7:ひとつの予感
それから、数日。
エリセーヌは今日も、モヤモヤした気持ちを抱えていた。
帝国での暮らしにも少し慣れてきたし、使用人とは顔見知りにもなってきた。次期公爵夫人としての仕事も、少しずつ始めている。
だけど、リヒトとの関係だけは、雲を掴むようにまるで手応えがない。
(あの男、本当に理解しがたいわ……!)
エリセーヌは心の中で叫びながら、中庭に出た。太陽の光が強く照りつけていて、さっと日傘を差してから歩き出す。
広々とした敷地の中で、様々な植物や花が育てられている。自然溢れる環境が祖国を思い出させてくれるから、エリセーヌは空いた時間をここで過ごすのが好きだった。
だけど今日は、リヒトのことが頭をちらついて離れない。
初日にリヒトが言った『愛する努力』とやらは、実行している彼自身が楽しんでいるようにしか見えない。少なくともエリセーヌは――
「…………」
エリセーヌの足が、止まる。
(……不快、ではないわね。腹立たしいも少し違う気がするし……)
しっくり来る言葉が見つからない。
エリセーヌは少しの間、日傘をくるくると回しながら言葉を探したけれど、結局思い浮かばなくて諦めてしまった。あんな男のために、穏やかな時間を浪費してしまうのはもったいない。
リヒトの幻影を頭から無理やり追い出して、花を眺める。
帝国は王国よりも温暖な気候だから、植生が僅かに異なる。王国ではなかなか見られない花たちを楽しんでいると、ふと、前方のトピアリーのすぐ横に、人影がしゃがみこんでいるのが見えた。
風が一際強く吹いて、花びらを散らして舞い上がらせる。
(あの人は――)
エリセーヌは目を瞬かせた。エリセーヌよりも少し年下、16歳くらいだろうか。
少年もこちらに気付いたようだ。さっと立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
公爵邸の庭に、ただの少年がいるはずがない。そんな疑問は、彼の服を正面から見たことでたちまち吹き飛んでしまった。
一見すると帝国風の作業着に見える。けれど襟から覗くのは、鮮やかな色の刺繍――王国風の装飾だった。
どきんと、胸が大きく音を立てる。
「あなた、もしかして……王国の?」
震える声で問いかけると、少年はこくりと頷いてみせた。
「はい、姫様。お会いできて光栄です」
少年はエリセーヌを見て、はにかんだような笑みを浮かべた。その柔らかな表情につられて、エリセーヌも微笑む。
(……良かった)
同じ国の出身というだけで、ずいぶんと気持ちが軽くなった。帝国に来てから伸ばし続けていた背筋から、やっと力を抜けるような感覚がする。
「ありがとう。でもね、私はもう姫様ではないわ」
「すみません、奥様……」
少年があからさまにしゅんとしてしまったので、エリセーヌは慌てた。
「いいのよ。それより貴方、お名前は? どうしてここにいるの?」
彼はエリセーヌの問いかけに少し悩んでから、おずおずと口を開く。
「僕はシャルルと言います。ここにいるのは、リヒト様が助けてくださったからです」
思いもよらない名前が出て、エリセーヌは硬直した。
「…………あの人が?」
日傘を持つ指に力が入る。
「どうして、王国の民である貴方が、帝国人に助けられることになるの?」
「それは――」
シャルルは笑顔を引っ込めた。口に出すのを躊躇うように、視線が揺れ動く。エリセーヌが黙って待っていると、彼はおずおずと口を開いた。
「……5年前の戦争で、僕たち家族は住み処を失いました。その時です。リヒト様とはじめて会ったのは。……最初は、怖い人だと思いました。威圧的で、少しも笑わなくて」
シャルルは言いながら、襟の刺繍に触れた。
「でも、違ったんです」
「……違った?」
エリセーヌは喉の渇きを覚えながら、問いかける。
「はい。リヒト様は僕たちを受け入れて、このお屋敷で仕事をさせてくれました」
(……え?)
エリセーヌはまじまじとシャルルを見た。彼の瞳は真摯で、嘘や偽りの気配はどこにもない。
「それ以来、僕は庭師として住み込みで働かせてもらっています」
シャルルは近くにある花に、そっと手を添えた。優しく、穏やかな表情だった。
(どういうこと?)
エリセーヌは口まで出かかった言葉を飲み込む。シャルルは本気でリヒトに感謝しているのだと、彼の表情が何よりも雄弁に物語っている。
「……そう、なの……」
それだけ言うのがやっとだった。
王国では、リヒトは冷血男と名高く、蛇蝎の如く嫌われている。エリセーヌだって、最初はそれを頭から信じていた。
だけど今は――わからない。
性癖はともかく、彼はエリセーヌに酷いことをしない。そしてシャルルは、身分や素性を隠すことなくここで働いている。
それらの事実が、リヒトが噂通りの人物ではないという証明のように思えた。
居たたまれない気持ちになって、エリセーヌは視線を逸らした。リヒトはここにはいないのに。
「すみません奥様、そろそろ時間なので……」
「あ、ええ。引き留めてしまってごめんなさい。また話しましょう」
「はい!」
シャルルは微笑んで、中庭を走り抜けていく。
その背中が見えなくなるまで、エリセーヌはそこに立ち竦んでいた。
風が吹いて、エリセーヌの日傘が煽られて吹き飛ばされそうになる。
(……私は)
ひとつの予感に、ざわざわと胸が疼いた。
(あの人のことを、誤解していたのかもしれない……?)
日傘をずらして、青い空を見上げる。
降り注ぐ日差しは、先ほどまでよりほんの少しだけ、柔らかい気がした。




