3話 死際、放たれる魔法
女の死体が、地面に倒れ込み、流れ出した血が、地面にしみこむ。
魔法を発動した本人が死んだからなのか、界斗を囲んでいた木々は触手のように伸ばした枝を何事もなかったかのように元に戻し、捉えていた界斗を離す。
―― みんなを殺した怪物がいる、僕を囲んだ死体たちを作った張本人がいる、いまなら、僕も殺してもらえる。
その思考が脳によぎるよりも早く、逃げ出したのは身体だった。
触手が身体を離した瞬間、界斗の思考が脳内を駆け巡る間も早く、彼の身体は生きたがっていたのだ。
―― なんで、僕は逃げてるんだ?
突然の身体の逃走に、真っ先に疑問を抱いたのは界斗本人だった。
触手に縛られた時も、そして今も、数日前まで死を願ったいたはずの自分が、今はそれと真逆の行為を犯している。
―― 僕は、なんで今こんなに必死に逃げてるんだ?
なんでこんなに、僕は生きたがってるんだ?
逃げ惑う界斗の視界の端には、彼を追いかけている怪物が映る。木々が光を遮る中、怪物はその眼光を赤く染め、餌として自分を追い続けてくる。
数分間森の中でそんな逃走劇が続いた中、怪物の動きに少し変化が起こったのを、界斗は見放さなかった。
単調に追い続けて来ていたはずの怪物が、一瞬立ち止まる。
たった数秒の静止のさなか、怪物は、雄たけびを上げる。
一瞬その迫力に気おされそうになると、それ以上に気にするべき事態が目の前で起こっていることを、界斗は見逃さなかった。
雄たけびを上げた怪物の身体から、纏っていたはずの水が離れ始める。怪物の顔の前で集まりだしたそれは、球体を作り上げ、怪物によって放たれる。
無論、狙われたのは餌である界斗であり、彼をめがけて放たれた一つの球体は、明らかに異様な雰囲気を持って、彼の元へと迫る。
それがただの水の弾なのか、自らの身体を抉り削るほどの代物なのか、そんな疑問を抱く間もなく、その答えは界斗の目に映ることになる。
放たれた水の弾に気づき、それを避けるように木の裏側に回り込んだ瞬間、目の前の木にぶつかった水の弾が木を抉り取ってはじける。
目に映った異常な現象に、界斗は言葉を失った。
さきほどのような自分を捕まえるだけの可愛らしい魔法ではなく、明確に人を殺せる域に達した技。
その技は、やはりここは元居た世界とはかけ離れた世界なのだということを、界斗に再認識させる。
―― 逃げ……ないと、
その思考が全身に回る間にも、怪物は水の砲弾を放つ。
木々の隙間を縫うようにして放たれた弾を避けながら、少年はただ進んでいった。
どこに向かうかなどどうでもよかった、もはや死にたいなどという気持ちは忘れ去っていた、目の前で起こる異常な現象に、界斗は怯え、逃げることしかできなかった。
―― 死ぬ、逃げる、死ぬ、逃げる。逃げてどうするんだ? やっぱり死んだ方がいいんじゃないか? 逃げてどうなる。俺はここで生きられるのか? こんなバカみたいな世界で? 無理だろそんなの!!
界斗自身がそう思った時、彼の目の前に現れたのは、この世界で息をすることすら許されなかった者達の死体だった。
界斗自身が自分の罪にしてしまった死体の山、その目の前で、彼は立ち止まった。
周囲には未だ血生臭い、その慣れない異臭が、余計と彼を追い詰める。
立ち止まる彼の頭に、もう一度あの声が響きだす。死体の思いなどではなく、彼自身が自分を責めるためにつくりあげてしまった死者の声が。
「なんでまだ生きてるんだ」 「自分だけ食べるご飯はおいしかった?」 「あそこで殺されれば良かったのに」 「今、死んじゃえよ」
界斗の頭の中に響く、彼自身が作った声。それ誰よりも苦しませられるのも、また彼であった。
もう一度、彼の頭に死という救済が返ってくる。
ここで死ねば、ここで死んでしまえば、僕はこの罪に問われずに済む。
存在しない罪を一人抱え込む彼が、もう一度死という救済を迎えようとしたとき、怪物はもう、彼を餌とすら見ていなかった。
なぜなら、怪物の目の前にはもう、逃げることのない餌が、あるのだから。
立ち止まった界斗を隣を、もはやそこに誰もいないかのように怪物は過ぎ去ると、目の前の食事にてを付け始めた。
それは、界斗が元居た世界に〝転移”した同種の怪物が生み出した虐殺の跡、もはや腐りかけの生肉であろうと、怪物であるそれには関係なかった。
腹を満たせる。食うに値する価値ある品となるのだ。
一人置き去りにされた界斗の目に映るのは、自らを襲ってくる怪物が、自分の代わりに死んだ者たちを捕食する瞬間だった。
服など関係なく、転がった死体をそのまま口に放り込み、おいしそうに咀嚼する姿を、界斗は目に入れた。
―― 食われてる……みんなが、食べられてる。
単純な映像だった。自分を無視して転がる死体を怪物が食べている。常人ならば、きっとこの隙に逃げるか隠れるかするのだろう。が、彼にはそれをする勇気がなかった。いや、それを行った自分を許すことができなかった。
なぜならば、彼の目に映っているのは、彼の代わりに死んだ者達の死体が、またも自分の代わりに捕食される瞬間なのだから。
自らに彼らを殺した殺人者の看板を縫付けてしまった彼に、この場から離れるなどという愚行は、考えることすら許せないものであった。
―― ブッ殺してやる。
その思考が脳を巡るよりも早く、身体を巡るよりも早く、界斗自身にも分からない力で、彼の口は静かに開いた。
「捕らえろ《自然ノ錠』」
その言葉が界斗の口から放たれた瞬間、死体と怪物を囲んでいた木々が、徐々に揺れ始める。
そして、さきほど女が使った魔法が、界斗の手によって怪物に向けられる。
それは、界斗自身にも理解の出来ていない力であった。が、そんなことを世界は知らない。発動された魔法は、世界を歪める。発動された世界の形を、少し歪めるべくして、触手のように変異した枝が、怪物の四肢を縛り上げる。
―― 殺す、殺す、殺してやる。お前たちだけは、許さない。
界斗の感情に呼応するように、怪物を取り囲む木々の全てが、その身体を触手のように変えていく。
怪物も抵抗するように雄たけびをあげ、水の弾を作ろうとするが、纏った水が枯渇しているのか、うまく形を練り上げることができていなかった。
「もういいよ、死んでくれ。」
さっきまで逃げることしかできていなかった人物とは思えないほど冷徹な声で、怪物に向けて言葉が放たれた瞬間、取り囲んだ木々の触手たちが、怪物の胸を束になって貫いた。