3:ずるい人
その日の午後、エリセーヌは応接室を訪れた。舞踏会用のドレスを仕立てる予定で、仕立て屋を呼んでいたのだ。
応接室には既にリヒトと仕立て屋が揃っていた。
エリセーヌは仕立て屋に微笑みかけ、それからリヒトがいるソファに向かった。肘置きにぴったりと張り付くように座る。ふたりの距離は人ひとり分よりも広い。
ちらりと、リヒトが顔だけをこちらに向けた。
彼の表情は、珍しく無ではなかった。怒るでも、不機嫌になるでもない。それどころか、いつもより少しだけ柔らかい雰囲気に見える。そう、あの初夜の別れ際と同じ――
(この男……!)
エリセーヌは自分の手を握り締め、必死に笑顔を保つ。
(人が嫌がっているのを見て喜ぶなんて、やっぱり加虐趣味者じゃないの!)
背筋はぞわぞわするし、平静を装うのは大変だし、本当にこの男に関わるとろくなことがない。
気持ちを切り替えようと、トルソーに飾られている見本のドレスに目をやる。大胆にデコルテを見せるデザインや、体の線がはっきりわかる、すっきりしたシルエットのものが多い。
いかにも帝国らしい華やかで優美なドレスの中に、たったひとつだけ異彩を放つものがあった。他と比べると地味なそのドレスに、エリセーヌの意識は釘付けになる。
胸元には花の刺繍。たくさんのレースで飾られた裾は、ふんわりとやわらかく広がっている。
「あ、これは……」
エリセーヌは思わず声に出してしまった。繊細な刺繍から目が離せない。
「奥様、お気付きになりましたか」
仕立て屋がそのドレスに近付き、ニコニコしている。
「王国で流行りのデザインです。リヒト閣下に用意してくれと頼まれまして」
(……この人が?)
今度はエリセーヌが、顔だけをリヒトに向ける番だった。
「……余計なことは言わなくていい」
「余計ではありませんよ。異国から嫁いでこられた奥様のためでしょう?」
リヒトの眉が、ほんの僅かに寄る。仕立て屋は公爵令息の機嫌など物ともせず、エリセーヌに向き直った。
「さあ奥様、どんなデザインにしますか?」
「そう、ですね……」
仕立て屋が話を振ってくれたから、エリセーヌはよくわからない空気から意識を変えることができた。
顎に手を当てる。
このドレスは、皇帝主催の舞踏会に着ていくものになる。エリセーヌがヴァルデン家――帝国に嫁いだことを強く意識させるパフォーマンスが必要だろう。エリセーヌにとっては戦装束に等しい。
(やはり帝国風に、胸や背を大きく見せる方がいいかしら……)
とはいえ、今までそういったドレスを着てこなかったので、露出を強調するようなデザインには少し抵抗がある。
エリセーヌの視線は、吸い寄せられるように刺繍のドレスに向けられていた。王国で、王女として過ごしてきた日々を思い出して、目を伏せる。
「エリセーヌが好きだと思うドレスを選べばいい」
思考を遮ったのは、リヒトの声だった。
(また、私を監視しているの!?)
エリセーヌは彼を軽く睨んだ。
この男は、これが政略結婚だということを覚えていないのだろうか。帝国にとっては王国など、とるに足らない小さなものなのだろうか。
エリセーヌはドレスの裾を握った。
「そういう訳にはいきません。私は帝国に嫁いだ身です」
リヒトに釘を刺す。中途半端な気持ちで嫁いでいる訳ではないのだと、この男に示さなければならない。
けれど、リヒトは首を横に振った。
「俺は、君らしいドレスがいいと思う。王国から来た花嫁であることを印象付けるのは、悪いことじゃない」
リヒトの返しに、エリセーヌは目を見開いた。全身を震わせながら反論しようと口を開き、けれど何も浮かばずにまた閉じる。
(私、らしさ?)
その一言に、呼吸まで奪われるような錯覚がした。
「胸元は大きく開けずに、その上でレースを使って露出を減らすことは可能か?」
「もちろんです。ベースは流行りのもので、王国風の飾りを取り入れるのはどうでしょう?」
ふたりが揃ってエリセーヌを見つめてくる。
「…………わ、私は……」
言葉に詰まる。無意識に刺繍に目をやったエリセーヌを、リヒトは見逃さなかった。
「刺繍か」
「レースのところに入れれば、可愛らしいと思いますよ」
再び視線がエリセーヌに集中した。顔が熱を帯び、瞳が意思と関係なく勝手に潤む。
「……それで、お願いします…………」
逃げ出したいくらい恥ずかしくて、エリセーヌは赤くなったままの顔を俯けた。こんなの、王女として相応しくない。赤い宝石がついた指輪を、左手でつつく。
ふっ、とリヒトが短く息を吐く音が聞こえた。
(え!?)
エリセーヌがぱっと顔を上げた時にはもう、リヒトはいつも通りの仏頂面に戻っていた。まるで何事もなかったかのように。
(今、笑った……わよね……?)
無表情ばかりの男が、確かに笑った。その事実に羞恥心が込み上げてきて、エリセーヌはふいっと顔を背けた。
(人が恥ずかしがっているのを笑うなんて、やっぱり加虐趣味者だわ!!)
ソファの隅で、体をできるだけ縮こませる。
「では、ドレスを仕立てさせて頂きますね」
「ああ。それから、そこのドレスを貰おう」
リヒトが刺繍のドレスを指差す。彼の目的がわからず、 エリセーヌはぱちりと目を瞬かせた。
「君に似合うと思った。だから、贈らせてくれないか、エリセーヌ」
「……っ!」
その瞬間、エリセーヌは自分で自分がどんな顔をしているかわからなかった。王女としての仮面が、完全に剥がれている。取り繕おうとしても、うまく表情を作れない。
(な、なによ……加虐趣味者のくせに、ずるいわ……!)
エリセーヌはリヒトの視線から逃れるように、さっと扇で顔を隠した。彼が今どんな表情をしているかなんて、少しも知りたくなかった。




