17:リヒトがリヒトだから
エリセーヌは軽く俯き、上目遣いでリヒトを見上げた。怒りからくる頬の赤みは、きっと恋する乙女のように見えているだろう。
先に我に返ったのはリヒトだった。エリセーヌの手を握り、微笑みを返す。それはまさに、想い合う夫婦のそれ。けれどほんの少しだけ、その笑顔はいつもよりぎこちない。彼の指先は、僅かに震えていた。
皇帝がすっと目を細めた。
「殿下はあの噂をご存じないのかな?」
「噂? そんなもの、信じる理由がどこにありますでしょうか。この国に来て、彼には何度も気を遣って頂きました。屋敷の者たちも彼を慕っています。私は、この目で確かめたものを信じますわ」
「聡明な殿下であれば、もっと『賢明』な判断をされると思っていたよ。王国の民の感情を裏切ることになるのに、それでもリヒトを選ぶのかな」
皮肉たっぷりの皇帝の発言にも、エリセーヌは揺るがない。
皇帝からすれば、悪い噂があるリヒトと引き換えに王国民の溜飲を下げられるのなら、願ったり叶ったりだろう。エリセーヌはそのための駒。そういう性根が、どうしたって気に入らない。
「あら。政略結婚の私たちが愛し合う姿こそが、かつての敵とも手を取り合えるという証。私は、最も賢明な結論と思っています」
迷いなく、はっきりと言いきるエリセーヌに、皇帝は口を閉ざした。招待客たちも、エリセーヌと皇帝のやり取りに耳を傾けている。
「噂は誇張されていくものです。それを正しく訂正することも、王国王女であり、妻でもある私の役目です」
会場に、しんと静けさが広がる。誰もがエリセーヌの言葉に対して、皇帝がどう出るかを待っている。
エリセーヌは気丈に振る舞いながらも、表情を取り繕うので精一杯だった。喉がひりつくように乾いている。繋いだままの手から伝わってくる温かさが、ここに立ち続けるための力をエリセーヌに与えてくれている――
やがて、皇帝のため息が、沈黙の時を終わらせた。
「ならば、殿下のやり方でやってみればいい」
それきり、皇帝は興味を失ったように目を伏せる。力が抜けてふらつきそうになるエリセーヌを、リヒトがさっと支えてくれた。
*
――私は、彼を愛しています。
エリセーヌが言ったその言葉がリヒトの頭に響き続け、いつまで経っても消えない。すぐ隣にいる彼女は、大舞台を切り抜けて力が抜けてしまったのか、珍しく素直にリヒトに支えられていた。
その重みが、リヒトにひとつの問いを突きつけてくる。
(君は……俺をどう思っている?)
あの言葉が本心か嘘か、リヒトは測りかねていた。エリセーヌがリヒトの視線に気付き、軽く唇を尖らせながらこちらを見上げる。
彼女はリヒトの側から決していなくならない。政略結婚とはそういうもの。エリセーヌが皇帝に宣言した通りだ。
なのに今は、その事実が苦しい。
リヒトはエリセーヌから視線を外した。
*
大見得を切って「愛している」と宣言した結果――
エリセーヌは舞踏会中ずっと、仲良し夫婦を演じる羽目になってしまった。
(完全に失念していたわ)
そう悔やんでも、後の祭り。リヒトにぴったりと寄り添い、招待客から冷やかされ続けるのは、新手の拷問かと思った。
(嫌な訳じゃないのよ。でも、恥ずかしいじゃない……)
実際、結婚相手がリヒトではなければ、エリセーヌはきっと顔色ひとつ変えずに妻を演じることができているだろう。リヒトがリヒトだから、困る。
そんなことを考えていたら、同じ年頃に見える貴婦人がエリセーヌたちに近寄ってきた。何を言われるのかと、反射的にエリセーヌは身構えてしまう。
「ごきげんよう、ヴァルデン様。少し夫人をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「私、ですか?」
「はい。わたくしは王国の繊細な刺繍がとても好きで、ぜひ夫人からお話を聞きたいと思っているのです」
そう言った彼女の視線はエリセーヌの胸元、花の刺繍に向けられている。
「そういうことなら、俺は席を外そう」
リヒトはそう言って、エリセーヌと組んでいた腕を外した。彼の温度が遠ざかり、腕が冷たい空気に包まれる。
リヒトはいつも通りの無表情。けれど、彼の眉間に僅かに皺が寄っているのをエリセーヌは見た。
そんな顔のまま、リヒトは他の参加者のところに歩いていって声をかけていた。
彼の背中に、息が詰まるような苦しさを覚える。
貴婦人と刺繍の話をするのは楽しかった。エリセーヌの刺繍の腕は王侯貴族としては下の方、嗜みとして出来る程度だけれど、王国の文化に興味を持って貰えることは素直に嬉しい。
彼女と話をしながらも、エリセーヌの視線はちらちらとリヒトを追いかけていた。貴婦人はそんなエリセーヌとリヒトを見比べて、くすくすと笑った。
「まあ、エリセーヌ様。閣下とは本当に仲の良い夫婦なのですね」
「そ、そうでしょうか……」
「ええ。わたくし、先ほどの演説は和平のための演技かと思っていましたもの。でも、違いますわね」
真正面から指摘されて、エリセーヌの顔は勝手に赤くなってしまう。
照れ隠しで横を向いた先に、リヒトがいた。彼はエリセーヌの視線には気付かず、扉を開けてひとりで会場を出ていく。
まだ、眉間に皺を寄せているのだろうか。彼の顔が見えなかったことが、エリセーヌの心に波を生み出す。
エリセーヌは貴婦人に向き直った。
「話しかけて頂いてありがとうございました。私、彼を追いかけてもいいでしょうか?」
「ええ、もちろん。またお話しましょうね」
貴婦人の柔らかい笑みを背にして、エリセーヌはリヒトが消えた扉へと向かった。
ただ、彼に会いたくて。




