第4話:10年前の太陽、あるいは地獄への落下(後半)
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「やあやあ、騒がしいねぇ」
その声は、真っ赤な警報音で満たされた空間を、鋭いナイフのように切り裂いた。
兵士たちの動きがピタリと止まる。
まるで、時間そのものが凍りついたかのような静寂。
僕の鼓膜に残っていたサイレンの残響が、急速に遠ざかっていく。
母さんの腕の隙間から、僕はその人を見た。
兵士たちの海が割れる。
その向こうから、一人の男が歩いてきた。
黄金の髪。
雪のように白い制服。
そして、この場の誰よりも穏やかで、誰よりも楽しそうな笑顔。
眩しかった。
天井の照明なんかじゃない。
その男自身が発光しているかのような、圧倒的なオーラ。
僕たちが住む「天空庭園」の、さらに上に君臨する太陽そのもの。
バベル第5席、ヘリオス。
幼い僕でも知っていた。
この塔を支配する「十人の賢者」の一人。
雲の上の人。神様に一番近い人。
(きれい……)
恐怖で震えていたはずなのに、僕は一瞬、その美しさに目を奪われた。
天使が助けに来てくれたんだと思った。
間違いで捕まりそうな僕たちを、この人が救ってくれるんだと。
けれど。
近づいてくる彼の目を見た瞬間、僕の本能が警鐘を鳴らした。
笑っているのに。
口元は完璧な弧を描いているのに。
その金色の瞳には、僕も、父さんも、母さんも映っていなかった。
そこにあるのは、道端の石ころを見るような、あるいは靴の裏についた汚れを見るような、無機質な透明さだけ。
ヘリオスは、僕たちの前で足を止めた。
ふわり、と甘い香水の匂いが漂う。
「困るなぁ。こんな素敵な朝に、汚い音を立てちゃ」
彼は歌うように言った。
そして、僕を見た。
いや、僕という「物体」を見た。
「君かい? バベルのシステムに泥を塗ったエラー因子は」
「……あ、う……」
声が出ない。
喉が干からびて、張り付いてしまったみたいだ。
彼の視線が肌に触れた場所から、体温が奪われていく。
「ひどい色だ」
ヘリオスは、黒く濁った水晶をチラリと見て、肩をすくめた。
「真っ黒じゃないか。美しいバベルには似合わないね。まるで、排水溝のヘドロだ」
「ちがう……!」
父さんが叫んだ。
僕を庇うように、一歩前へ出る。
「ヘリオス様! お願いします、何かの間違いです! ニルスは……この子はまだ5歳なんです! 悪意なんてありません!」
父さんは必死だった。
額を地面に擦りつける勢いで、頭を下げている。
あの強くて、大きかった父さんが。
僕の自慢の父さんが、震えながら懇願している。
「間違い?」
ヘリオスが小首を傾げる。
無邪気な子供のような仕草。
「システムは絶対だよ。パパ。君の息子はね、中身が空っぽなんだ。魔力という『魂』がない。ただ肉が動いているだけの、壊れた人形さ」
「そんな……!」
「だから、処分しなきゃ。腐ったリンゴを箱に入れておくと、他のリンゴまで腐っちゃうだろう?」
処分。
その言葉が、僕の胸に冷たく突き刺さる。
僕はリンゴじゃない。人形じゃない。
ニルスだ。
父さんと母さんの子供だ。
「やめてください!」
父さんが立ち上がった。
両手を広げ、ヘリオスと僕たちの間に壁を作る。
「私の魔力を差し出します! 全部、全部です! 私の命でもいい! だから、この子だけは……この子だけは見逃してください!」
父さんの背中が、大きく見えた。
僕を守るための、最後の砦。
「ふーん」
ヘリオスは、つまらなそうに欠伸を噛み殺した。
「愛だねぇ。美しいねぇ」
彼は、右手をゆっくりと持ち上げた。
その指先が、指揮者のように優雅に動く。
「でも、迷惑なんだよ。不良品の製造責任は、製造元が取らなきゃ」
パチン。
乾いた音がした。
指を鳴らす音。
それは、あまりにも軽く、日常的な音だった。
次の瞬間。
ボッ!!!!
父さんの背中が、爆ぜた。
「え……?」
僕は、何が起きたのか分からなかった。
父さんの身体が、一瞬でオレンジ色の光に包まれた。
いや、違う。
炎だ。
父さんの身体の内側から、紅蓮の炎が噴き出したのだ。
「が、ぁ……ッ!?」
悲鳴はなかった。
悲鳴を上げるための声帯が、肺が、瞬きする間に炭になって消滅したからだ。
熱い。
とてつもない熱風が、僕の頬を叩く。
髪の毛がチリチリと焦げる匂い。
そして、肉が焼ける、鼻を突く強烈な異臭。
「と、う……さん?」
目の前にあった頼もしい背中が、崩れていく。
まるで砂の城のように。
黒い炭と、白い灰になって、サラサラと崩れ落ちていく。
そこにはもう、父さんの形をしたものは何もなかった。
ただ、床に積もった黒い灰の山と、まだ燻っている煙だけ。
「…………」
理解できなかった。
脳が、目の前の現実を処理することを拒否した。
さっきまで喋っていたのに。
僕を守ろうとしてくれていたのに。
指を、一回鳴らしただけで?
