第4話:10年前の太陽、あるいは地獄への落下(前半)
いつも応援ありがとうございます。
最新話を更新しました。 最後までゆっくりとお楽しみください!
その記憶は、いつだって甘い匂いから始まる。
焼きたてのクッキーのような、あるいは天日で干したばかりのシーツのような。
鼻腔をくすぐる、優しくて、どこまでも柔らかい香り。
それが、僕の世界の全てだった。
「……ニルス」
名前を呼ばれる。
それは音というよりも、温かい風のような響きだった。
「起きなさい、ニルス。今日は大事な日よ」
瞼の裏側で、光が揺れた。
僕はゆっくりと目を開ける。
最初に飛び込んできたのは、金色の光の粒だった。
高い天井にある窓から、朝の陽射しが降り注いでいる。
その光の中で、塵さえも宝石のようにキラキラと輝いて舞っていた。
そして、その光の中に、母さんがいた。
逆光で縁取られた母さんの髪は、溶かした蜂蜜のように透き通る金色。
僕を覗き込むその瞳は、空の色をそのまま切り取ったような、深い碧色をしていた。
「おはよう、私の一番星」
母さんが微笑む。
その笑顔を見ただけで、僕の心臓はポカポカと温かくなり、胸の奥が甘い蜜で満たされていく。
僕は、この笑顔が大好きだった。
世界中のどんな宝石よりも、どんな魔法よりも、母さんのこの顔を見ている時が一番幸せだった。
「……かあさん」
僕は寝ぼけ眼をこすりながら、両手を伸ばした。
母さんが、僕を抱きしめてくれる。
ふわリ、と。
花の香りが僕を包み込む。
母さんの体温が、パジャマ越しに僕の肌へと伝わってくる。
温かい。
ここには寒さなんてない。
飢えもない。
痛みもない。
ただ、絶対的な安心感だけが、僕を守ってくれていた。
(ああ、ずっとこうしていたい)
幼い僕は、母さんの胸に顔を埋めながら、本能的にそう願っていた。
この温もりが永遠に続くことを、疑いもしなかった。
「甘えん坊さんね」
母さんがくすりと笑って、僕の頭を撫でた。
その手のひらは、少しだけごつごつしていて、でも魔法みたいに優しかった。
「でも、今日はもう起きなくちゃ。父さんが待ってるわ」
「とうさん?」
「ええ。今日は『魔力選定の儀』でしょう? あなたがバベルの祝福を受ける日よ」
そうだ。
今日は、僕が五歳になる日。
そして、この塔に住む全ての子供たちが受ける、運命の検査の日だ。
僕は飛び起きた。
楽しみだった。
不安なんて、微塵もなかった。
だって、父さんと母さんが言っていたから。
「ニルスは特別だ」「きっと凄い魔法使いになる」って。
二人が言うなら、それは絶対に正しいことなんだ。
***
準備を終えて外に出ると、世界は光で溢れていた。
第4層「天空庭園」。
バベルの上層に近いこの場所は、雲よりも高い場所にある。
見上げれば、吸い込まれそうなほど青い空。
太陽が、手を伸ばせば届きそうなほど近くで、圧倒的な輝きを放っている。
「うわぁ……!」
僕は思わず声を上げた。
何度見ても、この景色は綺麗だ。
道の両脇には、色とりどりの花が咲き乱れている。
赤、黄、紫、白。
それぞれの花が、競い合うように甘い香りを漂わせている。
「ははは! 元気だな、ニルス」
後ろから、大きな手が僕の脇を抱え上げた。
視界が一気に高くなる。
父さんだ。
僕をひょいと持ち上げ、そのまま自分の肩車に乗せてくれた。
「高いか?」
「うん! すごく高い!」
父さんの肩の上は、僕の特等席だった。
広くて、頼もしい背中。
ごわごわした父さんの髪の感触。
ここから見ると、世界はずっと遠くまで見渡せる気がした。
「いいか、ニルス。よく見ておきなさい」
父さんが、太くて低い声で言った。
その声には、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。
