お勉強中なのに…
――ときどきだけど、自覚はある。
それまでいた、本来の時代での生活でそれを感じたのはほとんどない。
けれども、この世界創世期の時代に迷い込み、保護してくれた「竜の五神」たちは一同に優しかったが、それでもときおり慣れ親しんだ物事や、相手に対して、なぜかときどき極端に怖くなってしまい、顔を見るのが怖くて、声をかけられるのがもっと怖くて、「大丈夫か?」と心配されて伸びてくる手がこの上なく怖くて、逃げてしまうことがある。
彼らに総じて慣れていなかったころは、それは極度の不慣れからくる怯えだと思っていた。ハイエルフ族はもともと、同族以外の対人には明るくない。
その本性……本能を差し引いても、「竜の五神」のなかでもっとも愛情を寄せている《火》神にさえ近づくのが怖いときがあるのだ。
――怖くない、大丈夫だから。
そう自身を宥めるように言いつづけても、白の皇帝はときどき誰にも近づくことができなくなって、突然、わぁああ、と泣いてしまうのだ。
これはどう考えてもおかしい。
でも、自身の一族、ハイエルフ族のことや本来の時代の事柄すべてを知っているわけではなく、白の皇帝は言わば勉強中の身だったので、それら一切を知らない「竜の五神」たちに通じるよう上手く相談ができない。
そうやって困り果てていたときに、白の皇帝はふと《空》神を訪ねてみる気になった。
――本来なら、彼がいちばん苦手な存在だというのに……。
□ □
「――月の満ち欠けって、止めることはできないの?」
ハイエルフ族の白の皇帝は、長命。
竜族は本性が自然そのものなので、不死、永遠。
どちらも時間の概念は存在しないので、周期、月齢、といっても理解や納得にはいまひとつ何かが欠ける。
「ええ、残念ながら。太陽もそうですが、星や月も空を巡るもの。この理は私でも覆すことができません」
「それは《空》神……、あなたが決めたことなの?」
問うと、《空》神は、さて、と言ったようすでわずかに首をかたむけ、
「私が空を制したときにはすでに決まっていた秩序でしたので、これは世界の《祖》であり、竜族の《祖》である《原始》が定めた事柄なのかもしれません」
「それって朝があったり、昼があったり、夜があったりするのとおなじこと?」
何気なく問うと、《空》神はうなずく。
「そのように、月には周期の巡りで満ち欠けがあります。そして、この影響を確実に受けているのが、《水》神の領域である海洋なんです」
「?」
「あなたの属性の大部分を占める水は海洋ではなく、どちらかというと大地にある湖水の意味合いが大きいので、直截関与しているわけでもないと思いますが、海洋も月に左右されて潮に満ち引きが発生します」
浜辺や波打ちぎわではなぜ海水が寄せて返し、それをくり返すのか。なぜ干潮満潮があるのか。
それらと似たような事柄で、白の皇帝にときおり起こる心の不安定がざわめくのかもしれない。
《空》神はさらりと説明するが、白の皇帝はいよいよ頭のなかだけではなく、表情さえも「?」のマークでいっぱいになってしまう。
「う~ん、よくわからない」
頭を抱え、率直に答えると、《空》神はかるくまばたき、そして小さく笑う。
「そうですね、簡単に言うと心の波にも周期があるようなので、それがどの月の時期に当てはまるのかを知ると、すこしは対策につながるのではないかと思われます」
「対策、かぁ」
これは、何だか大げさなことになってきたのではないか。
むむむ、と白の皇帝は悩みこんでしまう。
「どうぞ、そのようにお悩みくださいますな。あなたの波は我らがしかと心得ますので、何事も変わらずお過ごしください」
「でも……」
「白の皇帝はただ、ご自身で抱えるそれは気性ではないと存じ上げていればいいのですよ」
白の皇帝はその話を蒼穹宮の一室で聞いていた。
――蒼穹宮とは、《空》神の居宮の名。
一室、といっても「竜の五神」のうち天空を領域にする《空》神と《風》神は閉塞感を好まないので、どちらも住まいとなる居宮にはほとんど壁や扉がない。
天井は高く、それを支えるのは長い柱の数々。
一室は広間のようにゆとりがあって、調度品をほとんど置かないそこには座るための絨毯があって、寄りかかったり寝そべったりするのに都合がいい大小のクッションがあるだけ。
壁のかわりに天幕やカーテンがかけられて、あるかないかの風にゆっくりと揺れている。
その先の景色は天空。その果てなき広がりだけだった。