全部消えちゃったの?
「ほら、綺麗になった」
ヘリオスが笑った。
足元の灰を、コツンと靴先で蹴る。
「まずは一つ」
その動作を見て、僕の中で何かが弾けた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
僕は絶叫した。
父さん! 父さん!
叫んでも、灰は答えない。
動かない。
「ニルス!」
母さんが、僕を抱きしめた。
強く。
骨が折れるくらい強く。
母さんの身体が、ガタガタと震えているのが伝わってくる。
「見ちゃダメ! 目を閉じて!」
母さんが僕の頭を胸に押し付ける。
視界が暗くなる。
でも、音は聞こえる。
ヘリオスの、あの軽い足音が近づいてくる音が。
カツ、カツ、カツ。
「次はママの番かな?」
楽しそうな声。
ゲームでも楽しむような、無邪気な声。
「嫌だ……! 嫌だ嫌だ!」
僕は母さんの服を握りしめた。
離したくない。
離したら、父さんみたいに消えちゃう。
「お願いです……!」
母さんが顔を上げ、涙声で叫んだ。
「私を殺してもいい! お願いだから、ニルスだけは……!」
「またそれ?」
ヘリオスが溜息をつく気配がした。
「君たち、語彙が少ないなぁ。親子ってのは、どうしてこう非効率なんだろう」
熱気が、近づいてくる。
父さんを焼いたのと同じ、あの死の熱さが、肌をジリジリと焦がし始める。
(あ、死ぬ)
幼い僕にも分かった。
次は僕たちだ。
逃げられない。
助からない。
母さんの腕の力が、一層強くなった。
痛い。
苦しい。
でも、温かい。
「……ニルス」
母さんが、僕の顔を覗き込んだ。
熱気のせいで、母さんの顔は汗と涙でぐしゃぐしゃだった。
綺麗な金色の髪も、熱でチリチリに縮れてしまっている。
でも、その碧い瞳だけは、透き通るように綺麗だった。
「よく、聞いて」
母さんの声が震えている。
でも、言葉ははっきりしていた。
「あなたは、何も悪くないわ」
「あなたが生まれたことは、間違いなんかじゃない」
「あなたは、私と父さんの、最高の宝物よ」
「かあ、さん……」
涙が溢れて、母さんの顔が滲む。
死なないで。
置いていかないで。
ヘリオスが、指を構えるのが見えた。
その指先に、小さな、でも太陽のように眩しい火の玉が生まれる。
「さよなら」
ヘリオスが言った。
死刑執行の合図。
その瞬間。
母さんが、ふわりと笑った。
恐怖でひきつっているはずの頬を、無理やり持ち上げて。
溢れる涙を拭おうともせず。
僕を安心させるためだけの、精一杯の笑顔。
いつもの、あの陽だまりのような優しい笑顔で。
「大好きよ」
「笑って、ニルス。あなたは、私の太陽だか――」
パチン。
音が、世界を白く染めた。
「ら」
最後の言葉は、音にならなかった。
ゴオオオオオッ!!
僕の目の前で。
僕を抱きしめていた母さんの身体が、紅蓮の炎に飲み込まれた。
「――っ!?」
熱い。
熱い熱い熱い!
僕の目の前数センチで、母さんが燃えている。
僕を守るために覆いかぶさったまま、炎の壁となって、ヘリオスの魔法を受け止めている。
「かあ、さん……!」
手を伸ばす。
触れようとする。
でも、触れた場所から、母さんが崩れていく。
ボロボロと。
燃え尽きた紙のように。
笑顔のまま固まった母さんの顔が、炭になって、灰になって、剥がれ落ちていく。
肉が焼ける音。
骨が砕ける音。
それらが、母さんの身体の中で響いている。
それでも。
最後の一瞬まで、母さんの腕は僕を離さなかった。
灰になって、形を保てなくなって、物理的に崩れ落ちるその瞬間まで、僕を炎から守り続けていた。
ザァァァァ……。
炎が消えた。
僕の腕の中に残ったのは、温かい灰の山だけだった。
「……あ」
僕は、自分の腕の中を見た。
真っ白な灰。
さっきまで、僕を抱きしめていた温もり。
僕に「大好きよ」と言ってくれた口。
僕を見つめていた碧い目。
全部、この灰になっちゃったの?
