1:王女と公爵令息の政略結婚
上品な意匠の家具が並ぶ寝室。揺れる暖炉の炎を見つめながら、エリセーヌは天蓋付きベッドの端に腰かけていた。
寒くもないのに、体が小刻みに震える。自分の肩を抱くようにして、身を小さくした。
エリセーヌは今日、東の王国から西の帝国へと嫁いできた。帝国に恭順を示すための生贄。和平の上に飾られるお人形――その役割を果たすため、未来の公爵夫人として必要なだけの勉学や作法は、すべて身に付けてきた。
だから、大丈夫。
そう思うのに、こんこんとノックの音が響いた瞬間、エリセーヌの心臓はぎゅっと掴まれたように疼いた。
一度深く息をして、心を落ち着かせる。強張った表情を新妻らしい微笑みへと作り変え、背筋を伸ばす。
手は膝の上へ。エリセーヌの右手にはまっている指輪が、存在を主張するように光を反射した。
「……はい」
上擦った声で返事をした。扉がゆっくりと開く。
そこにいたのは、深い黒髪を持つ若い男――これからエリセーヌの夫となる公爵嫡男。彼はガウン一枚を羽織っただけの姿で、寝室に入ってきた。
エリセーヌの息が早くなる。
(リヒト・フォン・ヴァルデン)
心の中で名前を呟く。幸福な花嫁を演じるエリセーヌとは対照的に、リヒトの顔にはおよそ感情というものが何一つとして存在していなかった。
冷血公爵。王国でそう噂されている通りの男だと思った。
自分に向けられる紺色の瞳を、エリセーヌは真正面から見つめ返す。
「エリセーヌ」
平坦な声で、名前を呼ばれた。
何を考えているのか読み取れない顔のまま、彼はこちらに近付いてきた。エリセーヌは肩を軽く押され、ベッドに倒れ込んだ。
蜂蜜色の髪がシーツに散る。
「あ……」
喉から小さく声が漏れた。リヒトは唇を引き結んだまま、ベッドに上がってくる。音を立ててスプリングが軋んだ。
「構わないな?」
淡々とした声と眼差し。息がかかりそうな程の距離に、見知らぬ夫の顔がある。
(表情ひとつ変えないこんな男に、私は……)
ナイトドレスに手をかけられ、エリセーヌは唇を噛んだ。
「……っ」
目から溢れそうになるものを見られたくないのに、視線を逸らしたら、負ける気がした。精一杯の虚勢で、彼を睨み付ける。
リヒトはそのまま数秒、動かなかった。エリセーヌも縫い止められたようにじっとしていた。
ベッドの上でただただ見つめ合う。奇妙な沈黙が、初夜の寝室に漂った。
「……俺は」
リヒトがぽつりと呟く。言葉を探すように口を閉じて、ゆっくりとエリセーヌの上からどいてくれた。彼は続きを言わないまま、ベッドサイドに座った。
(な、何……?)
全身を強張らせながら、エリセーヌはリヒトの言葉の続きを待つ。自分の鼓動が、やけに大きく聞こえた。
「君を愛するつもりはない」
そう告げたリヒトは仏頂面のまま。その言葉の真意がわからず、エリセーヌの心は先ほど以上にざわついていた。
彼がベッドを降り、立ち上がったので、エリセーヌも起き上がった。ベッドの柱に身を寄せ、リヒトを見上げる。
「では、どういうつもりですか……」
声が震えた。
エリセーヌとリヒトの結婚には両国の関係がかかっている。帝国側は弱小国などどうでもいいと思っているのかもしれないが、エリセーヌにはこの結婚を捨てることなど出来はしない。
「話は最後まで聞け。君とは政略結婚だ。そう思ったが、考えを改めようと思う」
「……はい?」
話が見えず、エリセーヌは思わず素で返してしまった。そんな様子を見て、リヒトがほんの少しだけ目を細める。
「俺は、君を愛する努力をする」
最初、何を言われたのかわからなかった。
再び寝室に沈黙が訪れる。リヒトはもう口を開かない。エリセーヌはぱちぱちと瞬きをした。
彼の台詞の意味が、遅れて思考に落ちてくる。
「な、何故です? これは政略結婚です。愛は必要ありません」
「君に興味が湧いた」
リヒトは顔色ひとつ変えずに、そう言い放った。エリセーヌには、とても『興味が湧いた』という態度には見えなかった。
(い、意味がわからないわ!)
エリセーヌは心の中で叫んだ。自分一人だったら、本当に声に出していたかもしれない。
「興味って、なぜ、突然そんな……」
しどろもどろに言葉を綴り、目を伏せるエリセーヌを、リヒトはじっと見下ろしている。その瞳に、先ほどまではなかった光があるような気がして――
(ま、まさかこの男、私を追い詰めて楽しんでいるの!?)
世の中には加虐趣味者という性的嗜好を持つ者がいると、エリセーヌも知識では知っている。この男もその一人で、こうやって涙目のエリセーヌを弄び、楽しんでいるのではないか。
そんな想像が膨らみ、思わず表情が歪む。
(この、変態……!!)
口には決して出せない罵倒を籠めて、エリセーヌはリヒトを睨む。対する彼は涼しい顔を崩さない。
「……とにかく、私は君を愛する努力をする。それに応えるかどうかは、君が決めればいい」
(絶ッッ対、応えたりしないわ!)
応えたら最後、どんなこと強要されるか……。エリセーヌは冷たい指先をぎゅっと握りしめる。
「それから、君が応えなくても婚姻関係は解消しないから安心してくれ」
「……!」
リヒトの言葉に、エリセーヌは目を見開いた。こちらの恐れを、この男は正しく理解している……。
硬直していたエリセーヌは、思わずリヒトの顔を見た。彼の感情のない顔に、今までにない『何か』が混じっている。
(え?)
エリセーヌはリヒトを二度見したが、既にその気配は消えていた。……錯覚だろうか。
「では、ここでゆっくり休むといい」
そう言って、リヒトは背を向ける。彼は廊下側ではなく、書斎に通じる扉に手をかけた。
……ここは、彼の寝室なのだが。
(仲良くやれている演技をしてくれる、ってこと?)
初夜から花嫁が自室で休みました、なんて体裁が悪いのは間違いない。それを避けたということは、本当に和平を反故にするつもりはないらしい。
エリセーヌとしては都合がいいけれど……リヒトが何を考えているのか、まるでわからない。
「か、鍵をかけますよ」
後ろ姿にそう声をかけたら、リヒトはさっと振り向き、頷いてみせた。
「おやすみ」
それだけ言い残して、扉が閉じる。エリセーヌはダッシュで扉に近付き、ためらいなく鍵をかけた。
「な、なんだったの……」
どっと疲れた気がして、エリセーヌはよろよろとベッドへと戻った。
――俺は、君を愛する努力をする。
リヒトの言葉が甦ってきて、思わず枕を思いっきり叩いてしまった。枕はエリセーヌの八つ当たりを、ふんわりと優しく受け止めてくれる。
「あの男……!」
王女としての役目を果たすために嫁いできた。平穏な結婚生活を送って祖国が安泰なら、それでいいと思った。
なのに、それをリヒトが強引に壊していく気がして――
「これから、どうすればいいのよ……」
エリセーヌは枕を抱えて、頭を埋めた。
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