第3話:命の相場、パン一個と少年の魂(前半)
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扉を開けた瞬間、鼻をついたのは「嘘」の匂いだった。
カラン、コロン。
古びたドアベルが、間の抜けた音を立てる。
その乾いた音色は、俺の背負っている「中身」が立てる音と、ひどく似ていた。
一歩、足を踏み入れる。
そこは「カロン商会」。
第0層で死んだ者が、最後に辿り着く場所。
そして、人間が「モノ」に変わる境界線だ。
店内の空気は、黄色く濁っていた。
安っぽい香の甘ったるい煙。
染みついたカビと、埃の臭い。
そして、それらを隠そうとして塗りたくられた、強烈なニンニクと安酒のアルコール臭。
すべてが混ざり合い、肺に入れるだけで吐き気を催すような、ドロリとした大気を作っていた。
俺は呼吸を浅くした。
こんな汚れた空気に、レオを触れさせたくなかった。
「…………」
俺は入り口で立ち尽くしたまま、店内を見回した。
窓のない、薄暗い空間。
壁際には、ガラスケースが所狭しと並べられている。
その中には、かつて誰かの一部だった「白化種」たちが、商品として陳列されていた。
腕の形をしたもの。
足の形をしたもの。
あるいは、元の形すら留めていない、砕かれた瓦礫のようなもの。
それらは皆、薄暗い店内で、皮肉なほど美しく、白く輝いていた。
まるで、ここが宝石店であるかのように。
けれど、違う。
ここは墓場だ。
それも、死者を弔うための場所じゃない。
死者を骨までしゃぶり尽くす、ハゲタカの巣だ。
俺の背中で、麻袋がズシリと重さを主張する。
縄が肩に食い込み、血を止めている。
指先が痺れている。
けれど、その痛みが今の俺を支えていた。
この痛みがある限り、俺はまだレオと一緒にいる。
「……おい」
カウンターの奥から、不機嫌そうな声が飛んできた。
「客か? それとも物乞いか?」
声の主が、のっそりと姿を現す。
ガムスだ。
この店の店主であり、この界隈で最もがめつい買取屋。
小太りの身体を、油で汚れた革のエプロンに包んでいる。
禿げ上がった頭には脂汗が浮き、丸い眼鏡の奥にある小さな瞳が、値踏みするように俺を舐め回した。
「……買取だ」
俺は、喉に詰まっていた言葉をようやく吐き出した。
声が震えないように、腹に力を入れる。
ナメられたら終わりだ。
ここで弱みを見せれば、買い叩かれる。
俺はゆっくりと、カウンターへと歩み寄った。
ギッ、ギッ。
床板がきしむ。
俺の靴底についた泥が、店内の床を汚していく。
カウンターの前に立つ。
俺とガムスの間にある、分厚い木の板。
長年の取引で黒ずみ、無数の傷がついたその台は、まるで処刑台のように見えた。
俺は、肩から麻袋を下ろした。
慎重に。
どこにもぶつけないように。
まるで、眠っている赤ん坊をベッドに寝かせるような手つきで。
ゴトッ。
袋がカウンターに置かれる。
その時、袋の中で「ジャラリ」という音がした。
硬い石同士が擦れ合う、冷ややかな音。
ガムスの眉が、ピクリと動く。
彼の視線が、俺の顔から袋へと移動した。
その目つきが変わる。
人間を見る目から、獲物を見る目へ。
あるいは、ゴミ袋の中にある「換金できそうな空き缶」を探す目へ。
「ほう……」
ガムスが、太い指で眼鏡の位置を直した。
その指には、悪趣味な金の指輪がいくつも嵌まっている。
死人の肉を売って手に入れた金だ。
「量はありそうだな。……だが、質はどうだ?」
ガムスが手を伸ばしてくる。
汚れた爪の生えた、クリームパンのように膨れ上がった手が、俺の袋に触れようとする。
(触るな)
俺の身体が、反射的に強張った。
その汚い手で、レオに触れるな。
そう叫んで、袋を奪い返したくなる衝動が、背骨を駆け上がる。
けれど、俺は動かなかった。
動けなかった。
ここで拒否すれば、レオは本当にただのゴミになってしまう。
俺には、ここしか行く場所がないのだ。
俺は唇を噛み切り、拳を握りしめて、その場に釘付けになったように耐えた。
ガムスが、乱暴に袋の紐を解く。
俺がきつく、二重に結んだ結び目を、爪で強引に引きちぎるように解いていく。
袋の口が開いた。
暗闇の中に、白い光が漏れる。
「チッ……」
ガムスが舌打ちをした。
「なんだこりゃ。泥だらけじゃねえか」
彼は袋の底を掴むと、俺が止める間もなく、一気に逆さにした。
ザラララララッ!!
