第3話:命の相場、パン一個と少年の魂(後半)
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店の外に出ると、風が変わっていた。
生温かい腐臭を含んだ風が、俺の頬を撫でていく。
さっきまで感じていた背中の重みは、もうない。
その代わりに、右手には「軽すぎる対価」が握りしめられている。
俺は、自分の手の中を見た。
緑色のカビが斑点のように広がった、石のように硬いパンが二つ。
そして、手垢と錆で黒ずんだ、三枚の銅貨。
たった、これだけ。
これが、レオという少年の全てだ。
「はは……」
乾いた笑いが漏れた。
笑うしかなかった。
怒りも、悲しみも通り越して、ただただ空虚だった。
俺の十年間の思い出も、レオの未来も、全部合わせてパン二個分。
この世界において、俺たちの命なんて、その程度の価値しかないのだと思い知らされた。
俺はふらつく足取りで、建物の影にある路地裏へと向かった。
人目につかない場所へ。
誰にも見られたくなかった。
これから俺が行う「食事」は、誰かに見せていいものではない気がしたからだ。
路地裏は、薄暗く、湿っていた。
壁には得体の知れない苔が張り付き、足元には汚水が水たまりを作っている。
ハエの羽音が、耳障りな低周波となって響いていた。
俺は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
背中を冷たいレンガ壁に預ける。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
けれど、それ以上に内臓が暴れていた。
『グウゥゥ……』
腹の虫が鳴く。
静かな路地裏に、その間抜けな音だけが大きく反響する。
情けなくて、惨めで、涙が出そうになった。
弟を売った直後に。
弟の命と引き換えにしたパンを握りしめて。
俺の身体は、「早くそれを寄越せ」と叫んでいるのだ。
「……食うのか?」
俺はパンを持ち上げ、目の高さに掲げた。
カビ臭い匂いが鼻をつく。
酸っぱくて、埃っぽい、死んだ食べ物の匂い。
これを食べれば、俺は生き延びる。
今日の飢えを凌ぎ、明日へと命を繋ぐことができる。
だが、それは同時に、「レオを食って生きる」ことを意味していた。
(食えるわけないだろ……)
喉が拒絶した。
胃袋が収縮して、吐き気を訴える。
友達の肉を食うようなものだ。
そんなことをしたら、俺はもう人間じゃなくなる。
けれど。
俺の手は、震えながらもパンを口元へ運んでいた。
本能だ。
「生きたい」という、浅ましく、どうしようもない生物としての本能が、理性をねじ伏せようとしている。
レオの声が、頭の中でリフレインした。
『ニルスは強いね』
『ニルス、生きて』
「……生きるよ」
俺は呟いた。
言い訳のように。
許しを請うように。
「お前の命、無駄にはしない。……全部、俺が貰う」
俺は大きく口を開けた。
そして、カビだらけのパンに、獣のように齧りついた。
ガリッ。
硬い音がした。
パンというよりは、乾いた土塊を噛んだような食感。
歯が折れそうになるほど硬い。
口の中の水分が一瞬で奪われ、パサパサとした粉が舌の上に広がる。
不味い。
とてつもなく不味い。
カビの酸味と、腐りかけた小麦の苦味。
そして何より、砂を噛んでいるようなジャリジャリとした感触。
「うっ……! ぐっ……!」
嘔吐感がこみ上げる。
喉が痙攣して、異物を吐き出そうとする。
俺は左手で口を押さえ、無理やり飲み込んだ。
ゴクッ。
喉を通り過ぎる塊が、焼けた石のように食道を擦り落ちていく。
痛い。
胸が焼けるように熱い。
(これが、レオの味か……)
涙が滲んだ。
こんなに不味いなんて。
こんなに痛いなんて。
あいつの人生は、こんな味だったのか。
俺は泣きながら、二口目を齧った。
三口目。
四口目。
味わってはいけない。
ただ、詰め込め。
これは食事じゃない。儀式だ。
レオという存在を、俺の血肉に変えるための、冒涜的な儀式なんだ。
噛むたびに、顎が痛む。
飲み込むたびに、罪悪感が胃の底に澱のように溜まっていく。
それでも俺は手を止めなかった。
パンくずひとつ、カビの一欠片すらこぼさなかった。
全部、俺の中に入れるんだ。
一つ目を食べ終え、二つ目に手を伸ばした時だった。
ザァァァァァァァッ…………!
