2:わからない
結局エリセーヌは、あまり眠ることができずに朝を迎えた。
背に腹は代えられないとはいえ、エリセーヌがいるのはあの加虐趣味者のベッドなのだ。それに気付いて以降、とてもじゃないけど落ち着いて睡眠を取ることなどできなかった。
「おはようございます、奥様。……お疲れのようですね」
エリセーヌの顔色が冴えないのを見て、ヴァルデン家の侍女がそう言ってきた。彼女の微笑ましいものを見る目に、何か重大な誤解が生まれている気がしたけど、訂正する気力はなかった。それに、訂正しない方がエリセーヌにとっては都合がいい。
身支度を済ませて、ダイニングへと向かう。
「おはよう」
エリセーヌが入室するなり、リヒトが声をかけてきた。その表情は昨日と何ら変わらない。感情をどこかに忘れてきたような無だ。
「おはようございます」
エリセーヌも無表情で挨拶を返す。
ふたりの間に、何とも言えない空気が漂った。侍女がおろおろと視線を彷徨わせる。
(なんで、こっちを見てるのよ……)
値踏みするかのようなリヒトの視線が、どうにも落ち着かない。エリセーヌは努めて、彼の眼差しを意識から追い出した。
やがて、朝食が運ばれて来た。場の空気が変わり、エリセーヌは心底ほっとする。
(……あ)
テーブルに並んだのは、薄切りのバゲットに果物のジャム、ブリオッシュなど、王国風の料理。それ以外に、ロールパン、加工肉を使った料理、ゆで卵といった、帝国風のものもある。
(……どうして)
意図がわからず、伺うように向かい側のリヒトを見つめてしまう。リヒトの眼差しは、相変わらず凪いだ海のような静けさを保っていた。
「好きなものを食べるといい」
そう言って、本人はさっさと料理に手を伸ばしている。――王国風の料理に。
エリセーヌも甘い香りにつられてそちらに手を伸ばそうとして、ふと手を止めた。
(彼の思惑がわからないわ)
伸ばしかけた手を握りしめる。
エリセーヌはもう、帝国の人間だ。帝国人の妻として振る舞う必要がある。それに、不適格な振る舞いをすれば、何をされるかわからない。
エリセーヌは小さく頷いて、帝国料理の方へ手を伸ばした。
「……いいのか?」
「何がです?」
あえて質問で返した。リヒトの紺色の瞳が、エリセーヌを捉えている。
「………………いや」
リヒトは何か言いたげな顔をしていたけれど、結局それが言葉になることはなかった。
そんなやり取りを経て、エリセーヌは改めて食事を始めた。帝国風の料理は、王国風よりも香辛料が効いている。独特の風味が口の中に残った。
エリセーヌは表情には出さなかったものの、少しだけ食べるペースを落とす。
味の慣れだけでなく、真正面にあの男がいると思うと、全く食事に集中できなかった。なるべく彼のことは視界に入れないよう、テーブルの料理だけを穴が空くほど見つめる。
「……帝国風の料理は苦手か?」
声をかけられた。
「え?」
顔を上げると、リヒトと視線が交わる。
「あまり食事が進んでいないように見えた」
「苦手ではありません。慣れていないだけ。帝国に嫁いだのですから、馴染めるように努力をします」
ぴしゃりと言って、また料理を咀嚼した。リヒトの視線が、テーブルに並んだ王国料理とエリセーヌとを交互に行き来する。
「俺にとっては、王国料理は甘味が強いと感じる」
「……ならなぜ、わざわざそちらを食べるのですか」
リヒトが何を考えているのか、少しもわからない。エリセーヌの問いにも、彼は表情を変えなかった。
彼の長い指が、ジャムが入った器に軽く触れる。
「俺が、君のことを知りたいと思ったからだ」
至極真面目な声色だった。
エリセーヌは硬直した。昨日のリヒトの言葉が甦る。あの時と同じように、彼の態度には何ら感情というものが読み取れない。
(どういうつもりなの……)
愛する努力をしたいと言いながらも無愛想で、笑顔ひとつ見せることがない。会話だってろくにない。なのに「知りたい」などと言う、リヒトの姿勢がわからない。
何より、彼に揺らされる自分の心が一番、わからない。
(私は、貴方のことなど知りたくないわ)
そう思うのに、口に出すことはどうしてかできなかった。理由のわからない、モヤモヤとした感情が心の中に広がる。
(だって、婚姻関係を終わらせる訳にはいかないもの……)
リヒトをきっぱりと拒絶できない理由を付けても、心はまだざわついている。
エリセーヌは一度目を閉じてから、ゆっくりと開く。
「……国のために、相互理解は大事ですね」
政略結婚の妻として放った言葉が、静かなダイニングに響く。リヒトが口を開くまで、僅かな間があった。
「……ああ」
意味上では同意している。なのになぜか、彼の言葉は空虚なもののように感じられた。
そのまま、沈黙が続く。
エリセーヌは重い腕を上げ、食事を再開した。こちらの一挙一動は見られている――そんな重圧で、食べるペースは更に遅くなる。
黙々と食事を進めていたリヒトが、食後のお茶も頂かずに席を立った。
「君は、ゆっくり食べるといい」
それだけ言い残して、振り向きもせずにダイニングを出ていった。
エリセーヌはテーブルの上の、王国料理に目を向ける。帝国料理はリヒトが食べていったから、もうあまり残っていない。
向かい側には、空になった席がある。窓からの光が、その椅子を明るく照らしていた。
(……まさか、気を遣ってくれたつもり?)
冷血で加虐趣味者なあの男が?
胸を過る疑問に、エリセーヌは思わず視線を逸らす。少し考えてから、そろそろと王国料理に手を伸ばした。
(もうこれしか残っていないもの、だから仕方なく……よ)
誰にもとなく言い訳しながら、エリセーヌは食事を続けた。




