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コード:ヴァニタス ~魔術絶対の階級社会を、魔術無効の「虚無」が飲み込む〜  作者: 上ノ空
ゼロの廃棄物

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第6話:探索 汚染された深淵、呼吸できる地獄

いつも応援ありがとうございます。


最新話を更新しました。 最後までゆっくりとお楽しみください!


意識が、ゆっくりと水面へと浮上していく。


最初に感じたのは、寒さではなかった。

硬さだった。

背中全体を押し付ける、ゴツゴツとした岩の感触。

その冷やりとした感触が、皮膚を通して、眠っていた神経を一本ずつ叩き起こしていく。


「……ぁ」


唇が動いた。

乾いた音が、喉の奥から漏れる。

自分の声だ。

生きている。

俺はまだ、呼吸をしている。


まぶたを開ける。

重い。

泥がこびりついた睫毛まつげが、互いに絡み合って抵抗する。

それを無理やり引き剥がすようにして、俺は世界を覗き込んだ。


そこは、青かった。


空の青さではない。

深海の底のような、あるいは古いガラスのような、静謐せいひつで幽玄な青白い光。

それが、視界いっぱいに広がっていた。


(ここは……どこだ?)


俺は上体を起こそうとした。

全身の筋肉が、きしむような音を立てる。

痛い。

けれど、その痛みは鋭利なものではなく、長い眠りから覚めた後のような、鈍く重い疲労感だった。


手を地面につく。

ピチャリ。

水音がした。


見下ろすと、俺は岩場に打ち上げられていた。

足元のすぐそばまで、あの黒い泥の海が迫っている。

さっきまで俺を飲み込み、殺そうとしていた死の海。

今は、鏡のように静まり返り、天井の青い光を反射してきらめいていた。


俺は、自分の手を見た。


黒い。

指先から肘まで、ベットリと泥に覆われている。

服も、肌も、髪の毛も、すべてが黒く染まっている。


(溶けてない……)


俺は、恐る恐る反対の手で、泥にまみれた腕を触った。

皮膚の感触がある。

骨の硬さがある。

温かい血が流れている脈動がある。


不思議だった。

あれだけ苦しかったのに。

あれだけ「死」の味がしたのに。

この泥は、俺の体を溶かすどころか、まるで薄い膜のように俺を守っている気がした。


俺は、顔についた泥をぬぐった。

ヌルリとした感触。

不快なはずなのに、なぜか嫌悪感はなかった。

むしろ、懐かしさすら覚える。

まるで、俺自身がこの泥から生まれた生き物であるかのような、奇妙な一体感。


「……ふぅ」


息を吐く。

白く濁った呼気が、青い光の中に溶けていく。


そして、俺は気づいた。


(息が……楽だ)


驚くべきことだった。

第0層の空気は、いつだって重く、カビ臭く、肺を刺すような痛みを伴っていた。

呼吸をするたびに、寿命が縮むような感覚があった。


けれど、ここは違う。

空気が、澄んでいる。

湿り気を含んだ冷たい空気は、ミントのように清涼で、喉の奥をスーッと通り抜けていく。

肺の隅々まで、新鮮な酸素が染み渡る。


「……はは」


乾いた笑いがこぼれた。

皮肉な話だ。

世界の底の、さらにその下の地獄。

こんな場所の空気が、一番「美味しい」なんて。


俺はゆっくりと立ち上がった。

膝が震える。

平衡感覚が定まらない。

それでも、俺は両足で地面を踏みしめた。


見渡す限り、誰もいない。

巨大なドーム状の空間。

天井も壁も、遥か彼方まで続いている。

その全てを、青白く発光するこけのようなものが覆い尽くしている。


音がない。

風の音も、虫の声も、人の話し声も。

聞こえるのは、俺の心臓の鼓動と、濡れた服から泥がしたたる音だけ。


「……静かだ」


俺の声が、空洞に反響する。

誰からも返事はない。

罵声ばせいも、嘲笑も、石を投げる音も返ってこない。


寂しい、とは感じなかった。

むしろ、肩の荷が下りたような、圧倒的な解放感がそこにあった。


俺は、一人だ。

世界から切り離され、忘れ去られ、捨てられた。

でも、だからこそ。

ここには、俺を傷つけるものは何もない。


「悪くないな」


俺は呟いた。

泥だらけの顔が、自然と歪んで笑みの形を作る。


「地獄にしては……居心地がいい」


俺は一歩、足を踏み出した。

この広大な、青白い王国の探索を始めるために。


***


歩くたびに、ピチャ、ピチャ、という音がついてくる。

その音だけが、今の俺の友達だった。


岩場は、どこまでも続いていた。

ただの自然の洞窟ではないことは、すぐに分かった。

足元の岩が、あまりにも平らすぎるのだ。

まるで、誰かが意図的に敷き詰めたように。


(なんだ、これ……?)


