表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コード:ヴァニタス ~魔術絶対の階級社会を、魔術無効の「虚無」が飲み込む〜  作者: 上ノ空
ゼロの廃棄物

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/13

第3話:命の相場、パン一個と少年の魂(前半)

いつも応援ありがとうございます。


最新話を更新しました。 最後までゆっくりとお楽しみください!


扉を開けた瞬間、鼻をついたのは「嘘」の匂いだった。


カラン、コロン。

古びたドアベルが、間の抜けた音を立てる。

その乾いた音色は、俺の背負っている「中身」が立てる音と、ひどく似ていた。


一歩、足を踏み入れる。

そこは「カロン商会」。

第0層で死んだ者が、最後に辿り着く場所。

そして、人間が「モノ」に変わる境界線だ。


店内の空気は、黄色く濁っていた。

安っぽい香の甘ったるい煙。

染みついたカビと、ほこりの臭い。

そして、それらを隠そうとして塗りたくられた、強烈なニンニクと安酒のアルコール臭。


すべてが混ざり合い、肺に入れるだけで吐き気を催すような、ドロリとした大気を作っていた。

俺は呼吸を浅くした。

こんな汚れた空気に、レオを触れさせたくなかった。


「…………」


俺は入り口で立ち尽くしたまま、店内を見回した。

窓のない、薄暗い空間。

壁際には、ガラスケースが所狭しと並べられている。

その中には、かつて誰かの一部だった「白化種クリスタル」たちが、商品として陳列されていた。

腕の形をしたもの。

足の形をしたもの。

あるいは、元の形すら留めていない、砕かれた瓦礫がれきのようなもの。


それらは皆、薄暗い店内で、皮肉なほど美しく、白く輝いていた。

まるで、ここが宝石店であるかのように。


けれど、違う。

ここは墓場だ。

それも、死者をとむらうための場所じゃない。

死者を骨までしゃぶり尽くす、ハゲタカの巣だ。


俺の背中で、麻袋がズシリと重さを主張する。

縄が肩に食い込み、血を止めている。

指先がしびれている。

けれど、その痛みが今の俺を支えていた。

この痛みがある限り、俺はまだレオと一緒にいる。


「……おい」


カウンターの奥から、不機嫌そうな声が飛んできた。


「客か? それとも物乞いか?」


声の主が、のっそりと姿を現す。

ガムスだ。

この店の店主であり、この界隈かいわいで最もがめつい買取屋。


小太りの身体を、油で汚れた革のエプロンに包んでいる。

禿げ上がった頭には脂汗が浮き、丸い眼鏡の奥にある小さな瞳が、値踏みするように俺を舐め回した。


「……買取だ」


俺は、喉に詰まっていた言葉をようやく吐き出した。

声が震えないように、腹に力を入れる。

ナメられたら終わりだ。

ここで弱みを見せれば、買い叩かれる。


俺はゆっくりと、カウンターへと歩み寄った。

ギッ、ギッ。

床板がきしむ。

俺の靴底についた泥が、店内の床を汚していく。


カウンターの前に立つ。

俺とガムスの間にある、分厚い木の板。

長年の取引で黒ずみ、無数の傷がついたその台は、まるで処刑台のように見えた。


俺は、肩から麻袋を下ろした。


慎重に。

どこにもぶつけないように。

まるで、眠っている赤ん坊をベッドに寝かせるような手つきで。


ゴトッ。


袋がカウンターに置かれる。

その時、袋の中で「ジャラリ」という音がした。

硬い石同士が擦れ合う、冷ややかな音。


ガムスの眉が、ピクリと動く。

彼の視線が、俺の顔から袋へと移動した。

その目つきが変わる。

人間を見る目から、獲物を見る目へ。

あるいは、ゴミ袋の中にある「換金できそうな空き缶」を探す目へ。


「ほう……」


ガムスが、太い指で眼鏡の位置を直した。

その指には、悪趣味な金の指輪がいくつもまっている。

死人の肉を売って手に入れた金だ。


「量はありそうだな。……だが、質はどうだ?」


ガムスが手を伸ばしてくる。

汚れた爪の生えた、クリームパンのように膨れ上がった手が、俺の袋に触れようとする。


(触るな)


