第5話:転落 底が抜ける、物理法則の崩壊
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ガクンッ、と。
世界を支えていた蝶番が外れたような、唐突な衝撃だった。
俺の足の裏から、頼り切っていた「硬さ」が消滅した。
コンクリートのザラついた感触も、踏みしめていた泥の粘り気も、すべてが一瞬にして「無」へと置き換わる。
(え……?)
思考が、現実に追いつかない。
俺はまだ、路地裏に立っていたはずだ。
ヘリオスへの復讐を誓い、地面を踏みしめていたはずだ。
それなのに、なぜ、俺の視界が天井へ向かって跳ね上がっているんだ?
違う。
視界が上がっているんじゃない。
俺が、落ちているのだ。
「――――っ!?」
叫ぼうとした。
喉の奥にある声帯を震わせて、この異常事態を拒絶しようとした。
けれど、声は出なかった。
肺の中に溜まっていた空気が、内臓がせり上がる不快感と共に、一気に口から押し出されてしまったからだ。
浮遊感。
胃袋が喉元まで持ち上がり、脳味噌が頭蓋骨の天井に押し付けられるような、あの独特の感覚。
十年前の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇る。
あの時もそうだった。
ヘリオスの手によって、空から突き落とされたあの時も、世界はこんな風に上下逆さまになった。
またか。
また、俺は落ちるのか。
俺の身体は、重力という名の見えない巨人の手に掴まれ、奈落の底へと引きずり込まれていった。
***
落下は、永遠に続くかのように思えた。
普通なら、風切り音がするはずだ。
ヒュオオオオオッという、空気を切り裂く轟音が、耳をつんざくはずだ。
けれど、ここには「音」がなかった。
シーン……。
不気味なほどの静寂。
まるで、鼓膜を分厚い綿で塞がれたような、あるいは真空の宇宙空間に放り出されたような、絶対的な無音。
(なんで、音がしない……?)
俺は空中で手足をバタつかせた。
何かに掴まりたい。
壁でも、ロープでも、突き出た鉄骨でもいい。
俺の落下を止めてくれるものなら、何だっていい。
けれど、俺の手が掴んだのは、冷たく湿った「虚無」だけだった。
指の隙間を、空気ではない何かがすり抜けていく。
それは空気よりも軽く、けれど水よりも纏わりつくような、正体不明の気体だった。
目を開ける。
必死になって、視界を確保しようとする。
頭上には、遠ざかっていく第0層の光が見えた。
さっきまで俺が睨みつけていた、あの街頭モニターの光だ。
極彩色のパレード。
笑うヘリオス。
その光が、急速に収縮していく。
最初は手のひらサイズだった四角い光が、親指サイズになり、豆粒になり、やがては夜空に浮かぶ小さな星屑のように小さくなっていく。
(待ってくれ……)
俺は手を伸ばした。
あそこには、まだ俺の日常があった。
どんなにクソったれで、理不尽で、地獄のような場所でも、あそこが俺の「世界」だった。
カビたパンの味も、腐ったゴミの臭いも、隣人たちの怒声も、すべてあそこにある。
それを置いて、俺はどこへ行くんだ?
これ以上、どこへ落ちればいいんだ?
第0層は「最下層」じゃなかったのか?
底の底の下には、まだ続きがあるというのか?
光が、点滅し、やがて完全に闇に飲まれて消えた。
プツン。
世界から光が失われた瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
静寂の中で、自分の心音だけが、耳元で叩かれるドラムのように大きく響く。
怖い。
暗い。
何も見えない。
上下左右の感覚が狂い始める。
俺は落ちているのか?
それとも、この暗闇の中で浮かんでいるだけなのか?
