5:蒼玉の髪飾り
2日連続で満足に眠れず、エリセーヌは寝不足だった。顔を洗ってもまだぼんやりした頭のまま、自室のドレッサーの前に座る。
侍女のパメラがさっと化粧道具を取り出して、目の下の隈を目立たなくしてくれた。冴えない顔色も、化粧のおかげで最低限見られるものになる。
「姫様、お疲れ……じゃないのに、どうして寝不足なんですか?」
パメラはエリセーヌの髪を梳かしながら、そんなことを聞いてきた。鏡の中で金色の滝が流れて、落ちる。
「……わかる?」
「ええ。なんとなくわかります。このお屋敷の使用人たちも、気付いているんじゃないでしょうか」
パメラが苦笑いを浮かべる。
(……まあ、そうよね……)
その手の知識に乏しいエリセーヌにも、現状『白い結婚』であることは隠しきれるものでないと、思ってはいる。
妻の役割を果たせていないのではないか――
目の前にある青い瞳は、揺れていた。
「良かったじゃないですか」
パメラが明るい声で言うので、エリセーヌは鏡の中の彼女に視線を向けた。パメラは気にした様子もなく、エリセーヌの髪を結い上げていく。
「……良かった?」
「ええ。だって、無理にされてはいないのでしょう?」
初夜のリヒトの姿が過って、エリセーヌは思わず肩を抱いた。あの時触れられた感触が、まだそこに残っているような気がして、落ち着かない。
「それは……そうだけど……」
絞り出した声は、迷子の子供のようだった。
「姫様の役割はこの国に嫁ぎ、妻として振る舞うこと。身を捧げることを求められないのなら、それに越したことはないのでは?」
パメラの言葉はとても優しい。
彼女はもう何年もエリセーヌに仕えてくれていて、年頃も近く話しやすい。祖国ではたくさんいた侍女の中で、エリセーヌと共に帝国に行くと言ってくれたのは、パメラだけだった。
彼女はいつも、エリセーヌを気遣ってくれる。
「でも……」
その先は言葉にならなかった。
パメラの今日の発言は、どうしても腑に落ちなかった。
昨日のリヒトの背が、焼き付いたように目蓋の裏に張り付いている。
エリセーヌは黙り込んだ。どうして彼の影を振り払えないのか、その理由がはっきりと形にならない。
悶々とするエリセーヌを見て、パメラがふと手を止めた。鏡越しのその瞳には、暗い色が宿っている。
「姫様があんな冷血男に穢されなくて良かったです」
彼女の口から出たのは、刺々しい言葉だった。
「……っ」
その発言が、エリセーヌ自身の心にぐさりと刺さったような感触がした。息を乱しながら、胸に手を当てる。
冷血男。
王国で、リヒト・フォン・ヴァルデンはそう噂されていた。まだ王国と帝国が対立していた5年前、戦場になった国境の村ルアンを焼き払い、そこに住んでいた民を残虐に殺したのが、リヒトだとされているから。
エリセーヌもここに来るまでは、彼にまつわる噂を信じていた。王国ではそれが常識だった。
だけど、今のリヒトを見ていると――
「……冷血、なのかしら」
エリセーヌの唇から、そんな言葉が零れた。思わず口元に手を当てる。そんなことをしても、顕にしてしまった気持ちは、もう取り消すことができない。
「え?」
パメラが目を丸くしている。エリセーヌは鏡の中の自分から、視線を逸らした。
初夜のリヒトは確かに本気だった。エリセーヌを組み敷き、奪おうとした。
彼が変わったのは、エリセーヌが泣きそうになってから。「考えを改めた」と言い、感情の宿った視線をエリセーヌへと向けた。
それをエリセーヌは加虐趣味者だからだと、そう受け取ったけれど――
(でも、本当に冷血で、加虐趣味者なのだとしたら……途中でやめない、わよね)
リヒトは宣言通りエリセーヌを知るために観察して、嫌がったり恥ずかしがっているところを見ては、表情を緩めている。
そこだけ見れば加虐趣味があると思えるのに、彼はエリセーヌが本当に嫌がることは決してしない。
(あの男が、わからない)
どれが本当のリヒトなのか、エリセーヌには見当もつかなかった。
「姫様……姫様は、騙されているのです」
パメラの声はまだ暗く、低い。
「……そうかしら」
彼女の言葉を、今のエリセーヌはもう、素直に受けとることができなかった。
パメラはぎこちない動きで、エリセーヌの身支度を再開した。その手に、エリセーヌが好んで身に付ける白百合の造花がある。王国から持ってきた、王国を思い出せるもの。
でも、今日は気分が乗らなかった。
「待って」
エリセーヌは制止し、自らアクセサリーケースを覗き込む。目についたのは、ひとつの髪飾りだった。帝国で採れた蒼玉を使った品で、結婚祝いにとヴァルデン家から――リヒトから、贈られたもの。
(これを着けたら、あの男はどんな顔をするかしら)
そんなことを考えてから、はっと我に返る。これではまるで、リヒトのことを気にしているようだった。
(ち、違うのよ、たまたまこれが可愛かったから。それだけよ)
心の中で宛先のない言い訳をする。
(それに、あの男の無表情がもし崩れたら……それはそれで、面白いし……)
蒼玉の髪飾りを、手の上にそっと乗せた。
「……今日は、これにするわ」
パメラは何か言いたげにエリセーヌを見た。エリセーヌもパメラに視線を返す。
そのまま数秒。彼女は無言のまま、髪飾りを差してくれた。
それを最後に、身支度が完成する。鏡の中にいるのは迷子でも王国の姫様でもなく、帝国に嫁いだエリセーヌだ。
蒼玉の髪飾りが、光を受けて淡く輝く。
(……私はまだ、あの男のことを何も知らない)
それでも何故か、今日会うのが少しだけ――嫌ではない自分がいた。