俺の身体が、反射的に強張った。

その汚い手で、レオに触れるな。

そう叫んで、袋を奪い返したくなる衝動が、背骨を駆け上がる。


けれど、俺は動かなかった。

動けなかった。

ここで拒否すれば、レオは本当にただのゴミになってしまう。

俺には、ここしか行く場所がないのだ。


俺は唇を噛み切り、拳を握りしめて、その場に釘付けになったように耐えた。


ガムスが、乱暴に袋のひもを解く。

俺がきつく、二重に結んだ結び目を、爪で強引に引きちぎるように解いていく。


袋の口が開いた。

暗闇の中に、白い光が漏れる。


「チッ……」


ガムスが舌打ちをした。


「なんだこりゃ。泥だらけじゃねえか」


彼は袋の底を掴むと、俺が止める間もなく、一気に逆さにした。


ザラララララッ!!


けたたましい音が、静かな店内に響き渡った。

俺の心臓が止まるかと思った。


カウンターの上に、レオがぶちまけられた。

丁寧に拾い集めた破片たちが、無造作に転がり、ぶつかり合い、散らばっていく。


「あ……」


声が出そうになった。

やめてくれ。

そんな乱暴に扱わないでくれ。

それは石ころじゃない。

それは、さっきまで生きていた俺の弟なんだ。


白い破片が跳ねる。

砕けた腕が、転がる。

俺が最後にそっと入れた「右手」のパーツが、無残にも横倒しになり、黒いカウンターの上で揺れている。


舞い上がった白い粉塵ふんじんが、キラキラと光りながら空気中を漂う。

それを吸い込んだガムスが、大げさに咳き込み、手で鼻の前を仰いだ。


「ケホッ、ケホッ! ……おいおい、なんだこの埃は! 店が汚れるだろうが!」


ガムスがにらみつけてくる。

俺は何も言えなかった。

ただ、目の前に広げられた「レオだったもの」を凝視していた。


美しかった。

薄汚れた店内で、カウンターの黒ずみの上で、レオの破片だけが、この世のものとは思えない純白の輝きを放っていた。

どんなに砕かれても、どんなに汚されても、その白さだけは損なわれていなかった。


けれど、ガムスの目には、その美しさは映っていないようだった。

彼はピンセットを取り出すと、汚いものをまむような手つきで、破片の一つを持ち上げた。


カチ、カチ。

金属のピンセットが、レオの破片を弾く。

まるで、不良品かどうかを検査するように。


「……純度が低いな」


ガムスが、鼻で笑った。

吐き捨てられた言葉が、俺の鼓膜を突き刺す。


「見てみろ、この濁り。栄養失調のガキ特有の、スカスカの結晶だ。密度が足りねえんだよ」


「……そいつは」


俺は、掠れた声で反論しようとした。

そいつは、俺に自分のパンを分けてくれたからだ。

自分が腹を空かせてでも、俺に食べさせてくれたからだ。

その優しさを、栄養失調なんて言葉で片付けるな。


「それに、なんだこの黒いのは」


ガムスは、破片にこびりついた黒い土を、ピンセットの先でガリガリと削り落とした。

その土は、俺が地面を爪で削ってまで集めた、レオの一部だ。


「土混じりかよ。重量をごまかそうって魂胆か? ああ?」


「違う……!」


俺は叫んだ。

誤魔化すつもりなんてなかった。

ただ、残したくなかっただけだ。

一粒たりとも、あのゴミ捨て場に置いてきたくなかっただけなんだ。


「違わねえよ。貧民街スラムのネズミが考えることなんざ、みんな同じだ」


ガムスは聞く耳を持たなかった。

彼は面倒くさそうに溜息をつくと、カウンターの横にある大きな天秤てんびんを引き寄せた。

真鍮しんちゅう製の、古びた天秤。

皿の上には、前の客の残した脂汚れがついている。


「ほらよ。とっとと終わらせようぜ」


ガムスが、レオの破片を、手で鷲掴わしづかみにした。

ジャラッ。

乱暴な音。

俺の胸の奥で、何かが千切れる音がした。


彼は掴んだ破片を、天秤の皿の上に、ゴミを捨てるように放り投げた。

ガチャン!