俺はしゃがみ込み、足元の岩を撫でた。

表面は苔でヌルヌルしているが、その下にあるのは、硬く、冷たい石の板だ。

正方形。

規則正しい継ぎ目。


「タイル……?」


第0層にはない。

もっと上の、富裕層が住む街にあると聞いたことがある。

道を綺麗に見せるための、贅沢な石畳。


それが、なぜこんな場所にある?


俺は顔を上げた。

目を凝らす。

青白い薄明かりの向こうに、巨大な影が浮かび上がっているのが見えた。


最初は、ただの岩山だと思った。

泥の海から突き出した、黒い岩礁。

けれど、近づくにつれて、その違和感は確信へと変わっていった。


形が、鋭すぎる。

自然界には存在しない、直線のシルエット。

直角に切り立った崖。

空に向かって鋭く伸びる針のような先端。


俺の足が止まった。

心臓が、ドクンと大きく跳ねる。


「……岩じゃない」


あれは、山なんかじゃない。

人工物だ。


俺は、吸い寄せられるようにその影へと歩み寄った。

泥に足を取られそうになる。

それでも、目を逸らせなかった。


目の前にそびえ立つ、巨大な黒い壁。

高さは十メートル、いや、もっとあるかもしれない。

表面は風化してボロボロに崩れているが、そこには明らかに「意志」が刻まれていた。


俺は手を伸ばした。

震える指先で、その壁に触れる。


ザラリ。


冷たく、乾いた感触。

指に力を入れると、表面が砂のように崩れ落ちた。

長い、長い時間をかけて、朽ち果てていったものの感触。


俺は、泥で汚れた袖で、壁の表面をゴシゴシと擦った。

こびりついた苔と泥が落ちる。

その下から、何かが現れる。


「…………ッ!?」


俺は息を呑んで、後ずさった。


模様だ。

幾何学的な、美しい模様が彫り込まれていた。

花のような、星のような、あるいは見たこともない文字のような、複雑なレリーフ。

それは、バベルのどの階層でも見たことのないデザインだった。


「なんだよ、これ……」


俺は呆然と見上げた。

この巨大な壁は、ただの壁じゃない。

「柱」だ。

一本の、途方もなく巨大な石の柱の一部が、泥の中から突き出ているのだ。


視界を広げる。

改めて、この空間全体を見渡す。


すると、今まで岩だと思っていたものたちが、全く別の姿に見え始めた。


あっちにある四角い岩は、崩れた家の土台だ。

向こうに見えるアーチ状の影は、橋の残骸だ。

泥の中に半分埋もれているのは、砕けた彫像の顔だ。


(街だ……)


戦慄せんりつが、背筋を駆け上がった。

ここは、ただの空洞じゃない。

ここは、都市だ。

かつて、誰かが住み、誰かが歩き、誰かが暮らしていた、巨大な都市の成れの果てだ。


「嘘だろ……」


俺の知っている世界は「バベル」だけだ。

塔の中こそが世界であり、それ以外には何もないはずだった。

塔の下は、ゴミ捨て場であり、その下は虚無だと教えられてきた。


でも、ここにあるのは何だ?

この圧倒的な質量を持った廃墟は、何なんだ?


バベルができるよりも前。

俺たちが生まれるよりも、ずっとずっと昔。

ここには、別の人間たちが生きていたのか?


