15:その名前
そして、その夜。
「ごめんなさい」
エリセーヌは開口一番に謝った。リヒトのベッドの上で、いつも通りふたりは並んで座っている。間は相変わらず、人ひとりぶんは空いていた。
「何の話だ?」
「今日、シャルルたちから貴方がルアン村でしたことを聞いたの。全部」
エリセーヌがそう告げても、リヒトは身動ぎひとつしなかった。
「私、貴方に酷いことをしたわ。……思い出してしまったでしょう」
「いや。あの日のことを忘れたことはない」
リヒトは黙って目を閉じた。その瞼の裏に、あの日の光景が刻まれているのかもしれない。
「だが、君を失うかもしれないと思って、肝が冷えた」
「ご、ごめんなさい……」
真っ直ぐに言われて、エリセーヌはもう一度謝った。リヒトはエリセーヌを失いたくないと思ってくれている。その事実が、なぜか炎のように熱く胸に灯った。
「でもね、私だって……心配だったんだから」
あんな苦しい思いは、もうしたくない。
隣のリヒトが、半歩分だけ距離を詰めた。エリセーヌは彼を見つめる。どうしてか、鼓動が跳ねた。
「エリセーヌ」
名前を呼ばれて、背筋がぞくりと震える。
「君に、触れてもいいだろうか?」
「な、なんで、そんなことわざわざ聞くの。ほら、空気とか雰囲気とか、あるでしょ。察してよ」
エリセーヌがほとんど肯定しているに等しい抵抗をすると、リヒトは小さく唇の端を上げた。
「君の口から答えを聞きたい」
「なっ!」
エリセーヌは飛び上がった。天蓋付きベッドの柱にくっついて、リヒトと最大限距離を取る。
「や、やっぱり加虐趣味者じゃないの……!」
エリセーヌの唇から漏れた言葉に、リヒトは笑みを深める。
「ああ、そうかもしれないな。君の反応はとても面白いから、つい苛めたくなってしまう」
「くっ……この変態! だいたい、私たち恋人同士じゃありませんし!」
「そうだな、夫婦だ」
「……!」
逃げ道をあっさり封鎖されて、エリセーヌはぱくぱくと口を開いたり閉じたりした。
暖炉の薪が、ぱちんと弾けた音を立てる。
「ま、まあ、嫌ではない……のよ」
戻ってきた声は、僅かに震えている。リヒトから微妙に目線を外しながら、エリセーヌは少しずつ彼へと近付いていった。
ほとんどくっつくようにして、隣に座る。
「……ちょっとなら、いいわ」
それだけ早口で言って、目を閉じた。リヒトが笑う。吐息が顔にかかって、くすぐったいし恥ずかしい。
彼の腕が背中に回って、そっと引き寄せられた。エリセーヌは抵抗せず、胸に顔を埋める。バレないように、ほんの少しだけ頬を寄せた。
「今度、皇帝陛下主催の舞踏会があるだろう」
リヒトの声は、先ほどまでより少しだけ重い。
「……君を、陛下に会わせたくない」
「どうして?」
「君の国を荒らした先代の血を引いているから、君は不快に思うだろう」
エリセーヌはそれを聞いて、くすっと笑みをこぼした。
「そうは言っても、会わない訳にもいかないでしょう。私は和平のためにここにいるんだから」
「それは……そうだが」
納得していないのか、リヒトは黙ったままエリセーヌを拘束している腕の力を強めた。
(……私たちって、何なのかしら)
恋人ではない。けれど、政略結婚の夫婦としては距離が近すぎる。そんな、形容しがたい関係性。
少なくとも今、エリセーヌは自分の意思でこの場所に身を預けている。他の誰かにだったら、絶対にこんなことはしないと断言できる。
それは、エリセーヌとリヒトが夫婦だからというだけではなくて――
「あ、あのね」
エリセーヌはリヒトに話しかけた。沈黙のままだと、彼の熱やら鼓動の音やら、色々気になってしまっていられなかった。
「貴方、『私を愛する努力をする』って言った……じゃない? あれは、どうなったのよ」
「……聞きたいか?」
低い声が耳をくすぐる。
「そうね。貴方の口から聞きたいわ」
先ほどの意趣返しだ。少しでもリヒトが恥ずかしがればいい。そんな風に思っていたのに。
「まだ努力するさ。君が振り向いてくれるまで」
あまりにも真っ直ぐに告げられた言葉に、エリセーヌはリヒトを見て唇を尖らせた。
「……貴方って、時々すごく鈍いのね」
エリセーヌの言葉に、リヒトが目を瞬かせた。彼の胸を押して、腕の拘束から逃れる。
「部屋に戻るわ」
エリセーヌはベッドから立ち上がる。それから思い直して、彼の方を振り向いた。
紺色の瞳が、戸惑うようにこちらを見上げている。エリセーヌは深呼吸をしてから、屈んで彼と目線を合わせた。手を伸ばし、彼の肩を抱いた。
「エリセーヌ……」
驚いているらしいリヒトの頬に、柔らかくキスを落とす。ほんの一瞬だったのに、触れた唇が熱い。
「おやすみなさい!」
耳元で囁いてから、エリセーヌは走って寝室を飛び出した。扉が閉じる寸前、ちらりと彼の顔を確認する。
リヒトは頬に手を当て、顔を赤く染めていた。
(いい気味だわ!)
自身の心臓を爆発させそうになりつつも、エリセーヌは彼の表情に満足して、扉を閉めた。
高鳴る胸をそっと押さえる。
ここに芽生えた気持ちの名前を、エリセーヌはもうとっくに知っていた。




