第1話:灰の味、あるいは呼吸するたびに死ぬ場所(前半)
初めまして、上ノ空です。
本日から『コード:ヴァニタス ~魔力ゼロの少年と、虚無を喰らう剣~』を開始します!
毎日18時に更新していく予定ですので、末長くお付き合いいただければ幸いです。
世界は、どうしようもなく灰色だった。
瞼の裏にへばりついていた眠気が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。
最初に感じたのは、寒さだ。
薄汚れた毛布の隙間から、凍った針のような空気が忍び込んできて、俺の肌をチクリと刺した。
ここはこの街の最下層、第0層。
陽の光など届かない、巨大な塔の底だ。
鼻の奥にツンとくる、錆た鉄と湿ったカビの臭い。
ああ、今日も生きて目が覚めてしまった。そんな気だるい落胆とともに、俺は重たい体を少しだけ動かした。
右側に、温もりがあるはずだった。
隣で眠っているはずの、弟分のレオ。
十歳の小さな体は、いつだってストーブみたいに熱を発して、俺の脇腹を温めてくれていたからだ。
俺は目を閉じたまま、無意識にその温もりを求めて、毛布の中で手を伸ばした。
指先が、何かに触れる。
「……?」
違和感があった。
指の腹に伝わってきたのは、柔らかい少年の肌ではなかった。
硬い。
そして、恐ろしいほどに冷たい。
まるで、冬の夜に放置された鉄パイプを握ってしまったような、そんな鋭利な冷たさだった。
指先の熱が一瞬で奪われ、心臓がトクン、と嫌な音を立てる。
(なんだ……これ)
俺はまだ、事態を飲み込めない。
レオがベッドの中に、鉄くずを持ち込んだのだろうか。
それとも、俺の手が寒さで麻痺して、感覚がおかしくなっているのか。
嫌な予感が、胸の奥で黒い泥のように渦巻いた。
確認しなければならない。
けれど、目を開けるのが怖い。
俺は息を止め、勇気を振り絞って、薄目を開けた。
薄暗い部屋の中。
ボロボロの毛布から、レオの右腕だけがはみ出している。
そこにあるはずの「腕」を、俺の脳はすぐには認識できなかった。
(……白い?)
白いのだ。
不自然なほどに、白かった。
泥や煤で汚れたいつものレオの腕ではない。
磨き上げられた高級な陶器のような、あるいは冷え切った大理石のような、透き通るような白さ。
指先から、手首、そして肘にかけて。
その「白」は、静かに、けれど確実に侵食していた。
皮膚の下にあるはずの血管の青さも、血の赤みも、すべてがその無機質な白に塗りつぶされている。
「あ……」
喉の奥から、空気が漏れた音だけが出た。
思考が真っ白になる。
拒絶反応が全身を駆け巡る。
嘘だ。
嘘だろ。
昨日まで、一緒に廃棄場のネズミを追いかけていたんだぞ。
昨日の夜まで、俺の背中で「お腹すいたね」って笑ってたじゃないか。
俺は震える手で、その「白い腕」に触れた。
ヒヤリとした感触。
人の肌が持つ弾力はどこにもない。
硬く、冷たく、そして重い。
そこには「命」の脈動がなかった。
その時だった。
「……ぅ、……ぁ」
毛布の中から、微かなうめき声が聞こえた。
レオが身じろぎをする。
その拍子に、白い腕がゴト、と硬い音を立てて床板を叩いた。
自分の腕ではない、まるで物体の音だった。
レオの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
いつもなら、茶色い瞳がクリクリと動いて、「おはよう、ニルス」と言うはずだ。
けれど、今のレオの目は、焦点が定まっていなかった。
恐怖と、混乱と、痛み。
それらが混ざり合った瞳が、俺を映した。
レオの唇が、小刻みに震える。
言葉にしようとして、空気が喉に引っかかる。
俺は息を呑んで、その言葉を待った。
聞きたくない。でも、聞かなければならない。
長い、長い沈黙のあと。
レオは掠れた声で、こう言った。
「いたい……」
その声は、ひどく乾燥していた。
泣いているような響きなのに、レオの目から涙は流れていなかった。
涙腺までもが、あの白い石に変わってしまったかのように。
「いたいよぉ……ニルス……手が、うごかないの」
「レオ……」
俺の声は震えていた。
どうすればいい?
俺には魔力がない。
治癒魔法も使えないし、痛みを和らげることもできない。
ただの「無能力者」だ。
せめて、温めてやりたい。
俺は必死になって、自分の両手でレオの白い腕を包み込んだ。
「大丈夫だ、レオ。ただの……ただの冷えだ。すぐによくなる」
口から出たのは、あまりにも下手な嘘だった。
俺の手のひらの熱が、レオの腕に吸い込まれていく。
けれど、いくら温めても、その腕は氷のように冷たいままだった。
(くそっ……! なんでだ! なんで俺の手はこんなに冷たいんだ!)
自分の無力さが、ナイフになって胸をえぐる。
ただ擦ることしかできない。
ゴリ、ゴリ、と。
皮膚の下で何かがきしむような、微細な音が指に伝わってくる。
それが進行の音だと気づいて、俺は吐き気をこらえた。
その時。
ドン、と。
部屋の外で、重い足音が響いた。
俺の背筋が凍りついた。
(誰か来た)
ここは共同の廃屋だ。
壁一枚向こうには、他の住人たちがいる。
もし、これを見られたら。
「白化病」だと知られたら。
俺たちの住む第0層には、残酷なルールがある。
『感染るゴミは、すぐに燃やす』
「隠さなきゃ」
俺は弾かれたように動いた。
レオの白い腕を、慌てて毛布の中に押し込む。
痛かっただろうか。でも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「静かに、レオ。声を出さないで」
俺はレオの口元に人差し指をあてた。
レオは状況が飲み込めないまま、怯えた目で俺を見つめ返す。
ドアノブが、ガチャリと回った。
「ニルス、いるんだろ? 水汲みの時間だよ」
しわがれた、聞き覚えのある声。
隣の部屋に住む、世話焼きのおばさんだ。
いつもなら、パンの耳を分けてくれる優しい人。
けれど今は、その声が死神の呼び声に聞こえた。
「ま、待って! 今着替えてるから!」
俺は裏返った声で叫んだ。
だが、遅かった。
建てつけの悪いドアが、ギーッという嫌な音を立てて開く。
逆光の中に、おばさんのシルエットが浮かび上がった。
「何言ってるんだい。さっさと起きな……」
おばさんが部屋に一歩踏み込む。
俺はレオを背中で隠そうとした。
けれど、焦りが裏目に出た。
俺の動きに合わせて、ずり落ちた毛布の隙間から、レオの右腕がこぼれ落ちたのだ。
薄暗い部屋の中で、その「白」だけが、不気味なほど鮮明に浮かび上がっていた。
時間は、そこで止まったようだった。
おばさんの足が止まる。
彼女の視線が、俺の顔から、後ろのレオへと滑る。
そして、その白い腕に釘付けになった。
おばさんの目が、限界まで見開かれていく。
口元がわななき、呼吸が止まる。
パンの耳をくれた優しい顔が、恐怖で醜く歪んでいくのを、俺はスローモーションのように見ていた。
(やめろ)
俺は心の中で叫んだ。
(叫ぶな。声に出すな。それを言ったら、もうおしまいなんだ)
俺の願いは届かなかった。
おばさんは大きく息を吸い込み――。
「ヒッ…………」
空気が裂けるような絶叫が、狭い部屋に響き渡った。
「『白化』だァァァァァッ!!!!」
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