皿が激しく揺れる。

破片同士がぶつかり、小さな欠片がこぼれ落ちて床に転がる。


「あっ……」


俺の視線が、床に落ちた小さな欠片を追った。

拾わなきゃ。

すぐに拾って、戻さなきゃ。

でも、今動けば、ガムスの機嫌を損ねるかもしれない。


俺は、床に落ちたレオの一部を見つめたまま、動けなかった。

自分の無力さが、足かせとなって俺を縛り付けていた。


ガムスは、そんな俺の葛藤など気にも留めず、反対側の皿に分銅ふんどうを乗せていく。


コト、コト。

小さな分銅が乗せられる。

天秤がゆっくりと傾き、釣り合いを探る。


俺は、その揺れる針を食い入るように見つめた。

この針が、レオの価値を決める。

あいつが生きた十年の重さが、この目盛りで定義される。


針が、止まった。


「…………」


俺は、自分の目を疑った。

あまりにも、軽かった。

俺が背負ってきた時の、あの肩に食い込むような重さはどこへ行ったんだ?

天秤の針は、俺の予想の半分も振れていなかった。


「……おかしい」


俺は思わず呟いた。

声が震えていた。


「そんなはずない。もっと重かった。俺は、背負ってきたんだ。肩が切れるくらい、重かったんだぞ!」


「チッ、うるせえな」


ガムスが、気怠けだるげに分銅を指差した。


「目盛りを見ろよ。機械は嘘をつかねえんだよ」


「嘘だ!」


俺はカウンターに身を乗り出した。

見たんだ。

分銅を乗せる前、ガムスの指が、天秤の軸をさりげなく押さえているのを。

あるいは、皿の下に磁石か何かが仕込んであるのかもしれない。


明らかに、軽すぎる。

レオ一人の体重が、こんな小さな鉄の塊数個と同じなわけがない。


「お前、今、何かしただろ! ちゃんと量れよ! 指を離せ!」


俺はガムスの腕を掴もうとした。

怒りで視界が赤く染まる。

レオを殺した俺が、レオを売る俺が、せめてもの償いとしてできることは、あいつの価値を正当に認めさせることだけだ。

それを、こんな小手先の誤魔化しで踏みにじらせてたまるか。


バシッ!


乾いた音が響いた。

俺の手が、ガムスに振り払われたのだ。

予想外の力強さに、俺はよろめいて後退した。


「触るんじゃねえよ、ゴミが」


ガムスの目が、氷のように冷たくなっていた。

さっきまでの気怠さは消え、そこにあるのは、明確な軽蔑と脅迫の色だった。


「イチャモンつける気か? 俺の計量が信用できねえって言うのか?」


「信用できるかよ! 明らかにおかしいだろ!」


「だったら、他へ行け」


ガムスは冷たく言い放った。

その言葉が、俺の心臓を凍りつかせた。


「お前のその汚ねえ石くずを買い取ってくれる店が、この第0層のどこにある? ああ?」


「…………」


俺は言葉を失った。

ない。

分かっていた。

他の店は、もっと酷いか、あるいは門前払いを食らうだけだ。

「無能力者」の持ち込む品なんて、まともに相手にしてくれる場所はない。

ここは、俺たちの足元を見ている。

俺たちには選択肢がないことを知っていて、骨の髄までしゃぶり尽くそうとしているのだ。


「嫌なら持って帰れ。家で漬物石にでもすりゃあいい」


ガムスが、カウンターの上のレオを、手の甲で払う素振りを見せた。


「ただし、二度とこの敷居はまたがせねえぞ」


脅しだ。

卑劣で、完璧な脅しだった。

ここで「NO」と言えば、俺はレオを換金できなくなる。

レオは、本当にただの石塊として、俺の部屋の隅で埃を被ることになる。


それは、ダメだ。

それだけは、絶対にダメだ。

俺はあいつを「資源」にするために、涙を殺して砕いたんだ。

あいつの死を無駄にしないために、ここまで運んできたんだ。


俺の拳が、白くなるほど握りしめられた。

爪が掌に食い込み、さっきの傷口を再び開き、血が滲む。

悔しさが、奥歯の間から血の味となって広がった。


(我慢しろ……)

(耐えろ、ニルス。ここでお前がキレたら、レオが報われない)