けたたましい音が、静かな店内に響き渡った。
俺の心臓が止まるかと思った。
カウンターの上に、レオがぶちまけられた。
丁寧に拾い集めた破片たちが、無造作に転がり、ぶつかり合い、散らばっていく。
「あ……」
声が出そうになった。
やめてくれ。
そんな乱暴に扱わないでくれ。
それは石ころじゃない。
それは、さっきまで生きていた俺の弟なんだ。
白い破片が跳ねる。
砕けた腕が、転がる。
俺が最後にそっと入れた「右手」のパーツが、無残にも横倒しになり、黒いカウンターの上で揺れている。
舞い上がった白い粉塵が、キラキラと光りながら空気中を漂う。
それを吸い込んだガムスが、大げさに咳き込み、手で鼻の前を仰いだ。
「ケホッ、ケホッ! ……おいおい、なんだこの埃は! 店が汚れるだろうが!」
ガムスが睨みつけてくる。
俺は何も言えなかった。
ただ、目の前に広げられた「レオだったもの」を凝視していた。
美しかった。
薄汚れた店内で、カウンターの黒ずみの上で、レオの破片だけが、この世のものとは思えない純白の輝きを放っていた。
どんなに砕かれても、どんなに汚されても、その白さだけは損なわれていなかった。
けれど、ガムスの目には、その美しさは映っていないようだった。
彼はピンセットを取り出すと、汚いものを摘まむような手つきで、破片の一つを持ち上げた。
カチ、カチ。
金属のピンセットが、レオの破片を弾く。
まるで、不良品かどうかを検査するように。
「……純度が低いな」
ガムスが、鼻で笑った。
吐き捨てられた言葉が、俺の鼓膜を突き刺す。
「見てみろ、この濁り。栄養失調のガキ特有の、スカスカの結晶だ。密度が足りねえんだよ」
「……そいつは」
俺は、掠れた声で反論しようとした。
そいつは、俺に自分のパンを分けてくれたからだ。
自分が腹を空かせてでも、俺に食べさせてくれたからだ。
その優しさを、栄養失調なんて言葉で片付けるな。
「それに、なんだこの黒いのは」
ガムスは、破片にこびりついた黒い土を、ピンセットの先でガリガリと削り落とした。
その土は、俺が地面を爪で削ってまで集めた、レオの一部だ。
「土混じりかよ。重量をごまかそうって魂胆か? ああ?」
「違う……!」
俺は叫んだ。
誤魔化すつもりなんてなかった。
ただ、残したくなかっただけだ。
一粒たりとも、あのゴミ捨て場に置いてきたくなかっただけなんだ。
「違わねえよ。貧民街のネズミが考えることなんざ、みんな同じだ」
ガムスは聞く耳を持たなかった。
彼は面倒くさそうに溜息をつくと、カウンターの横にある大きな天秤を引き寄せた。
真鍮製の、古びた天秤。
皿の上には、前の客の残した脂汚れがついている。
「ほらよ。とっとと終わらせようぜ」
ガムスが、レオの破片を、手で鷲掴みにした。
ジャラッ。
乱暴な音。
俺の胸の奥で、何かが千切れる音がした。
彼は掴んだ破片を、天秤の皿の上に、ゴミを捨てるように放り投げた。
ガチャン!