「この美しい世界が、お前の住む場所だ。お前は選ばれた子なんだ。素晴らしい魔力を宿して、いつかこのバベルを支える立派な魔術師になるんだぞ」
「うん! ぼく、がんばるよ!」
僕は父さんの頭の上で、大きく頷いた。
父さんが喜んでくれるのが嬉しかった。
僕が「すごい子」でいれば、父さんも母さんも笑ってくれる。
それが何よりも嬉しかった。
「あらあら、二人とも。転ばないでね」
隣を歩く母さんが、日傘を回しながら笑っている。
その手には、道端で摘んだシロツメクサで作った花冠が握られていた。
「ニルス、ちょっと屈んで」
母さんが背伸びをする。
僕は素直に頭を下げた。
ふわり、と頭に軽い重みが乗る。
「はい、似合うわ。王子様みたい」
「えへへ」
僕は花冠に触れた。
くすぐったいような、誇らしいような気持ち。
通りすがる人々が、僕たちを見て微笑んでいる。
「おめでとう」「今日はいい日だね」と声をかけてくれる。
誰もが優しかった。
誰もが笑っていた。
世界は、僕たちを祝福するために回っているのだと、本気で信じていた。
会場である「水晶の広場」に着くと、そこは静寂に包まれていた。
巨大なドーム状の建物。
壁も床も、すべてが真っ白な大理石で作られている。
中央には、噴水があり、清らかな水音だけがサラサラと響いている。
その奥に、鎮座していた。
高さ数メートルはある、巨大な透明の水晶。
「選定の水晶」。
あれに触れることで、その人の体内に眠る魔力の量と属性が判明するのだという。
すでに何組かの親子が待っていた。
どの子も綺麗な服を着て、少し緊張した面持ちで並んでいる。
水晶に触れるたび、ボゥッと赤や青の光が灯り、検査官が「火属性、魔力B判定」などと告げる。
そのたびに、親たちが歓声を上げ、子供を抱きしめていた。
「次は、ニルス・アークライト」
検査官の事務的な声が響いた。
僕の番だ。
「よし、行ってこい」
父さんが僕を肩から下ろした。
トン、と背中を押される。
その手は大きく、力強かった。
「大丈夫よ、ニルス」
母さんがしゃがみ込み、僕の目を見つめた。
その碧い瞳に、僕の顔が映っている。
不安そうな、でも期待に満ちた僕の顔。
「どんな結果でも、あなたは私の大切なニルスよ。何も怖くないわ」
母さんはそう言って、僕の両手をきゅっと握りしめた。
母さんの体温が、僕の手に移る。
それは「お守り」だった。
この温かさがあれば、僕はなんだってできる気がした。
「うん!」
僕は力強く頷き、一人で歩き出した。
カツン、カツン。
僕の小さな靴音が、広い会場に反響する。
みんなが見ている。
父さんが、母さんが、後ろで見守ってくれている。
水晶の前に立つ。
近くで見ると、それは見上げるほど大きかった。
表面は鏡のように磨かれ、僕の姿を映している。
その奥には、神秘的な光の渦が見える気がした。
(ぼくの魔力は、どんな色かな)
父さんみたいに、かっこいい赤色かな。
それとも、母さんみたいに、優しい緑色かな。
どんな色でもいい。
きっと綺麗な色に光るはずだ。
そうすれば、二人はもっと僕を褒めてくれる。
今夜はご馳走だ。
僕は息を吸い込み、そっと右手を伸ばした。
指先が震える。
期待と、ほんの少しの緊張。
心臓がトクトクと鳴る音が、耳の奥で大きくなる。
(光れ……!)
願いを込めて。
僕は、その冷たい水晶の表面に、掌を押し当てた。
ピタリ。
皮膚が吸い付くような感触。
氷のように冷たい。
その冷気が、指先から腕を通って、心臓へと流れ込んでくる。
僕は目を見開いて、光が溢れ出す瞬間を待った。
眩しい光が、僕を包み込むはずだ。
会場中から拍手が起こるはずだ。
一秒。
二秒。
三秒。
「…………?」
何も、起きなかった。
水晶は透明なまま、沈黙を守っていた。
(あれ?)
