8:『エリセーヌ』
エリセーヌは屋敷の裏庭を訪れていた。
森の匂いがする空気を胸一杯に吸い込む。ここは建物と森の間にある空き地で、滅多に人が来ない。ひとりになりたい時にはうってつけの場所だ。
(……よし!)
気合いを入れてから、手に持っていた棒状のものを掲げた。
日傘ではない。あれは一度部屋に置いてきた。エリセーヌは日傘の代わりに、衛兵たちの詰め所から拝借してきた訓練用の木剣を手にしている。ついでに重くて苦しいドレスは脱いで、動きやすいゆったりしたワンピースに着替えていた。
「こういう時は、これに限るわね」
木剣を片手で構え、振り抜く。スカートの裾が翻った。その揺れが落ち着いたところで、また構えに戻る。
二度、三度。そんなことを繰り返しているうちに、剣先に集中できるようになってくる。少しずつ気持ちも落ち着いてきた。
「はっ!」
鋭く息を吐きながらの一閃。
王国にいた時も、こうやってひとりで黙々と稽古をすることで、心の平静を保っていた。そうでなければ、元敵国の、悪い噂のある男のところへ嫁ぐことなど、エリセーヌは到底受け入れられなかった――
「君は、剣が使えるのか」
ふいに聞こえてきた声に、エリセーヌは構えていた木剣を取り落としてしまう。からんと軽い音を立てて、木剣が屋敷の裏口の方へと転がっていく。
ぎこちない動きで振り向いた先、裏口の前に、この場面を最も見られたくなかった男――リヒトが立っていた。
彼はそれ以上何も言わず、足元に転がってきた木剣を拾う。軽い動作で持ち替え、柄の部分をこちらに差し出してくれた。
エリセーヌは木剣ではなく、リヒトの顔をまじまじと見つめる。
(こういう時、私……彼にどんな態度を取っていた?)
自分の言動を振り返って、エリセーヌの頬は赤く染まった。きっと今、自分は酷い顔をしている。とてもじゃないけどお姫様には見えないような、感情的で情けない顔。
「あの。……あ、ありがとうございます」
小声で言って、木剣を受け取る。他にもっと言わなきゃいけないことがあるのに、どうしたってそれが声にならない。口を開けたり閉じたりするエリセーヌを見て、リヒトは微かに笑った。
顔が爆発しそうなくらい、熱い。
「ど、どうして笑うの!」
エリセーヌが抗議すると、ますますリヒトは笑みを深める。
「君には、剣術が似合っていると思った」
落ち着いた声が響いた。爽やかな風が、火照った顔をくすぐるように流れていく。
「ど、どういう意味!?」
「そのままの意味だ」
(そのまま、って……)
エリセーヌはリヒトと見つめ合っていることに耐えられなくなり、戻ってきた木剣に視線を落とした。
こんな服を着て、剣の稽古をしているなんて『エリセーヌ王女』として不適格だ。なのに、どうしてリヒトはそれを肯定するのか。
今までは、耳を塞いで『訳がわからない』と逃げていた。だけど、今のエリセーヌは――
ごくりと、息を呑む。
「……貴方は。王女らしくしなさいって、貴方は言わないの?」
目の前の人が何を思っているのか、確かめたいと思った。リヒトと目を合わせる。瞳に穏やかな光を湛えて、彼は口をゆっくりと開く。
「言わない。君は、君だ」
瞬間、すべての感覚が遠ざかったような気がした。木剣がもう一度、エリセーヌの手からこぼれ落ちる。
エリセーヌとリヒトは見つめ合う。まるで世界にふたりだけでいるかのように、もう目が離せない。胸は強く速く、鼓動を打っていた。
「私……」
ずっと、王女としての役割を果たすためだけに生きてきた。
それを今、目の前にいる人が粉々に破壊してみせて、本物の『エリセーヌ』を引きずり出した。そんなこと、絶対にしちゃいけないのに。
右の薬指で輝く指輪を、壊れるくらい強く押さえつけた。
「……もし、私が――」
エリセーヌは揺れる瞳でリヒトを見上げた。答えが欲しい。聞くのが怖いと思っているのに、もう止まれない。
「私が、貴方に害を与えるかもしれない存在だったら……貴方は、どうする?」
さわさわと、葉擦れの音が届く。
ふたりの間に落ちた沈黙は、永遠のように長く感じられた。
リヒトはエリセーヌを、優しい瞳で見つめる。
「それでも、俺はここにいる」
真っ直ぐに言われて、エリセーヌはぱっと彼に背を向けた。熟れた頬に手をやる。
「そんなの……ずるいわ」
エリセーヌの口から飛び出したのは、そんな可愛げのない言葉。嫌われてしまうかもしれない。そう思うのに、意地っ張りな体は動いてはくれない。
「そうかもな」
リヒトの笑いが混じった声が聞こえる。エリセーヌはぎくしゃくした動きでしゃがみこんで、木剣を拾った。
ぐちゃぐちゃの心を切り裂くように、剣を構えて振るう。力任せの一撃が割ったのは、空気だけ。エリセーヌはもう一度、構えを取った。
「エリセーヌ」
名前を呼ばれた。エリセーヌは振り向かない。剣を振ろうと力を籠めたけれど、腕が震えていた。
エリセーヌは木剣を降ろす。
「そこにいられると、集中できないわ」
「……そうか」
リヒトは確かにそう言ったのに、動く気配はなかった。
「というか、どうしてここに来たの。こんなところに用事なんてないわよね?」
「……木剣を持っていったと聞いたから、様子を見に来たんだ」
全部知られていたらしい。エリセーヌは居たたまれない気持ちになった。
「俺はもう少し、君と居たい」
彼の言葉に、エリセーヌは耳を疑う。反射的に振り向いてしまい、リヒトの紺の瞳と目が合った。
ふたりきりの時間が静かに流れる。
ふいに、初夜のことを思い出した。あの時エリセーヌは『顔色ひとつ変えない』と、彼のことを嫌悪した。
だけど、王女という人形の振りをして本心を隠していたのは、エリセーヌの方だった――
「なっ……なんでよ」
エリセーヌは一歩、リヒトと距離を詰める。
「言っただろう。君に興味があると」
間近で宣言された言葉に、エリセーヌは息を呑んだ。