加速しているのか、減速しているのかさえ分からない。
ただ、内臓が浮き上がる気持ち悪さだけが、俺が「落下」している唯一の証拠だった。
その時。
完全な闇の中に、奇妙なものが浮かんでいるのが見えた。
「……あ」
俺の目の前を、ゆっくりと回転しながら落ちていくもの。
スローモーションのように、俺と同じ速度で並走している物体。
それは、パンだった。
緑色のカビが生えた、石のように硬いパン。
俺がさっき、食べかけで握りしめていたものだ。
落下した拍子に手放してしまったのだろう。
暗闇のはずなのに、なぜかそのパンだけが、薄ぼんやりと青白く発光しているように見えた。
(レオ……)
それは、レオの命の対価だった。
俺が弟を売って手に入れた、惨めな糧。
パンだけじゃない。
その横を、黒ずんだ銅貨が三枚、キラキラと光りながら舞っている。
まるで、葬列に撒かれる花びらのように。
あるいは、三途の川の渡し賃のように。
(俺と一緒に、落ちてくれるのか?)
俺は、涙が滲むのを感じた。
風圧がないせいで、涙はこぼれ落ちず、俺の眼球の上に留まって視界を揺らしている。
パンと、銅貨。
それが今の俺の全財産であり、俺の罪の象徴であり、そして唯一の道連れだった。
手を伸ばす。
指先が、パンに触れそうになる。
届かない。
あと数センチが、果てしなく遠い。
「ごめん……」
音のない世界で、俺の唇が動いた。
守れなくてごめん。
食べきれなくてごめん。
こんな暗い場所に連れてきてごめん。
走馬灯のように、過去の記憶がパンの周囲を巡る。
十年前の、母さんの笑顔。
父さんの高い肩車。
ヘリオスの冷たい瞳。
レオの石化した腕。
ガムスの嘲笑。
そして、路地裏で誓った復讐。
それら全てが、暗闇の中に溶けて、渦を巻いている。
(俺は、死ぬのか?)
こんな場所で。
誰にも知られず。
地面に叩きつけられて、肉塊になって終わるのか?
復讐はどうなる?
ヘリオスを引きずり下ろすという誓いは?
全部、ただの負け犬の遠吠えで終わるのか?
「いやだ……」
俺は首を振った。
闇の中で、必死にもがいた。
「死にたくない……! まだ、何もしてないんだ!」
俺はまだ、誰にも牙を剥いていない。
ただ奪われて、殴られて、落とされただけだ。
一回くらい、噛みつかせろよ。
一回くらい、あいつらに痛い思いをさせてやらせてくれよ。
俺の叫びは、音にならずに虚空へ吸い込まれた。
その時だった。
フワッ……。
下から、生温かい風が吹き上げてきた。
いや、風ではない。
それは、強烈な湿気を帯びた「気配」だった。
匂いがした。
さっきまでの、乾いた埃っぽい無臭の世界とは違う。
鼻の粘膜にベットリと張り付くような、濃厚な有機物の匂い。
鉄の匂い。
錆びた金属のような、あるいは古くなった血のような、酸化した鉄の臭気。
そして、その奥に潜む、甘ったるい腐敗臭。
(なんだ……この匂いは)
第0層のゴミ捨て場の臭いに似ている。
でも、もっと濃い。
もっと古く、もっと澱んでいる。
何百年、何千年もの間、誰にも触れられずに発酵し続けた、時間の死骸のような匂い。
底が、近い。
俺の本能がそう告げた。
全身の筋肉が硬直する。
来る。
衝撃が来る。
俺は目を閉じ、身体を丸めた。
少しでもダメージを減らそうとする、無意味な抵抗。
心臓が破裂しそうだ。
次の瞬間には、俺はペチャンコになって死ぬんだ。
1秒。
2秒。
3秒。
ドスン! という衝撃を覚悟していた。
骨が砕け、内臓が破裂する激痛を想像していた。
けれど。
世界が用意していた「着地」は、俺の想像を遥かに超える、異質なものだった。
ズブゥンッ…………。
硬い音ではなかった。
重く、粘り気のある液体に、巨大な肉塊が放り込まれたような音。
そして、全身を包み込む、ぬるりとした感触。
衝撃は、ほとんどなかった。
代わりに、圧倒的な「圧迫感」が俺を襲った。
(え……?)
目を開ける。
そこは、黒一色の世界ではなかった。
「泥」だ。
見渡す限りの、黒く、ドロドロとした流動体。
俺は今、その中に頭から突っ込み、沈んでいこうとしていた。
「んぐっ!?」
呼吸をしようとして、口の中に大量の泥が雪崩れ込んできた。
苦い。
そして、鉄の味がする。
血を煮詰めて、灰を混ぜて、腐った砂糖をまぶしたような、冒涜的な味。
「ごぼッ、がぼッ……!」
吐き出そうとするが、泥は意思を持った生き物のように、喉の奥へと侵入してくる。
気管が塞がれる。
酸素が入ってこない。
(苦しい……!)