おかしいな。
触り方が悪かったのかな。
僕は一度手を離し、もう一度、強く押し当てた。
もっと強く。
もっと念じて。
「ひかって……」
小さな声で呟いた。
お願い、光って。
父さんが見てるんだ。
母さんが待ってるんだ。
しかし。
水晶は冷徹だった。
透明だった内部に、ゆっくりと変化が現れ始めた。
けれどそれは、僕が期待した輝きではなかった。
どす黒い、泥のような濁り。
光を放つのではなく、周囲の光を吸い込むような、不吉な灰色。
それが、ジワリと水晶の中心に滲み出したかと思うと、一瞬で全体を塗りつぶした。
「あ……」
思考が止まった。
なんだこれ。
汚い色。
こんな色、見たことない。
他の子は、みんなキラキラ光っていたのに。
会場の空気が、凍りついた。
さっきまで聞こえていたさざめきが消え、完全な静寂が訪れる。
噴水の水音だけが、やけに大きく響く。
背中の後ろで、誰かが息を呑む音がした。
衣擦れの音。
ヒソヒソという、戸惑いの声。
「……エラーか?」
「いや、水晶は正常だ」
「なんだあの色は」
検査官たちが顔を見合わせている。
彼らの目にあるのは、驚きと、そして隠しきれない「嫌悪」だった。
僕は怖くなって、振り返った。
「とうさん、かあさん……?」
父さんは、立ち尽くしていた。
あんなに誇らしげだった表情が消え失せ、口を半開きにして、信じられないものを見る目で僕を見ていた。
その顔色は、死人のように青白かった。
母さんは、口元を両手で覆っていた。
その瞳が揺れている。
いつもの優しい笑顔がない。
恐怖に怯えるような目で、僕と、その背後の黒い水晶を交互に見ている。
「どうして……?」
僕の声が震えた。
なんでそんな顔をするの。
笑ってよ。
「大丈夫よ」って言ってよ。
検査官の一人が、一歩前に出た。
彼は手元の資料と水晶を何度も見比べ、最後に冷たい声で宣告した。
その声は、僕の人生を断ち切るギロチンの音だった。
「……信じられん」
「魔力反応、ゼロ」
「魔力回路の欠損……いや、完全なる『空洞』だ」
「こんな欠陥品は、バベル始まって以来だぞ」
欠陥品。
その言葉の意味は、五歳の僕にはよく分からなかった。
けれど、それが「悪いこと」だということだけは、痛いほど分かった。
空気が刺すように冷たい。
あんなに温かかった日差しが、今は肌を焼くように痛い。
「ち、ちがう……」
僕は首を振った。
違うよ。
僕は父さんの自慢の息子だ。
母さんの一番星だ。
だから、こんな泥みたいな色じゃない。
間違いだ。
「ぼく、できるよ……ちゃんとできるよ!」
僕は必死になって、水晶を叩いた。
ペチ、ペチ、と乾いた音がするだけ。
水晶は黒く濁ったまま、僕を拒絶し続けている。
「ひかってよぉ! おねがいだよぉ!」
涙が溢れてきた。
視界が歪む。
誰か助けて。
誰か、これは嘘だと言って。
その時だった。
ジリリリリリリリリリリリリリッ!!!!
耳をつんざくような、甲高い警報音が鳴り響いた。
それは、会場の静寂を引き裂き、平和な楽園の終わりを告げるサイレンだった。
「な、なんだ!?」
「緊急警報!?」
「異物混入のアラートだ!」
会場がパニックに包まれる。
天井の照明が赤く点滅し、白い大理石の床を血のような色に染め上げる。
ドカドカドカッ!
重々しいブーツの音が近づいてくる。
入り口から、武装した兵士たちが雪崩れ込んできた。
銀色の鎧。
手には鋭い銃剣。
彼らの殺気に満ちた視線は、一点に集中していた。
水晶の前に立ち尽くす、僕に。
「対象を発見!」
「バベルのシステムを脅かす『エラー因子』だ!」
「確保しろ! 抵抗するなら排除しても構わん!」
兵士たちが、銃剣を向けて走ってくる。
ギラリと光る刃先が、僕の喉元を狙っている。
「ひっ……!」
腰が抜けた。
動けない。
怖い。
殺される。
「ニルスッ!!」
叫び声と共に、温かい何かが僕を包み込んだ。
母さんだった。
母さんが、僕に覆いかぶさるようにして抱きしめ、兵士たちの前に立ちはだかったのだ。
「か、かあさん……」
見上げると、母さんの背中が小刻みに震えているのが分かった。
それでも、母さんは逃げなかった。
「この子に触らないで!!」
母さんが叫んだ。
いつもの優しい声じゃない。
子供を守る獣のような、必死の叫び。
「離れろ! そのガキは汚染されている!」
「うるさい! 私の子よ! 誰にも指一本触れさせないわ!」
父さんも駆け寄ってきた。
僕たちの前に立ち、両手を広げて兵士たちを威嚇する。
「待ってくれ! 何かの間違いだ! もう一度検査を……!」
「問答無用だ。排除命令が出ている」
兵士たちが包囲網を狭める。
冷たい刃の壁が、僕たち家族を閉じ込める。
僕は母さんの腕の中で、震えることしかできなかった。
さっきまでの幸せはどこへ行ったの?
花冠は落ちて踏み潰され、青い空は赤い警報の光に塗りつぶされている。
どうして。
僕が魔力を持っていないから?
ただそれだけで、僕たちは殺されなきゃいけないの?
その時。
赤い警報音を切り裂くように、軽やかな、場違いなほど明るい声が降ってきた。
「やあやあ、騒がしいねぇ」
その声を聞いた瞬間、兵士たちの動きがピタリと止まった。
まるで、神様の声を聞いたかのように。
僕は、母さんの腕の隙間から、声の主を見た。
そこには、太陽が立っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、 下の【☆☆☆☆☆】評価や、ブックマークをいただけると執筆の励みになります!




