6:寝不足のせい
(……信っじられない!)
エリセーヌは今晩もリヒトのベッドに座り込み、枕を抱き締めていた。今日の出来事を思い出すと言葉にできない感情が込み上げてくる。お姫様の仮面は完全に剥がれていた。
今朝、ダイニングを訪れたエリセーヌの前に、リヒトは姿を現さなかった。聞いたところによると、火急の要件で朝早くに家を出たらしい。
夕食の時間になっても彼は戻らなかった。メイドには「旦那様から、今日は帰れないかもしれないとの言伝がありました」と言われたが、エリセーヌは湯浴みの後から、こうしてリヒトの寝室に居座っていた。
(たまにはちゃんと寝たいけど……)
自室に行かないのは、エリセーヌの意地でもあった。妻という役割を果たしている、少なくともエリセーヌにはその自覚があるのだと、周囲に見せるための演技。
もう日付が変わろうかという時刻になっているが、リヒトは現れない。この屋敷の日常と異なる出来事に、心がさざ波のように揺れ動いた。
(べ、別にあいつの心配はしてないわ。モヤモヤするのは髪飾りを見せられなかったから。あいつの表情を崩してやれなかったからよ……)
心の中であれこれと並べ立てながら、抱えた枕に顔を寄せた。公爵家嫡子として仕事熱心なのはいいことだし、リヒトにエリセーヌと会う義務はない。
なのに、どうしてか落ち着かない気持ちになる。やり場のない感情をもて余して、エリセーヌはため息をついた。
リヒトのベッドで過ごす夜にも、少しずつ慣れはじめていた。自分の中に生まれつつある変化は、正直、嫌じゃない。
エリセーヌは落ちつきなく、ベッドから垂らした足をふらふらさせた。
(……ここに来てから、調子狂うことばっかり)
そんな風に心の中でぼやいた時、扉の外で音がした。重い靴音が真っ直ぐに近付いてくる。
ほんの少しだけ、エリセーヌの鼓動が早くなった。足はぴたりと動きを止め、枕を抱く腕には力が籠る。
足音は扉の前で立ち止まった。エリセーヌはリヒトだと確信する。少し間を置いてから、いつもより控えめなノックの音が響いた。
「……はい」
扉が開き、リヒトが入ってきた。
「エリセーヌ、どうして――」
リヒトの言葉が、不自然なところで途切れた。彼は何故か、エリセーヌが抱いている枕を凝視している。
(……あ、枕を抱くなんて、子供っぽいと思われてしまったかも)
エリセーヌはリヒトの視線をそう解釈し、枕を身から離して脇に置く。何故か彼は咳払いをした。
「……その、どうして起きている?」
彼の視線は、今度こそエリセーヌに向けられていた。
「どうしてって……それは妻として……」
答えを口にしかけてから、エリセーヌは自らの勘違いに気付いて押し黙った。
(……どうして?)
ここにいるのは、妻としての役目のため。
なら、こんな夜中まで寝ていなかったのは、なんのため?
リヒトが問いたいことを理解して、エリセーヌの中から焼けるような熱が込み上げてきた。
「た、たまたまです。眠れなくて」
色付いた頬を隠すように俯く。枕を手放さなければよかったと後悔した。
リヒトが近付いてくる足音がする。
「……眠れていないだろう」
パメラに化粧で目立たなくしてもらっているのに、この男はエリセーヌに都合の悪いことを的確に言い当ててくる。
気付けばもう、リヒトはエリセーヌにかなり接近していた。昨日の記憶が甦る。
「ち、近寄らないで!」
思わず手を突き出しながら、顔を背けてしまった。
……。
リヒトの反応がない。
恐る恐る、顔を前へと向ける。
唇の端にささやかな微笑みを携えて、リヒトはそこに立っていた。彼が笑うところをはっきり見たのは、これが初めてだった。
「な、なぜ笑うのですか……!」
エリセーヌが睨みつけたら、彼はますます笑みを深めた。訳がわからない。
「君は、見ていて…………面白い」
そう言ったリヒトは、いつになく優しい顔をしていた。エリセーヌはもう一度、彼から顔を背ける。
(冷血はともかく、やっぱり加虐趣味はあるわよ、絶対!)
エリセーヌはそう確信した。
「俺の部屋では眠れないなら、自分の部屋に帰ればいい。君が自由に選んで構わない」
リヒトはそれだけ言って、エリセーヌに背を向ける。昨夜とは違って、その背中はどこか優しく見えた。
「待って下さい!」
エリセーヌは咄嗟に彼のガウンの裾を掴んだ。リヒトが振り向く。
「私が書斎に行きます。貴方のベッドをずっと占領するのは申し訳ないから」
「だめだ」
即答された。
「書斎にはベッドがない。俺は従軍経験もあるから、書斎のソファで十分だ」
従軍経験。その言葉が何を意味するのか気付いて、エリセーヌはガウンの裾を放してしまった。ゆるい拘束が解かれても、リヒトはこの場から去っていかない。
(……貴方は本当に、王国で言われているような男なの?)
聞きたかった。でも、和らいでいるその表情を、壊したくなくて――
「なら、ここで寝ていけばいいじゃないですか」
エリセーヌはそんなことを口走っていた。
リヒトが硬直する。自分が何を言ったか遅れて理解して、エリセーヌも息が止まりそうになる。少しの間、無言で見つめ合ってしまった。
先に動き出したのは、リヒトだった。
「……ありがとう」
彼の手がこちらに、躊躇いがちに伸びてくる。エリセーヌは避けない。速い鼓動を感じながら、彼の指を凝視していた。
エリセーヌの頬に触れる――寸前で、彼の手はぱたりと降ろされた。指が握り拳を作る。
「気を遣ってくれる気持ちだけ、受け取っておこう」
「え、それって」
立ち上がろうとしたエリセーヌの膝の上に、リヒトは素早く枕を置いた。まるで、動きを封じるようだと思った。
「おやすみ」
そう言って、リヒトは今度こそ背を向け、書斎に続く扉の向こうへと消えていった。
ひとり残されたエリセーヌは、枕を抱えたまま糸が切れたようにベッドに倒れ込む。
リヒトと話した時間はそう多くないのに、ひどく疲れていた。まだ心臓がドキドキと鳴り響いている。
「……なんなの」
何度目かわからないモヤモヤが、心の中に広がる。なぜか胸が苦しくて、シーツの上で何度もごろごろと寝返りを打った。笑顔が、指先が、頭から離れてくれない。
(なんで、こういう時だけ優しいのよ)
手をいっぱいに伸ばして枕を引き寄せ、また胸に抱えた。
そうこうしているうちに、エリセーヌの意識はまどろみ始める。この2日間、リヒトのベッドでちっとも眠れなかったのに、今日はなぜか簡単に眠りへと傾いていく。
(これは、寝不足のせい、なんだから……)
そう思ったのが最後だった。鍵を掛けることを考えることすらなく、エリセーヌは深い眠りに落ちていった。