「う、そだ……」
僕は灰をかき集めた。
指の隙間から、サラサラとこぼれ落ちる。
掴めない。
戻らない。
「かあさん! かあさん!!」
返事がない。
ただ、焦げた臭いが鼻をつくだけ。
「いやだぁぁぁぁぁぁっ!!」
僕は叫んだ。
喉が裂けてもいい。
血を吐いてもいい。
誰か、嘘だと言ってくれ。
夢なら覚めてくれ。
「起きてよぉっ!! 置いていかないでよぉぉぉッ!!」
僕は灰の山に顔を埋めた。
まだ温かい。
母さんの体温が残っている。
それが余計に、僕の心をズタズタに引き裂いた。
「汚いなぁ」
頭上から、冷たい声が降ってきた。
「泣き声まで雑音だ。やっぱり、中身が空っぽだと響きが悪いね」
見上げると、ヘリオスが立っていた。
無傷だった。
父さんと母さんを殺したのに、服には煤ひとつついていない。
その顔には、変わらぬ天使のような微笑みが張り付いている。
「お、まえ……」
憎い。
殺してやりたい。
でも、身体が動かない。
恐怖と絶望で、指一本動かせない。
ヘリオスが、屈み込んだ。
そして、僕の襟首を掴んだ。
まるで、汚れた雑巾をつまみ上げるように。
「離せ! 離せぇぇッ!」
僕は手足をバタつかせた。
でも、彼の力は岩のように強かった。
僕は宙ぶらりんになり、灰まみれの床から引き剥がされる。
「ああ、汚れる」
ヘリオスは顔をしかめて、僕を身体から遠ざけた。
そして、大理石の床に開いた、黒い穴の方へと歩き出す。
ダストシュート。
この楽園から出る「ゴミ」を、下層へ廃棄するための穴。
底が見えない、暗黒の口。
「ここがお似合いだよ」
ヘリオスは、僕を穴の上に吊るした。
足元には何もない。
冷たい風が吹き上げてくる。
「魔法があれば、空も飛べたのにね。」
ヘリオスの金色の瞳が、僕を覗き込む。
そこには、僕への興味なんて微塵もなかった。
ただの事務処理。
ただの掃除。
「……さようなら。ゴミはゴミ箱の底がお似合いだ」
彼は、指を離した。
フッ。
浮遊感。
僕の身体が、重力に引かれて落ちていく。
遠ざかる光。
小さくなっていく四角い空。
そして、その枠の中に切り取られた、ヘリオスの見下ろす顔。
母さん。
父さん。
助けて。
暗闇が僕を飲み込む。
ヒュオオオオオという風の音が、僕の悲鳴をかき消していく。
落ちる。
落ちる。
どこまでも、深く、暗い場所へ。
***
「ッ!?」
ガバッ、と身体を起こした。
心臓が破裂しそうだった。
全身が冷や汗でびしょ濡れだ。
肩で息をする。
ハァ、ハァ、ハァ……。
「……ゆ、め……?」
俺は、自分の顔に触れた。
濡れていた。
涙だ。
十年前の涙が、まだ乾かずに張り付いている。
周囲を見渡す。
そこは、第0層の路地裏だった。
薄汚れた壁。
腐ったゴミの臭い。
そして、目の前にある街頭モニター。
モニターの中では、まだパレードが続いていた。
あの男、ヘリオスが、十年前と変わらない笑顔で手を振っている。
『我らが太陽に栄光あれ!』
群衆の歓声。
それが、俺の神経を逆撫でする。
「……はは」
俺は笑った。
乾いた、殺意の混じった笑い。
思い出した。
全部、鮮明に思い出した。
母さんの最後の笑顔。
父さんの燃える音。
灰の感触。
そして、あの男の、人を虫ケラのように焼き殺す冷たい目。
「許さない……」
俺は立ち上がった。
足元がふらつく。
それでも、モニターの中の太陽を睨みつけた。
「絶対に……許さないぞ、ヘリオス!!」
俺の叫びが、路地裏に木霊した。
その時だった。
ズズズズズッ……。
足元の振動が、限界に達した。
地面が、波打つように歪む。
「な……?」
俺は足元を見た。
さっきまで硬いコンクリートだったはずの地面が、黒い泥のように液状化している。
いや、違う。
地面そのものが、「消失」しているのだ。
スプーンでくり抜かれたように。
俺の立っている場所が、ごっそりと虚無へ飲まれていく。
ガクンッ!!
足場が消えた。
「――っ!?」
叫ぶ間もなかった。
重力が、俺の足首を掴んで引きずり込む。
浮遊感。
あの時と同じだ。
十年前、ヘリオスに落とされた時と同じ、内臓がせり上がるような感覚。
俺の視界が回転する。
遠ざかる第0層の天井。
小さくなっていく、モニターの光。
そして、あいつの笑顔。
(また、落ちるのか)
(俺は、どこまで落ちればいいんだ)
俺の身体は、音もなく開いた奈落の口へと吸い込まれた。
そこは、第0層よりもさらに深い、誰も知らない深淵。
光が消える。
音が消える。
俺は暗闇の中で、母さんの笑顔を焼き付けたまま、意識を手放した。
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