俺は手足を振り回した。
けれど、水の中とは違う。
泥は水飴のように重く、糸を引いて俺の動きを封じ込める。
動けば動くほど、身体が絡め取られ、深みへと引きずり込まれていく。
「底なし沼」だ。
それも、ただの沼じゃない。
世界の底に溜まった、あらゆる汚泥の吹き溜まり。
俺の身体が、ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく。
耳の中に泥が入ってくる。
ボコ、ボコ、という気泡の音が鼓膜を直接叩く。
鼻の奥がツンとする。
意識が遠のく。
酸素欠乏によるブラックアウトが近づいてくる。
(死ぬ……ここで、窒息して……)
恐怖がピークに達し、そして奇妙なことに、それが急速に薄れていくのを感じた。
なぜだろう。
苦しいはずなのに。
気持ち悪い味なのに。
不思議と、不快ではなかった。
この泥は、温かかった。
人肌よりも少し熱い、微熱のような温度。
それが、全身の皮膚からじわじわと染み込んでくる。
凍えていた俺の手足を、優しく包み込んでくる。
まるで、お湯に浸かっているような。
あるいは、分厚い毛布にくるまっているような。
記憶の彼方にある、母さんの胎内に戻ったかのような、絶対的な安心感。
(温かい……)
泥が、俺に囁きかけてくる気がした。
『もう、いいんだよ』
『頑張らなくていい』
『痛いことは何もない』
『ここで眠りなさい』
甘い誘惑。
抗いがたい、強制的な安息。
俺の瞼が、鉛のように重くなる。
抵抗していた手足の力が抜けていく。
そうだ。
もう、いいかもしれない。
俺は疲れたんだ。
十年もゴミの中で生きて、弟を失って、人殺しになって。
これ以上、何を頑張ればいいんだ。
ヘリオスに復讐?
バカげている。
あんな太陽みたいな奴に、俺みたいな泥人形が勝てるわけがない。
最初から無理だったんだ。
ここで溶けてしまえばいい。
この温かい泥の一部になって、何も考えずに、永遠に微睡んでいればいい。
レオも、きっとここにいる。
砕いてしまったレオも、この泥の中で眠っているはずだ。
なら、俺も一緒に行こう。
(おやすみ、ニルス……)
俺は、意識の手綱を手放そうとした。
暗黒の温もりに身を任せ、深く、深く沈んでいく。
その時。
泥の揺らぎの向こうに、何かが煌めいた。
(……え?)
薄れゆく意識の端で、俺はその光を見た。
それは、上から落ちてきた「銅貨」だった。
レオの命と引き換えにした、三枚の銅貨。
それが、俺の後を追うように、泥の中をユラユラと沈んでいく。
チャリン。
泥の中なのに、澄んだ音が聞こえた気がした。
あの店で、ガムスが放り投げた時の音。
俺の魂を値踏みし、嘲笑ったあの音。
『妥当な線だろ。不純物が多いし、加工の手間賃も引かせてもらった』
ガムスの顔が浮かぶ。
そして、その背後にあるヘリオスの笑顔。
『君に翼はないね。だってゴミだから』
『さようなら。ゴミはゴミ箱の底がお似合いだ』
「――――ッ!!」
俺の目が、カッと見開かれた。
ふざけるな。
ふざけるなよ。
誰がゴミだ。
誰が不純物だ。
誰が、ここがお似合いだ。
俺はまだ、終わってない。
俺はまだ、あいつらに一撃も食らわせていない。
俺の大事なものを奪って、笑って、踏みつけた連中が、今ものうのうと生きている。
それを許して、ここで眠るのか?
この泥水啜って、「温かい」なんて感じて満足するのか?
(冗談じゃねえ……!)
