4:王女の失敗
そして、結婚2日目の夜が来た。
エリセーヌは仏頂面で、またリヒトの寝室の、ベッドの上に座っている。
暖炉の薪が弾けて、ぱちんと音を立てた。
(あいつ、一体何なの)
昨日の夜のやり取り。今朝の食事。ドレスの仕立て。全部全部、リヒトが何を考えているのか、エリセーヌにはちっともわからない。
「いや、ちっともじゃないわね……」
呟いた声は、ひとりきりの寝室に飲み込まれて、消えた。
(まさか、本気なの?)
――俺は、君を愛する努力をする。
昨夜のリヒトの言葉が、もう一度耳元で聞こえた気がした。頭を振って、記憶を追い払う。
(本気だったらもっと……なにか、あるでしょ。それに、努力するって何よ)
エリセーヌは恋を知らない。嫁ぐために生まれた王女に、そんなものは必要ない。ただ流行りの恋物語のように、政略結婚でも惹かれ合い、恋が芽生えるのではないかと――そう思っていた。
(そんなこと、ないわよね……)
物語は物語。
エリセーヌの結婚相手は、こちらを押し倒し、泣きそうになった所を見て、「興味が湧いた」なんて言う男だ。
それに、王国では彼の悪評が散々流れている。冷血な加虐趣味者なんて愛したら、一体何をされるかわからない。
「……でも」
エリセーヌはナイトドレスの胸元を飾るリボンに視線を落とす。震える手で、リボンの結び目をいじった。
ロザリア王国の王女としての役割から、目を逸らし続けることはできない。エリセーヌは身を捧げるために育てられ、ここにいる。役割を果たせない自分には、価値がない。
エリセーヌは目を閉じ、何度も深く呼吸をした。
(乱されっぱなしじゃ、だめだわ)
脳裏に浮かぶのは、緑に溢れた美しい祖国の景色。そこを戦火に晒すことは、もう二度としたくない。それが紛れもない、自分の本心だった。
エリセーヌの肩に乗るものは、ひどく重く、けれど捨てられない大切なもの。
(大丈夫。できるわ)
そう言い聞かせた時、昨日と同じくノックの音が響いた。
「はい」
エリセーヌは立ち上がった。緊張で、鼓動が早くなる。
入ってきたのは予想通り、リヒトだった。何も言わずに、こちらに近付いてくる。エリセーヌは微笑んだ。
「お待ちしておりました」
王女として優雅にそう言ってみせたら、リヒトの足が止まった。
エリセーヌはゆっくりと、彼のところへと歩み寄る。目の前に立っても、彼は直立不動のまま動かない。いつもの無表情のまま、エリセーヌを見下ろした。
「今夜は、よろしくお願いします」
エリセーヌにはもちろん経験がないし、こういう時は『男性に任せるもの』だと教わっている。
だから声だけかけて、リヒトを上目遣いで見つめたのだけれど――彼は、表情を変えなかった。
交錯する視線は、夫婦のそれではなく、どちらかというと戦場で敵を目にしている時の雰囲気に近い。
「なんのつもりだ?」
「なんのって……それは……」
さすがに口にするのは憚られて、エリセーヌは俯いた。ナイトドレスの裾が揺れる。
硝子の破片のような沈黙に、身動きすら取れない。
たっぷりこちらを観察していたリヒトが、大きく息を吐いた。
「……触れるぞ」
エリセーヌがこくりと頷くと、リヒトの手が伸びてきた。肩を抱かれ、彼の方に引き寄せられる。
すぐ近くに、冷たい瞳があった。そこに温度はないのに、触れ合ったところからは、ぬくもりが伝わってくる。エリセーヌは逃げ出したい気持ちを堪え、彼に向かって微笑む。
従順な方がきっと、リヒトのことを刺激しない。
エリセーヌの体がふわりと浮き、気付いたら横抱きにされていた。薄着越しに体が密着する。自分とは違う体つきに、エリセーヌの全身は勝手にこわばった。
両手のやり場がなくて、胸の前で固く組む。顔が引きつり笑いになっていないか、それだけが心配だった。
「エリセーヌ殿下」
無機質な声と共に、エリセーヌの体はベッドに降ろされた。昨日と似た状況。間近にある彼の顔。至近距離で視線が交わり、思わず息を呑んだ。
彼の一挙一動に意識が奪われて、目が離せない。
リヒトは、そのまま――ひとりで立ち上がり、エリセーヌに背を向けた。
(なっ……!)
予想外の行動に、エリセーヌはぱっと起き上がった。
「お待ち下さい!」
鋭く呼び止めても、リヒトは振り向かない。
「どうして……」
エリセーヌの質問は、途中で途切れた。何と言えばいいかわからなかった。
リヒトの背中からは、何の感情も読み取れない。そんなのはいつも通りのはずなのに、今のエリセーヌはいたたまれない気持ちでいっぱいだった。
「今日は、ここまででいい」
「ここまでって……」
やはりその先は、言葉にならなかった。
何か言って、それこそ嫌がるところを見せてでも、彼を引き留めなければならない。頭ではわかっているのに、エリセーヌは動けない。
リヒトの広い背が、自分を拒絶する壁のように感じられた。
「慣れない生活で疲れているだろう。ゆっくり休め」
感情の籠らない声を残して、彼は書斎へと続く扉を開ける。
「おやすみ」
振り返らないまま、彼は昨日と同じ言葉を残して、書斎へと消えた。昨日よりも、扉を閉める音が心なしか大きく響く。
エリセーヌはそろそろと扉に近付き、冷たい扉に耳を押し立てた。向こう側からは、何の音もしない。
「……なんなの」
呟いて、鍵をかけた。エリセーヌの手は小刻みに揺れている。カチャ、という音が消えると、寝室はすっかり静かになってしまった。
閉ざされた扉を、何とはなしに見つめる。
訳がわからなかった。
エリセーヌが嫌がれば近付いてくるのに、こちらから近寄れば離れる。
混乱したまま、エリセーヌはベッドにぼすんと座り込む。手持ち無沙汰だったので、枕を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。
(やっぱり、加虐趣味者じゃないの……!)
心の中で叫びながらも、言葉にできないモヤモヤした気持ちが残って、エリセーヌは枕に顔を埋めた。