俺は、崩れた石柱の根本に座り込んだ。

圧倒された。

恐怖ではない。

畏怖いふ」だった。


自分の存在が、ちっぽけな砂粒のように感じられた。

俺の悩みも、苦しみも、復讐心さえも、この巨大な時間の墓場の前では、些細なことに思えた。


「お前たちも……」


俺は、冷たい石柱に頬を寄せた。


「お前たちも、上から押しつぶされたのか?」


返事はない。

ただ、冷たい石の温度が、俺の火照ほてった頬を冷やすだけ。


「捨てられたんだな」


俺は呟いた。

親近感が湧いた。

この廃墟たちは、俺と同じだ。

世界から忘れ去られ、泥の中に沈められ、それでもこうして形を残している。


「いいよ。俺が一緒にいてやる」


俺は石柱を撫でた。

優しく、友人を慰めるように。


「ここはゴミ捨て場じゃない。……お墓だ」


「立派な、世界で一番大きなお墓だ。……俺にはお似合いだよ」


俺は立ち上がり、さらに奥へと進んだ。

この墓場の中心に、何があるのか知りたかった。

呼ばれている気がした。

この死んだ都市の亡霊たちが、俺を招いているような気がした。


遺跡の密度が増していく。

崩れた壁の迷路を抜ける。

足元には、ガラスのような破片や、錆びついた金属片が散らばっている。

それらを踏むたびに、パリン、カリリ、と乾いた音が響く。

それは、死者たちの骨を踏む音に似ていた。


やがて。

前方が、ひときわ明るく開けた場所に出た。


そこは、広場だった。

円形に並べられた石柱の中心。

祭壇のような、一段高くなった場所。


そこだけ、青白い苔の光とは違う、異質な光が漂っていた。


「…………あ」


俺の足が、釘付けになった。

呼吸を忘れた。

瞬きさえ忘れた。


そこにあったのは、瓦礫の山ではなかった。


突き刺さっていた。

瓦礫の小山の上に。

たった一振りの、「剣」が。


それは、白かった。

レオの石化した腕のような、無機質な白ではない。

もっと凶悪で、もっと飢えた、眼球の白目の部分のような白さ。


刀身の全体に、包帯のような白い布が幾重にも巻き付けられている。

その布は、泥に汚れることもなく、歳月で風化することもなく、新品のように清潔な白さを保っていた。


まるで、怪我人が包帯を巻いているような。

あるいは、死体に白装束を着せているような。

不気味で、けれど神々しい姿。


ドクン。


俺の心臓が、痛いくらいに大きく跳ねた。

共鳴している。

俺の中にある「何か」と、あの剣が、見えない糸で繋がった感覚。


(あれは……なんだ?)


剣だということは分かる。

武器だということも分かる。

けれど、あれはただの道具じゃない。


生きている。

あの包帯の下で、何かが呼吸をしている。

俺を見ている。

俺を待っていた。


俺は、フラフラと吸い寄せられるように、祭壇へと足を運んだ。

一歩近づくたびに、空気が重くなる。

肌がビリビリとしびれる。


濃密な気配。

それは「魔力」だったのかもしれない。

魔力を持たない俺には、それを感知する器官はないはずなのに。

肌感覚として、本能として、理解できた。


あれは、ヤバい。

触れてはいけない。

あれは、人の手に余る「呪い」の塊だ。


理性はそう警告していた。

「逃げろ」と叫んでいた。


けれど。

俺の足は止まらなかった。

俺の目は、その白い剣から離れなかった。


だって、綺麗だったから。

この薄暗い、死に絶えた世界の中で。

あの剣だけが、強烈な「生」への渇望を放っていたから。


(欲しい……)


渇き。

喉の渇きにも似た、強烈な欲求。


俺には力がない。

魔法もない。

未来もない。

あるのは、空っぽの身体と、煮えたぎる復讐心だけ。


なら。

もし、あの剣が「呪い」だとしても。

その呪いが、俺に「力」をくれるなら。


俺は、祭壇の前に立った。

見上げる位置に、その剣はある。

白い包帯の隙間から、銀色の刃がわずかに覗いている。


「……お前も、一人か?」


俺は剣に問いかけた。


「お前も、ここでずっと……誰かが来るのを待っていたのか?」


剣は答えない。

ただ、シーンとした静寂の中で、白く輝いているだけ。


俺は、ゆっくりと手を伸ばした。

泥だらけの、震える指先。

それが、白いつかに触れようとする。


その瞬間。

空気が、凍りついた。


ゾワリ。


悪寒が走る。

ただの寒さじゃない。

魂の芯まで凍らせるような、絶対的な死の予感。


それでも、俺は手を止めなかった。

指先が、包帯の乾いた感触を捉える。


触れた。


その瞬間、俺の世界が反転するような衝撃が走る。

これは、運命の出会いだった。

少年と剣。

復讐者と凶器。

空っぽの器と、飢えた魂。


地獄の底で、物語の歯車が、ギチリと音を立てて噛み合った。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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