第2話:砕く感触、手のひらに残る友の欠片(前半)
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振り上げた腕が、鉛のように重かった。
頭上には、どこまでも曇った第0層の空が広がっている。
分厚い雲の隙間から、頼りない光が漏れているけれど、それは俺たちを照らすためのものではない。
ただ、これから起きる残酷な行為を、無表情に見下ろすための明かりだ。
俺の手の中には、錆ついた鉄パイプがある。
さっき拾ったばかりの、工事現場の廃材。
表面はザラザラとしていて、赤茶色の粉が俺の掌に食い込んでいる。
冷たい。
ひどく冷たい鉄の塊だ。
それが今、俺と世界を繋ぐ唯一の接点だった。
(やるんだ)
俺は奥歯を噛み締めた。
ギリ、と顎の骨がきしむ音が、脳内に響く。
目の前には、レオがいる。
地面に横たわり、半身が白く輝く石に変わってしまった、俺の大切な弟分。
その左目だけが、澄んだ色で俺を見ていた。
「ありがとう」
さっき、あいつはそう言った。
恐怖に震えていたはずの瞳から、怯えが消えていた。
そこにあるのは、俺への絶対的な信頼と、安らかな諦め。
それが、俺を追い詰める。
罵ってくれたらよかった。
「やめろ」「殺すな」と泣き叫んでくれたら、俺はここで逃げ出せたかもしれない。
けれど、レオは全てを受け入れている。
俺がこの手を下すことを、最後の「救い」として待っている。
(俺は、救うんだ)
(これは人殺しじゃない。救済だ)
心の中で、呪文のように繰り返す。
けれど、身体は正直だった。
心臓が早鐘を打っている。
全身から冷や汗が噴き出し、衣服が肌に張り付く。
胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
振り上げた鉄パイプが、小刻みに震えていた。
空気が重い。
まるで水の中にいるように、時間の流れが淀んでいる。
「……っ、う、ぅぅ……!」
喉の奥から、情けない唸り声が漏れた。
早くしろ。
早く振り下ろせ。
待たせれば待たせるほど、レオは苦しむ。
石化の浸食は止まらない。今この瞬間も、あいつの神経を、細胞を、心を、白い悪魔が食い荒らしているんだ。
俺は息を止めた。
肺の中の酸素をすべて吐き出し、真空にする。
そうでもしないと、正気を保っていられなかった。
(ごめん)
言葉にはしなかった。
謝罪なんて、偽善だ。
これからあいつの頭を砕く人間が、許しを請う資格なんてない。
俺は、目をカッと見開いた。
閉じてはいけない。
あいつの最期を、俺の罪を、この網膜に焼き付けなければならない。
腕に力を込める。
筋肉が悲鳴を上げる。
「あああああぁぁぁぁぁッ!!!!」
俺は叫んだ。
気合いではない。恐怖を誤魔化すための、ただの絶叫だ。
その声に乗せて、俺は重力に身を任せた。
鉄パイプが、空気を切り裂く。
ヒュオッ、という低い風切り音。
それが、死神の鎌の音に聞こえた。
時間は引き延ばされ、永遠の一秒が流れる。
錆びた鉄塊が、レオの頭部へ吸い込まれていく。
白い、あまりにも白く綺麗な、その額へと。
直撃の瞬間。
俺は、無意識に「柔らかい感触」を予想していた。
どんなに石化していても、相手は人間だ。
肉と、骨と、血でできた、十歳の子供だ。
だから、グシャリという嫌な感触が手に残るのだろうと、覚悟していた。
けれど。
現実は、俺の想像を遥かに超える「拒絶」を返してきた。
ガキィィィィンッ!!
硬質で、甲高い音が炸裂した。
それは、人間を殴った音ではなかった。
巨大な岩盤を、ツルハシで全力で叩いたような音。
あるいは、分厚い金属板同士が衝突したような、耳をつんざく破壊音。
「……っ!?」
衝撃が、鉄パイプを通して俺の両腕に跳ね返ってきた。
ビリビリビリッ!
