい剣に少しでも近付きたい。そう願いながら、木剣を振るう。エリセーヌの剣は、先程よりも少しだけ鮮やかに宙を切り裂いてみせた。
「剣を習っていたのか?」
「……ええ。子供の頃に、嗜み程度だけ」
王族として、戦場で兵たちを鼓舞するためだけの、お飾りの剣術。帝国との間に和平が結ばれ、それが不要になっても、エリセーヌは剣を手放さなかった。
「基礎はできている。習ったことをちゃんと落とし込めているな」
「あ、貴方とは比べ物にならないでしょ」
エリセーヌは視線を逸らした。
(やっぱり、貴方は……戦場にいたのね)
王国にいた頃から知っていた事実――なぜか今、それは重さを増して、エリセーヌの胸にのしかかってくる。
「努力は比べるものではない。君のことを知ることができて、俺は嬉しく思った」
「私のこと、全然知らないくせに……」
「そうだな。だから知りたい」
その言葉が、甘い毒のように心に染み込む。
エリセーヌも、リヒトのことを全然知らない。
(貴方は本当に、村を焼いて人々を殺して回ったの?)
王国での噂と、シャルルの言葉が、頭の中に渦を巻いている。どちらが真実なのかはわからない。けれど今のエリセーヌには、彼が虐殺をするような人間にはどうしても思えなかった。
「……あの、貴方は――」
エリセーヌが疑問を口にしかけた時だった。
「旦那様。お話し中申し訳ありません」
裏口から家令が顔を出して、リヒトに声をかけた。僅かにリヒトの眉が寄ったのを、エリセーヌは見逃せなかった。木剣を握る手に力が籠る。
「領地のことで、ご相談が」
「……わかった。すぐに行く」
家令が一礼して去っていく。リヒトはエリセーヌに向き直った。
「すまない」
「構わないわ。仕事でしょう? 私はもう少し、ここで素振りをしていくから」
「ああ。……また、夜に」
それだけ言い残して、リヒトは返事を待たずにエリセーヌに背を向け、去っていった。
彼がいなくなっても、エリセーヌは硬直したままで、木剣を振るうことはでなかった。
(夜に、って……)
さらりと言われた単語を思い出して、なぜか心臓が跳ねた。
(い、いや、いつも挨拶はしているじゃない。何もないわ。そう、何も……いつも通りよ……)
そう思うのに、エリセーヌは今夜、どんな顔をしてリヒトを迎えればいいかわからなかった。
その夜、湯浴みを終えたエリセーヌは、自室で身支度を整えていた。ドレッサーの鏡に、初夜とは違う面持ちの自分が映りこんでいる。
いつも通りのナイトドレスと、花を思わせる香水を身に纏う。いつも通りじゃないのは、エリセーヌの気持ちだけ。
「ねえ、蒼玉の髪飾りをつけてくれる? ……きっと、今夜も何もないから、邪魔にはならないわ」
パメラは何か言いたげにしていたけれど、のろのろと髪飾りをつけてくれた。部屋の明かりを受けて、澄んだ蒼玉が光を放つ。
「……姫様、いいんですか?」
パメラの声に、不安の色が滲んでいる。
「なんの話?」
エリセーヌはあえて彼女の言いたいことから目を逸らして、明るく返す。右手の指輪に、左手を添えた。
この指輪には、細工がされている。大ぶりの指輪に飾られている赤い宝石を回すと、石が外れて……その下から針が現れる。刺せば人を殺せるほどの猛毒が塗られたそれを、エリセーヌは宝石を戻すことで慎重に仕舞った。
「国王陛下は、リヒト様を殺しても良いと仰いました。それが、和平の条件。王国側の権利だからと」
「……それで?」
エリセーヌの声に、棘が混じる。
「私は、もう噂を信じていないの。王国民の敗戦への不満を抑えるために彼を殺すなんて、そんなのは御免だわ」
「姫様!」
「だからもう、これは要らない。私はちゃんと、あの人の妻になる。それが一番、平和への近道よ」
指輪を外して、ドレッサーの上に置いた。かたんと軽い音がする。
「姫様……ですが……」
パメラの視線が、エリセーヌと指輪を行き来する。
「私は、姫様のお心をお守りしたいのです」
「ありがとう。でも、私は大丈夫よ」
ドレッサーの上に残された指輪。エリセーヌはそれを見つめ、ぎゅっと手を握った。
(――噂が本当なら、私は……)
一粒の懸念はあるけれど、もう、知らずにはいられない。彼がエリセーヌの仮面を剥いだのだから、エリセーヌも彼を知ろうと、そう思った。
「今夜、確かめるわ」
誰に言うでもなく、エリセーヌはそう呟いた。