俺は、膝が震えるのを必死に抑え込んだ。

全身の血が逆流するような怒りを、無理やり胃の底へ飲み込む。

プライドなんて、とっくに捨てたはずだ。

今は、ただ頭を下げろ。


「……分かった」


俺は、蚊の鳴くような声で言った。

自分の声じゃないみたいだった。

敗北の味がした。


「……それでいい。買い取ってくれ」


「最初からそう言やあいいんだよ」


ガムスが、勝者の笑みを浮かべた。

その油ぎった顔が、醜く歪む。


彼は天秤からレオの破片を下ろすと、それをカウンターの下にある大きな木箱に、ザラザラと流し込んだ。

そこには、他の誰かの骨や、誰かの家族だった石たちが、一緒くたに混ぜられていた。

個人の尊厳などない。

レオが、その「山」の一部になって消えていく。


「さて、代金だが」


ガムスが、カウンターの下をごそごそと探った。

俺は、せめて銀貨一枚でもあれば、と祈った。

パンが十個買える。

そうすれば、レオの命で、俺は一週間生き延びられる。


ガムスの手が、カウンターの上に戻ってくる。

そして。


「ほらよ」


ポン、と。

軽い音がして、何かが放り投げられた。


それがカウンターの上を滑り、俺の目の前で止まる。

俺は、それを呆然と見下ろした。


そこに会ったのは、銀色の輝きではなかった。


緑色の斑点が一面に広がった、石のように硬くなったパンが二つ。

そして、端が欠けた、黒ずんだ銅貨が三枚。


「……え?」


思考が停止した。

計算ができない。

いや、計算するまでもない。


銅貨三枚。

パン二つ。


これが?

これが、レオの値段?

十年間、必死に生きて、笑って、泣いて、最後に俺を庇って死んでいった、あいつの命の対価が?

たったこれだけ?


「冗談……だろ?」


俺は顔を上げた。

ガムスは、もう俺を見ていなかった。

彼はすでに、帳簿に何かを書き込みながら、あくびを噛み殺していた。


「妥当な線だろ。不純物が多いし、加工の手間賃も引かせてもらった」


「手間賃……?」


「ああ。泥を洗う水代もタダじゃねえんだよ」


ガムスが、面倒くさそうに手を振った。

シッシッ、と。

野良犬を追い払うような仕草。


「用が済んだらさっさと消えな。次の客が来る」


俺の目の前が、真っ白になった。

音がない。

世界から音が消えた。


目の前にあるカビたパンが、腐った肉塊に見えた。

銅貨が、俺を嘲笑う三つの目玉に見えた。


(殺すか?)


頭の中に、冷たい声が響いた。

こいつを殺して、レオを取り返そうか?

今ならできる。

このカウンターを飛び越えて、あの油ぎった喉笛に噛みついてやればいい。


右手がピクリと動いた。

殺意が、筋肉を収縮させる。


その時。

カウンターの隅に置かれた鏡に、俺の顔が映った。


ひどい顔だった。

血と泥と、白い粉にまみれた、幽鬼のような顔。

その目は、もはや人間のそれではなく、飢えた獣の目をしていて――。


(ああ……)


俺は気づいてしまった。

俺が今、ガムスを殺しても。

俺はただの「殺人鬼」になって、兵士に殺されるだけだ。

レオは取り返せない。

レオの命は、二度と戻らない。


俺に残されたのは、この「ゴミのような対価」だけだ。

これを受け入れることが、俺に残された唯一の道なのだ。


俺は、震える手でパンと銅貨を掴んだ。

パンは硬く、冷たかった。

銅貨は、氷のように指を刺した。


「……ありがとな」


俺は、誰に向けてでもなく呟いた。

言葉にしないと、心が壊れそうだったから。

皮肉でも嫌味でもない。

ただ、自分を保つための呪文。


俺は、背を向けた。

足が重い。

来る時よりも、ずっと重かった。

背中の袋はなくなったのに。

代わりに背負った「空虚」という荷物が、俺を地面に押し潰そうとしていた。


背後で、ガムスの嘲笑う声が聞こえた気がした。

「毎度あり」と。


俺は、逃げるようにして店を出た。

扉が閉まる音。

カラン、コロン。

その音が、俺とレオの物語の終わりを告げる、弔鐘ちょうしょうのように聞こえた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、 下の【☆☆☆☆☆】評価や、ブックマークをいただけると執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