激しい電流のような痺れが、指先から肩までを一瞬で駆け抜ける。
掌の皮が裂けた気がした。
骨がきしみ、手首が持っていかれそうになる。
あまりの反動に、俺は鉄パイプを取り落としそうになった。
たたらを踏み、無様に体勢を崩す。
(な、んだ……これ)
俺は荒い息を吐きながら、レオを見た。
砕けていなかった。
あれだけの勢いで振り下ろしたのに。
殺すつもりで、全力を込めたのに。
レオの額の、石化した白い皮膚。
そこに、細い亀裂が一本走っているだけだった。
まるで、高級な大理石にひっかき傷がついた程度。
赤い血すら流れていない。
(硬い……)
絶望が、冷たい水となって頭から浴びせられる。
硬すぎる。
これが、白化現象の正体なのか。
人の体を、ただの石ころではなく、ダイヤモンドのような硬度を持つ「輝石」に変えてしまう病。
レオは、まだ動いていた。
衝撃で首がガクンと揺れたが、意識はまだあるようだった。
左目だけが、うつろに俺を見ている。
その瞳が、わずかに揺らいだ。
痛み。
想像を絶する衝撃と、それでも死ねなかった苦しみ。
「あ……ぅ……」
レオの唇から、空気が漏れる。
その音が、俺の心臓を雑巾のように絞り上げた。
中途半端だ。
一番やってはいけないことをしてしまった。
殺すこともできず、ただ激痛を与えただけ。
これじゃあ、俺はただの拷問官だ。
「くそっ……! くそっ、くそっ!」
俺はパニックになった。
思考が真っ白に染まる。
焦りが、マグマのように噴き出す。
早く。
早く終わらせないと。
これ以上、あいつに痛い思いをさせてはいけない。
一秒でも早く、意識を断ち切ってやらなきゃいけない。
「ごめん! ごめんな、レオ!」
俺は泣きながら、再び鉄パイプを握り直した。
手が震えて、うまく力が入らない。
裂けた掌から血が滲み、鉄パイプの錆と混じってヌルヌルと滑る。
「すぐ終わる! すぐ終わらせるからッ!」
俺は獣のように吠え、再び腕を振り上げた。
狙いは同じ。
ひび割れた額。
二撃目。
ガッ!!
鈍い音がした。
さっきよりは深く入った感触。
けれど、まだだ。
まだ、形を保っている。
三撃目。
ガンッ!
手が痛い。
指の感覚がなくなっていく。
それでも、止まるわけにはいかない。
レオの目が、まだ開いているからだ。
その目が、「まだ痛いよ」と訴えているからだ。
「死んでくれ……! 頼むから死んでくれよぉッ!」
祈りなのか、呪詛なのか分からない言葉を叫び続ける。
俺はもう、自分が何をしているのか分からなくなっていた。
ただの自動機械。
目の前の「硬いもの」を粉砕するためだけに動く、壊れたピストン。
四撃目。
五撃目。
六撃目。
ガキン。
バキッ。
ジャリッ。
音が、変わっていく。
最初は岩を叩くような高い音だったのが、徐々に湿った、崩れるような音へと変化していく。
視界の端で、白い粉が舞うのが見えた。
キラキラと、朝日に反射して光る微粒子。
それは、レオの身体の一部だった。
かつて笑顔を作り、言葉を話し、俺を兄と慕ってくれた、レオの顔の一部。
それが今、ただの粉塵となって、ゴミ捨て場の汚れた空気に溶けていく。
(見るな)
脳が警告を発する。
これ以上直視すれば、お前の心は二度と戻らない場所へ行ってしまう。
けれど、俺は目を見開いたままだった。
瞬きすら忘れていた。
涙が乾き、目が充血して痛い。
目の前の光景は、グロテスクでありながら、冒涜的なまでに美しかった。
飛び散る破片は、宝石のように白く透き通っている。
断面は鋭利で、まるで水晶の結晶だ。
血の一滴も出ない。
肉の赤色がないことが、逆に「これはもう人間ではない」という事実を冷酷に突きつけてくる。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
俺の呼吸音だけが、周囲に響いている。
鉄パイプを振り下ろすたびに、肩の筋肉が悲鳴を上げ、掌の皮がさらに剥ける。
鉄の錆臭さと、自分の血の匂い。
そして、石が焦げたような、独特の乾いた匂いが鼻をつく。
七撃目。
八撃目。
もう、レオの顔は判別できなかった。
そこにあるのは、白い瓦礫の山だけ。
左目も、もうない。
俺を見ていたあの瞳は、俺の手で砕いてしまった。
それでも、俺は手を止められなかった。
止めるタイミングが分からなかったのだ。
もし、まだ生きていたら?
もし、この破片の中で、まだ意識だけが残って苦しんでいたら?