雲は眼下にあって、いまその天空には満天の星がきらめいている。
一見は簡素、質素に思われる天空神たちの居宮は、この上なく美しい。
白の皇帝はその広間のような一室で、絨毯の上に座して、《空》神と並ぶように話を聞いていた。
彼の語りはけっして簡単ではなかったので、白の皇帝はただ漠然とした感覚でうなずいたり、首をかしげたりするにとどまったが、
「もしよろしければ、しばらく蒼穹宮で実際に月を間近に見ながら学ばれるのはいかがですか?」
「ここで?」
「ええ、月を見ながらそのつど講釈させていただければ、と」
ふと、《空》神がそのように提案を持ちかけてきた。
一度で理解に導けず、申し訳ないと思っているようすだったので、白の皇帝は、どうしようかなぁ、と思ったが、それはつねに《空》神のそばにいることを意味すると悟り、まだ彼には苦手意識も強い白の皇帝は反射的に逃げ腰になってしまう。
――嫌い、ではない。
――どうしても、苦手、なのだ。
「俺、いまはいいや。また今度でも……」
そう思い、急な気焦りが隠しきれず、今夜はこの居宮のどこかで適当に寝かせてもらおうと立ち上がろうとしたときだった。
「白の皇帝……」
「へ……? うわッ」
小さくささやいて、《空》神が白の皇帝の腰に手を伸ばし、わずかに力をこめて自身のほうへと引き寄せた。刹那、ぐぐ、と身体が動いてしまい、白の皇帝は《空》神に寄りかかってしまう体勢になってしまう。
バランスを取ろうとして彼の身体に手が触れてしまい、服を掴んでしまった。
「く、《空》神ッ?」
白の皇帝はおどろいて、はっと顔を上げる。
瞬間、《空》神とは目が合ったものの、なぜか彼は気恥ずかしそうに顔を逸らしてしまう。だが、その身体に寄せようと白の皇帝の腰もとにやった手は離そうとはしない。
「あ、あの、《空》神……?」
ひょっとすると、自分はこのまま彼に身体を求められてしまうのだろうか。
《空》神からはわずかに、それを願う熱を帯びた馨りがする、
――ど、どうしようッ?
――それは、まだ怖い!
彼にそれをされるのが怖いから、ほんとうならあまり近寄りたくはなかった。
けれども整然と話ができるのも、「竜の五神」のなかでは彼しかいなかった。
白の皇帝の顔に焦りが浮かぶと、《空》神は困ったようにささやく。
「お願いです……、怖がらないでください」
言って、腰に置いている手に力が加わり、白の皇帝はなお《空》神の身体に寄りかかってしまうような体勢になってしまう。
刹那、どきり、と鼓動が跳ね上がってしまった。
「あ、あの……ッ」
「――いまは何もいたしません」
――ですから、もっとそばに寄ってください。
腰もとに触れていた手は、ゆっくりと尻もとへと下りていた。
そのまま即何かをされるという動きにはつながらなかったが、気がついたら胡坐をかいて座っていた《空》神の膝上に白の皇帝は座らされている。彼にとって小さな身体は、すでに両腕で愛しげに抱きしめられていた。
これではもう、簡単には逃げられないではないか。
「く……《空》神、俺……」
これでも彼は、何もしないと言いきるのだろうか。
先ほどまで月について教えてもらっていたというのに、どうしてこうなってしまったのだろう?
「そ、その、ダメだからね。俺いま、勉強しているんだから」
せめてもの抵抗で、白の皇帝は正しい理由で拒否をするが、《空》神もうなずきながら、腕に抱く白の皇帝の首筋に顔を埋める。
「ええ、分かっています。――何もしないので、しばらくこのままでいさせてください」
何もしないと言っているのに、彼の唇が直截白の皇帝の首筋をなぞり、かるく吸い上げてくる。何度も、何度も愛しげにそれを往復させて、
「ああ……、私の愛しい人」
そうつぶやいて、熱い吐息を白い肌のやわらかな首筋にかけてくる。
「ひゃ……ッ」
白の皇帝は、ぴくん、と身体を震わせてしまい、不安になって唇を噛みしめていたが、ふいに立てた歯を離すと、その唇から漏れたのは不思議な熱を帯びた白の皇帝自身の吐息だった。
――ダメ、ダメなんだから……。
どうしても嫌だったら、泣いて叫べばいい。
態度で現すのなら、身を捩らせて暴れればいい。
嫌なのに、苦手なのに、怖いのに。
――でも……。
身体が思うように動かないのは、これも月の周期に自身の何かが影響しているせいなのだろうか。
そうだ、これから起こるだろう事柄はすべて、月のせいだ。
白の皇帝は月に罪を押しつけようと思い、ゆっくりと目を閉じるのだった――。