怒りが。
消えかけていた生命の灯火に、ガソリンを注いだ。
ドロドロとした執念の炎が、心臓の中で爆発する。
俺は手を伸ばした。
泥の中で、重たい腕を無理やり突き出した。
「んぐ、ぅぅぅぅッ!!」
口から泡を吐き出しながら、俺は泥を掻いた。
沈んでたまるか。
溶けてたまるか。
俺はゴミじゃない。
俺はニルスだ。
地獄の底から這い上がって、お前らの喉笛を食いちぎる復讐者だ!
俺の手が、泥の中を泳ぐ銅貨を掴んだ。
強く、爪が食い込むほど握りしめる。
その痛みが、俺の意識を覚醒させる。
(生きるんだ……!)
(何がなんでも、生きてやる!)
俺は必死にもがいた。
上へ。
空気のある場所へ。
泥の粘着に逆らい、筋肉を引きちぎるような勢いで水を蹴る。
その時。
俺の足が、何かに触れた。
泥の底。
そこに、「硬いもの」があった。
地面だ。
底なしじゃなかった。
ここには、底がある。
俺は、その感触を頼りに、思い切り踏ん張った。
膝を曲げ、全身のバネを使って、底を蹴り上げる。
ドンッ!
泥が舞い上がる。
反動で、俺の身体が砲弾のように上へと射出される。
苦しい。
肺が限界だ。
目の前がチカチカする。
それでも、俺は手を伸ばし続けた。
上のほうで、微かな「境界線」が見えた。
泥と、空気の境目。
そこから、薄ぼんやりとした白い光が漏れている。
(光……?)
第0層の光じゃない。
もっと冷たく、静かで、そして神聖な光。
あそこに行けば、息ができる。
俺は最後の力を振り絞った。
指先が、境界線を突き破る。
バシャッ!
泥の膜が破れる音。
そして、冷たい空気が指に触れる感触。
「ぷはァッ!!」
俺の顔が、泥の海面から飛び出した。
溜まっていた汚濁を吐き出し、貪るように新鮮な空気を吸い込む。
「ハァッ、ハァッ、ゲホッ、オエッ……!」
咳き込みながら、俺は泥の海に浮かんだ。
生きてる。
息ができる。
心臓が、肋骨を折らんばかりに脈打っている。
俺は、乱れた呼吸を整えながら、顔についた泥を拭った。
そして、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは」
そこは、俺の知らない世界だった。
上を見上げても、落ちてきたはずの「穴」は見当たらなかった。
あるのは、鍾乳洞のようなゴツゴツとした岩盤の天井だけ。
そこには、発光する苔のようなものが群生し、洞窟全体を青白い光で満たしていた。
静かだった。
あの不気味な泥の海は、今は凪いでいて、鏡のように静止している。
広大な地下空間。
その中心に、俺は一人で浮かんでいた。
(第0層の下に……こんな場所があったのか)
俺は呆然としながら、岸辺らしき岩場を目指して泳ぎ出した。
泥は重かったが、もう俺を引きずり込もうとはしなかった。
俺が「死」を拒絶したからだろうか。
岩場に這い上がる。
冷たい岩の感触が、火照った身体に心地よい。
俺は仰向けに倒れ込み、天井の青白い光を見つめた。
助かった。
いや、これからだ。
ここからどうやって戻るのか。
ここは何なのか。
食料は? 水は?
不安は山ほどある。
けれど、不思議と絶望はしていなかった。
俺の手の中には、泥の底から掴み取った三枚の銅貨がある。
そして胸の中には、消えることのない復讐の炎がある。
「……待ってろよ」
俺は、天井の岩盤の向こうにいるであろう、あの男に向かって呟いた。
「地獄の底まで落ちたなら……あとは這い上がるだけだ」
俺の意識が、急速に薄れていく。
極限の疲労と、緊張からの解放。
泥の温かさとは違う、生物としての正当な眠気が俺を襲う。
眠る直前。
俺の視界の端に、何かが映った。
巨大な空間の奥。
青白い光の中に、一本の「剣」が突き刺さっているのが見えた。
白く、包帯のような布を巻かれた、不気味な剣。
それが、まるで墓標のように静かに佇んでいた。
(あれは……)
考える間もなく、俺の意識は深い闇へと落ちていった。
泥の中の死の眠りではなく、明日へ進むための休息の眠りへと。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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