突然、凄まじいノイズが頭上から降り注いだ。
静寂だった路地裏の空気が、ビリビリと震える。
「……?」
俺は動きを止めた。
パンを握りしめたまま、音のする方を見上げる。
路地を抜けた先。
表通りの広場に設置された、巨大な街頭モニター。
普段は「本日の処刑者リスト」や「配給の遅延」を淡々と流しているだけの黒い画面が、今は見たこともないほど眩しい光を放っていた。
『市民の諸君! 喜べ! 今日は建国記念日だ!』
スピーカーから、割れんばかりの大音量が響き渡る。
ファンファーレ。
高らかに鳴り響くラッパの音。
軽快な太鼓のリズム。
それは、この第0層には似つかわしくない、あまりにも明るく、暴力的な「祝祭」の音だった。
(うるさい……)
俺は眉をひそめた。
こっちは今、弟の葬式代わりの食事をしてるんだ。
静かにしてくれ。
そんな陽気な音楽、今の俺には騒音でしかない。
けれど、モニターの光は強まるばかりだ。
薄暗い路地裏まで、その人工的な光が侵食してくる。
俺の足元の汚水が、七色に照らされてキラキラと光る。
俺は、吸い寄せられるように立ち上がった。
食べかけのパンを握りしめたまま、ふらふらと表通りへ出る。
モニターを見上げた。
そこには、別世界が映し出されていた。
『見よ! 我らが栄光の「上層」を!』
画面の中は、極彩色だった。
青い空。
本当に青い、澄み渡った空。
白い雲。
咲き乱れる色とりどりの花々。
そして、その中を練り歩く、美しい服を着た人々。
パレードだ。
第0層の人間が一生見ることのない、雲の上にある楽園の映像。
「……あ」
俺の口が、ぽかんと開いた。
綺麗だ、なんて思わなかった。
ただ、残酷だと思った。
同じ塔の中なのに。
上ではこんなに光が溢れているのに、なぜ俺たちは泥水を啜っているんだ?
なぜレオは、あんな暗い穴の中で、石になって死ななきゃならなかったんだ?
『そして! 我らがバベルの希望! 支配者階級の登場だ!』
画面が切り替わる。
大歓声がスピーカーを揺らす。
紙吹雪が舞う中、一台の豪華なパレードカーがゆっくりと進んでくる。
その中央に、一人の男が立っていた。
俺の視線が、その男に釘付けになった。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
その男は、輝いていた。
比喩ではなく、本当に発光しているかのように、圧倒的な存在感を放っていた。
黄金の髪。
整った顔立ち。
そして、見る者すべてを魅了するような、完璧な笑顔。
まるで、太陽だった。
この薄暗い地獄に住む俺たちが、一度も拝んだことのない、本物の太陽がそこにいた。
『第5席! 太陽のヘリオス様だーっ!!』
アナウンサーが絶叫する。
群衆が名前を呼ぶ。
ヘリオス、ヘリオス、ヘリオス!
