11:覚悟
慌ただしく閉じられた扉の音を最後に、寝室には静寂が訪れていた。
「エリセーヌ……」
去っていった人の名前を呟く。
リヒトはシーツの上に転がっている髪飾りを、そっと拾い上げた。澄んだ蒼玉はエリセーヌの瞳を思い出させる。
結婚が決まった時は、彼女の顔すら知らなかった。金髪碧眼で、まるで人形のように従順な姫君だと聞いていたから、この髪飾りを贈ったのだが――彼女の本当の姿は、思い描いていたものと大きく違っていた。
(彼女は今日、これをどんな気持ちで着けてきたのだろう)
リヒトはサイドテーブルの上に髪飾りを置いて、ベッドに横になる。エリセーヌが来る前と変わらないはずなのに、なぜかやたらと広く、寒々しく感じた。
久々のベッドだというのに、意識がはっきりしていて少しも眠れそうにない。目を閉じても、浮かぶのはエリセーヌの顔ばかり。
最初は、噂通りの人形だと思った。
敵国の、悪い噂ばかりの男に嫁ぐというのに、彼女は顔色ひとつ変えずにそれを受け入れていた。『和平のために身を捧げる王女』という役割を果たすだけの人形。
それは、リヒトにとっても都合が良かった。自分もまた、和平というものの礎になりたかった。犯した罪を償うために。
それを変えたのは、エリセーヌだった。
お人形遊びのような初夜で、エリセーヌが初めて見せた表情に、リヒトは心を揺さぶられた。
細く、軽い体。真っ直ぐにリヒトを見つめ返す青い瞳。ベッドに押し倒された彼女が浮かべたのは、覚悟と、ある種の怯えだった。リヒトへの怯えではない。彼女はまるで、自分自身を恐れているように見えた。
それがどうにも気になって、『王女』ではなくエリセーヌと話をしてみたいと思った。
日々の中で、少しずつ彼女は感情を見せてくれるようになった。彼女が顔を赤く染めて睨んでくる顔が、リヒトは好きだった。
(こんなことを知られたら、また睨まれてしまうだろうな)
つい、笑みが漏れた。
当初、エリセーヌが帯びていた自分自身への恐れ。それは穏やかな結婚生活の中で少しずつ薄らぎ、今夜で完全に消えた。
そう、思っていたのに――
「彼女は、俺を嫌ったかもしれないな」
エリセーヌは王国での噂を、有耶無耶のままで流さなかった。リヒトを知るために、覚悟を決めて真偽を聞いてきた。
それに、彼女が望む答えを返せなかったのは、他ならぬ過去の自分の罪。それで彼女が離れてしまっても、リヒトには黙って受け入れることしかできない。
エリセーヌの顔が、あの日の『彼女』と重なる。
夜闇と、人々のすすり泣く声。何かが焼ける臭い。
真っ直ぐにリヒトを見返してきた『彼女』と、確かに目が合った。それでも、振り下ろした剣は止められない――
リヒトは起き上がり、もう一度サイドテーブルに置いた髪飾りに意識を向けた。
もしも、彼女が『王女』に戻ったらどうなるだろう。
髪飾りが反射する光を見ている間に、そんな取り留めのない仮定が思い浮かんだ。妻として、王女として、隣に立つエリセーヌは、きっと完璧な振る舞いを見せるだろう。
それでは、本当に人形遊びと変わらない。
エリセーヌの顔を、また見たい。
リヒトは深く息を吐いた。
(俺は、エリセーヌを失う覚悟はできていないらしい)
そう、自分の弱さを嗤った。