その想像が怖くて、俺は狂ったように鉄パイプを叩きつけ続けた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
意味のない絶叫。
喉が裂けて、血の味がする。
涙なのか汗なのか分からない液体が、顎から滴り落ちる。
地面の土まで一緒に叩く。
泥と、白い粉が混ざり合い、汚れた灰色に変わっていく。
綺麗な白のままではいさせてくれない。
この世界は、死に様さえも薄汚く塗りつぶそうとする。
ガッ。
ザリッ。
……ボフッ。
叩く音が、完全に変わった。
硬いものを砕く音ではなく、土を叩く鈍い音になった。
もう、砕くべき大きな塊は残っていなかった。
俺の腕が、空中で止まった。
限界だった。
筋肉が痙攣し、指が硬直して、鉄パイプを握っていられない。
カラン……。
乾いた音がして、鉄パイプが手から滑り落ちた。
それは、何かの終わりの合図のように、静寂を連れてきた。
「はぁ……っ、はぁ……っ、うっ……」
俺は肩で息をしながら、足元を見下ろした。
静かだった。
あまりにも静かだった。
さっきまで、そこにいた少年。
パンを分け合い、寒さを凌ぎ、未来を語り合った弟分。
そいつはもう、どこにもいなかった。
あるのは、地面に散らばった無数の白い破片と、粉。
それだけだ。
原型を留めているものは、何ひとつない。
指先ひとつ、髪の毛一本すら、残っていなかった。
風が吹いた。
ゴミ捨て場特有の、生温かい腐臭を孕んだ風。
その風に乗って、舞い上がっていた白い粉塵が、ゆっくりと降りてくる。
俺の肩に。
髪に。
そして、血と錆で汚れた俺の掌の上に。
サラサラと、音もなく。
まるで、冬の初めに降る粉雪のように。
冷たかった。
肌に触れたその粉は、雪のように溶けて消えることはなく、冷たい感触を残したまま、俺の体温を奪っていく。
(レオ……)
名前を呼ぼうとして、声が出なかった。
呼ぶべき相手が、もう形を成していない。
俺が壊したんだ。
俺が、この手で、跡形もなく。
膝から力が抜けた。
糸が切れた操り人形のように、俺はその場に崩れ落ちた。
地面に手をつく。
手のひらの下に、ジャラリとした感触があった。
それは、砕かれたレオの欠片だった。
鋭く尖った断面が、俺の傷ついた掌に突き刺さる。
痛い。
けれど、その痛みがどこか遠くに感じられた。
心の一部が麻痺して、感覚が遮断されているようだった。
俺は呆然と、自分の手を見つめた。
赤黒い血と、白い粉。
それがマーブル模様に混ざり合って、こびりついている。
汚い手だ。
救うための手じゃなかった。
ただ破壊し、奪い、汚すだけの手。
「……あ、あ……」
口を開けても、乾いた音しか出ない。
涙も出なかった。
さっき全部、流し尽くしてしまったから。
今の俺は、中身が空っぽになった革袋みたいだ。
静寂が、痛かった。
誰かに責められた方が、まだマシだったかもしれない。
「人殺し」と罵られ、石を投げつけられた方が、人間としての感覚を保てたかもしれない。
けれど、世界は俺を無視していた。
ゴミ捨て場のハエが飛び交い、遠くでカラスが鳴いているだけ。
ひとりの少年が死に、ひとりの少年が人殺しになったことなど、この塔にとっては日常の些事に過ぎないのだ。
(終わったんだ……)
俺は、地面に散らばる白い残骸を、ぼんやりと眺めた。
キラキラと光るそれらは、ゴミの中に落ちた星の屑のようにも見えた。
でも、違う。
これはゴミだ。
この世界において、命を失った者は、ただの廃棄物だ。
ここに置いていけば、数時間後には回収車が来て、他の生ゴミと一緒に焼却炉へ放り込まれるだろう。
(ゴミ……?)
その単語が、麻痺していた脳に電流を走らせた。
レオが、ゴミ?
あんなに生きたがっていたあいつが?
怪物になりたくないと、最期に俺に願ったあいつが?
「……ふざけるな」
掠れた声が出た。
誰に対する怒りなのか分からない。
世界にか、自分にか、それとも神にか。
このままじゃ、レオは本当にゴミになってしまう。
俺が砕いたせいで、ただの瓦礫として処理されてしまう。
それはダメだ。
それだけは、絶対にさせてはいけない。
じゃあ、どうする?
埋めるか?
第0層に墓なんて作る場所はない。掘り返されて、結局は捨てられる。
俺の視線が、瓦礫の向こう。
街の入り口にある、薄汚れた看板の方へ吸い寄せられた。
『資源回収所』
『白化種・高価買取』
その文字が、悪魔の囁きのように網膜に焼き付いた。
買取。
換金。
この世界では、白化して死んだ人間は「資源」と呼ばれる。
レンガの材料や、燃料の添加剤として使われる、ただの素材。
けれど。
素材として売れば、少なくとも「ゴミ」ではなくなる。
誰かの家の壁になり、暖炉の火になり、世界の形の一部として残る。
(売るのか?)
俺の中の理性が、激しく拒絶する。
友達を? 弟を?
砕いて殺した直後に、それを袋に詰めて、金に換えるのか?
そんなの、人間のすることじゃない。
悪魔でも、もう少し躊躇うはずだ。
胃液が逆流する。
俺は地面に向かって、えづいた。
何も出ない。胃の中は空っぽだから。
「……拾わなきゃ」
誰かが喋った気がした。
他人事のような響きだった。
自分の口が動いていることに気づくのに、数秒かかった。
「拾わなきゃ……全部」
俺は、震える手で腰のポーチを探った。
いつも廃棄物を拾って集めるための、ボロボロの麻袋。
それを取り出し、口を広げる。
俺は、地面に手を伸ばした。
目の前にある、一番大きな塊。
おそらく、肩の骨だった部分。
それを、そっと掴む。
ジャリ。
冷たい感触。
鋭い角が指に食い込む。
俺はそれを、壊れ物を扱うように、丁寧に麻袋の中に入れた。
コトン。
袋の底で、乾いた音がした。
それが、俺の「換金作業」の始まりの合図だった。
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