皿が激しく揺れる。
破片同士がぶつかり、小さな欠片がこぼれ落ちて床に転がる。
「あっ……」
俺の視線が、床に落ちた小さな欠片を追った。
拾わなきゃ。
すぐに拾って、戻さなきゃ。
でも、今動けば、ガムスの機嫌を損ねるかもしれない。
俺は、床に落ちたレオの一部を見つめたまま、動けなかった。
自分の無力さが、足かせとなって俺を縛り付けていた。
ガムスは、そんな俺の葛藤など気にも留めず、反対側の皿に分銅を乗せていく。
コト、コト。
小さな分銅が乗せられる。
天秤がゆっくりと傾き、釣り合いを探る。
俺は、その揺れる針を食い入るように見つめた。
この針が、レオの価値を決める。
あいつが生きた十年の重さが、この目盛りで定義される。
針が、止まった。
「…………」
俺は、自分の目を疑った。
あまりにも、軽かった。
俺が背負ってきた時の、あの肩に食い込むような重さはどこへ行ったんだ?
天秤の針は、俺の予想の半分も振れていなかった。
「……おかしい」
俺は思わず呟いた。
声が震えていた。
「そんなはずない。もっと重かった。俺は、背負ってきたんだ。肩が切れるくらい、重かったんだぞ!」
「チッ、うるせえな」
ガムスが、気怠げに分銅を指差した。
「目盛りを見ろよ。機械は嘘をつかねえんだよ」
「嘘だ!」
俺はカウンターに身を乗り出した。
見たんだ。
分銅を乗せる前、ガムスの指が、天秤の軸をさりげなく押さえているのを。
あるいは、皿の下に磁石か何かが仕込んであるのかもしれない。
明らかに、軽すぎる。
レオ一人の体重が、こんな小さな鉄の塊数個と同じなわけがない。
「お前、今、何かしただろ! ちゃんと量れよ! 指を離せ!」
俺はガムスの腕を掴もうとした。
怒りで視界が赤く染まる。
レオを殺した俺が、レオを売る俺が、せめてもの償いとしてできることは、あいつの価値を正当に認めさせることだけだ。
それを、こんな小手先の誤魔化しで踏みにじらせてたまるか。
バシッ!
乾いた音が響いた。
俺の手が、ガムスに振り払われたのだ。
予想外の力強さに、俺はよろめいて後退した。
「触るんじゃねえよ、ゴミが」
ガムスの目が、氷のように冷たくなっていた。
さっきまでの気怠さは消え、そこにあるのは、明確な軽蔑と脅迫の色だった。
「イチャモンつける気か? 俺の計量が信用できねえって言うのか?」
「信用できるかよ! 明らかにおかしいだろ!」
「だったら、他へ行け」
ガムスは冷たく言い放った。
その言葉が、俺の心臓を凍りつかせた。
「お前のその汚ねえ石くずを買い取ってくれる店が、この第0層のどこにある? ああ?」
「…………」
俺は言葉を失った。
ない。
分かっていた。
他の店は、もっと酷いか、あるいは門前払いを食らうだけだ。
「無能力者」の持ち込む品なんて、まともに相手にしてくれる場所はない。
ここは、俺たちの足元を見ている。
俺たちには選択肢がないことを知っていて、骨の髄までしゃぶり尽くそうとしているのだ。
「嫌なら持って帰れ。家で漬物石にでもすりゃあいい」
ガムスが、カウンターの上のレオを、手の甲で払う素振りを見せた。
「ただし、二度とこの敷居は跨がせねえぞ」
脅しだ。
卑劣で、完璧な脅しだった。
ここで「NO」と言えば、俺はレオを換金できなくなる。
レオは、本当にただの石塊として、俺の部屋の隅で埃を被ることになる。
それは、ダメだ。
それだけは、絶対にダメだ。
俺はあいつを「資源」にするために、涙を殺して砕いたんだ。
あいつの死を無駄にしないために、ここまで運んできたんだ。
俺の拳が、白くなるほど握りしめられた。
爪が掌に食い込み、さっきの傷口を再び開き、血が滲む。
悔しさが、奥歯の間から血の味となって広がった。
(我慢しろ……)
(耐えろ、ニルス。ここでお前がキレたら、レオが報われない)
俺は、膝が震えるのを必死に抑え込んだ。
全身の血が逆流するような怒りを、無理やり胃の底へ飲み込む。