その男、ヘリオスは、優雅に手を振っていた。
まるで、世界中の幸福を独り占めしているかのような、慈愛に満ちた笑みで。
その顔を見た瞬間。
俺の脳裏で、錆びついた記憶の扉が、乱暴に蹴破られた。
キィィィィン……。
耳鳴りがした。
パレードの音楽が遠のき、代わりに十年前の音が蘇る。
風の音。
母さんの悲鳴。
父さんの折れる骨の音。
そして、俺を見下ろす男の嘲笑。
――『お前はゴミだ。ゴミ箱がお似合いだ』
記憶の中の声と、画面の中の男の笑顔が、パチリと重なった。
「……あ、あ……」
俺の喉から、空気が漏れた。
忘れるはずがない。
忘れていいはずがない。
十年前。
俺の両親を殺し、幼い俺をダストシュートへ蹴り落とした男。
俺から「空」を奪い、この地獄へ突き落とした張本人。
あいつだ。
あいつが、そこにいる。
「……ヘリオス」
名前を口にした瞬間、全身の血が沸騰した。
指先が震える。
恐怖じゃない。
歓喜でもない。
これは、純粋な殺意の震えだ。
あいつは、笑っていた。
俺たちがゴミの中で這いつくばり、カビたパンを奪い合っている今この瞬間も、あいつは空の上で笑っている。
俺がレオを砕いて、泣きながらその欠片を売っている時も、あいつは花束を受け取って笑っていたんだ。
「ふざけるな……」
俺は呻いた。
許せない。
世界が不平等なのは知っていた。
でも、これはあんまりだ。
あいつの笑顔の裏には、俺たちの血が流れている。
あいつが浴びている光の影で、レオは石になって死んだんだ。
俺の手の中で、食べかけのパンが握り潰される。
パラパラと、硬い欠片がこぼれ落ちる。
それはまるで、レオの遺骨のようだった。
胃の中で、さっき食べたパンが熱を持ち始めた。
消化され、エネルギーに変わっていく感覚。
レオの命が、俺の身体に溶けていく。
そして、そのエネルギーは、たった一つの感情へと変換されていく。
復讐だ。
今まで、俺はただ「生きたい」と思っていた。
死にたくない、痛いのは嫌だ、ただそれだけで生きてきた。
でも、違う。
それだけじゃ足りない。
俺が生き残ったのには、理由があるはずだ。
レオが死んで、俺が生き延びたのには、意味があるはずだ。
その意味が、今、分かった。
「……見つけた」
俺は、モニターの中の太陽を睨みつけた。
目が焼けるほど眩しい。
けれど、俺は瞬き一つしなかった。
「そうだ……俺が殺すべきなのは、自分じゃない」
俺はずっと、無力な自分を呪っていた。
守れなかった自分を殺したいと思っていた。
でも、違う。
本当に消えるべきは、この理不尽を作った元凶だ。
「お前だ……ヘリオス」
俺の声は、低く、地を這うような響きを帯びた。
「お前が笑っている限り……俺も、レオも、救われない」
「引きずり下ろしてやる」
「その高い空から、俺たちがいるこのゴミ溜めまで……引きずり下ろして、同じ泥の味を教えてやる」
決意が、言葉となって吐き出される。
それは誓いだった。
弟の命を糧にして立てた、血塗られた誓い。
俺は最後の一口を、口に放り込んだ。
ガリッ、と噛み砕く。
砂の味は、もうしなかった。
するのは、鉄の味。
血と、怒りと、決意の味だ。
ごくん、と飲み込む。
これで、俺とレオは一つになった。
もう寂しくない。
俺の心臓が動く限り、俺の筋肉が動く限り、レオの怒りも共に在る。
俺はモニターを指差した。
画面の中のヘリオスが、ふと、こちらを見た気がした。
カメラ越しに目が合う。
太陽のような金色の瞳と、ドブネズミのような俺の濁った瞳。
「待ってろ」
俺は言った。
「すぐに、そこへ行ってやる」
その時だった。
ズズズズズ…………。
足元の地面が、不気味な音を立てて振動した。
「……?」
地震か?
いや、違う。
揺れは縦ではなく、横でもない。
まるで、地面そのものが「下へ」吸い込まれているような、奇妙な浮遊感。
路地の水たまりの水が、波紋を描く。
壁のレンガに、ピキピキと亀裂が入る。
何かが起きようとしていた。
俺の決意に呼応するように、あるいは俺の運命を嘲笑うように。
第0層のさらに底。
奈落の口が、今まさに開こうとしていた。
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