プライドなんて、とっくに捨てたはずだ。
今は、ただ頭を下げろ。
「……分かった」
俺は、蚊の鳴くような声で言った。
自分の声じゃないみたいだった。
敗北の味がした。
「……それでいい。買い取ってくれ」
「最初からそう言やあいいんだよ」
ガムスが、勝者の笑みを浮かべた。
その油ぎった顔が、醜く歪む。
彼は天秤からレオの破片を下ろすと、それをカウンターの下にある大きな木箱に、ザラザラと流し込んだ。
そこには、他の誰かの骨や、誰かの家族だった石たちが、一緒くたに混ぜられていた。
個人の尊厳などない。
レオが、その「山」の一部になって消えていく。
「さて、代金だが」
ガムスが、カウンターの下をごそごそと探った。
俺は、せめて銀貨一枚でもあれば、と祈った。
パンが十個買える。
そうすれば、レオの命で、俺は一週間生き延びられる。
ガムスの手が、カウンターの上に戻ってくる。
そして。
「ほらよ」
ポン、と。
軽い音がして、何かが放り投げられた。
それがカウンターの上を滑り、俺の目の前で止まる。
俺は、それを呆然と見下ろした。
そこに会ったのは、銀色の輝きではなかった。
緑色の斑点が一面に広がった、石のように硬くなったパンが二つ。
そして、端が欠けた、黒ずんだ銅貨が三枚。
「……え?」
思考が停止した。
計算ができない。
いや、計算するまでもない。
銅貨三枚。
パン二つ。
これが?
これが、レオの値段?
十年間、必死に生きて、笑って、泣いて、最後に俺を庇って死んでいった、あいつの命の対価が?
たったこれだけ?
「冗談……だろ?」
俺は顔を上げた。
ガムスは、もう俺を見ていなかった。
彼はすでに、帳簿に何かを書き込みながら、あくびを噛み殺していた。
「妥当な線だろ。不純物が多いし、加工の手間賃も引かせてもらった」
「手間賃……?」
「ああ。泥を洗う水代もタダじゃねえんだよ」
ガムスが、面倒くさそうに手を振った。
シッシッ、と。
野良犬を追い払うような仕草。
「用が済んだらさっさと消えな。次の客が来る」
俺の目の前が、真っ白になった。
音がない。
世界から音が消えた。
目の前にあるカビたパンが、腐った肉塊に見えた。
銅貨が、俺を嘲笑う三つの目玉に見えた。
(殺すか?)
頭の中に、冷たい声が響いた。
こいつを殺して、レオを取り返そうか?
今ならできる。
このカウンターを飛び越えて、あの油ぎった喉笛に噛みついてやればいい。
右手がピクリと動いた。
殺意が、筋肉を収縮させる。
その時。
カウンターの隅に置かれた鏡に、俺の顔が映った。
ひどい顔だった。
血と泥と、白い粉にまみれた、幽鬼のような顔。
その目は、もはや人間のそれではなく、飢えた獣の目をしていて――。
(ああ……)
俺は気づいてしまった。
俺が今、ガムスを殺しても。
俺はただの「殺人鬼」になって、兵士に殺されるだけだ。
レオは取り返せない。
レオの命は、二度と戻らない。
俺に残されたのは、この「ゴミのような対価」だけだ。
これを受け入れることが、俺に残された唯一の道なのだ。
俺は、震える手でパンと銅貨を掴んだ。
パンは硬く、冷たかった。
銅貨は、氷のように指を刺した。
「……ありがとな」
俺は、誰に向けてでもなく呟いた。
言葉にしないと、心が壊れそうだったから。
皮肉でも嫌味でもない。
ただ、自分を保つための呪文。
俺は、背を向けた。
足が重い。
来る時よりも、ずっと重かった。
背中の袋はなくなったのに。
代わりに背負った「空虚」という荷物が、俺を地面に押し潰そうとしていた。
背後で、ガムスの嘲笑う声が聞こえた気がした。
「毎度あり」と。
俺は、逃げるようにして店を出た。
扉が閉まる音。
カラン、コロン。
その音が、俺とレオの物語の終わりを告げる、弔鐘のように聞こえた。
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