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地獄耳

作者: 遠野なつめ

いろいろな物音を聴くのが好きな男がいた。

電車で通勤するときや、部屋で一人で眠るときに、スマートフォンで環境音を探して聴いていた。朝の市場の音を聴きながら電車に揺られ、川のせせらぎや鳥の声を聴きながら布団に入った。


ある夜、彼が布団の中でスマートフォンを眺めていると、風変わりなアプリの広告を見かけた。

耳の長いうさぎのアイコンと、地獄耳──世界の裏側の音を聴く、という宣伝文が目に留まる。


このアプリは、世界各地で収録された物音をリアルタイムで聴くことができるらしい。地獄という響きは恐ろしげだが、遠くの音までよく聴こえる、という意味だろう。


試しにインストールしてアプリを開くと、いくつかの音声がシチュエーションごとに表れた。異国の街や森、青い海の画像が並んでいる。


晴れた森の画像をタップすると、鳥のさえずりと、木の葉がさらさらと風に揺れる音が聴こえてきた。森林公園のような空間らしく、ときおり人の足音や子どもの歓声が交ざっている。こちらは夜だが、向こうではどうやら日が上っているらしい。


具体的な場所は分からず、コメントを書く欄もない。オフィスで多くの情報を忙しく扱っている彼には、どこかの音をただ聴くだけ、という情報量の少なさが心地よかった。イヤホンをつけて目をつぶると、公園の芝生にのんびりと横になっている気分を味わえた。


いいアプリを見つけたと喜びながら、その日は眠りについた。



彼は「地獄耳」を気に入って、空いた時間にいろいろな物音を聴いた。


職場で昼を済ませた後、疲れ目を和らげる目薬をさして、デスクに突っ伏してイヤホンをつけた。

異国の市場の画像を選ぶと、行き交う人々のざわめきや、売り子たちのかけ声が耳に届いた。言葉の意味はわからないが、生き生きとした音の流れが彼を包み込んだ。


目の前の書類やパソコンのデータが遠ざかっていき、野菜や果物、工芸品などを売り買いする様子が頭に浮かんだ。スパイスの匂いまで想像できる。


上司に「ちょっといいか」と声をかけられるまで、活気に満ちた異国の風景を楽しんだ。



静かな雨の音、どこかで食材を刻んで調理する音、空港のロビーのアナウンスなど。アプリを開くたびに「あなたへのおすすめ」にいくつかの音が表示された。


前に聴いたシチュエーションでも、その時によって音は違っていた。全く同じ日が存在しないように、イヤホンの向こうにも日々変化があった。


このアプリには有料版があった。料金を払えば広告が出てこなくなり、より多くの環境音を、よりクリアな音質で聴くことができるのだ。支払いは一度きりで、値段もさほど高くない。男は支払いを済ませて、アプリを有料版にアップグレードした。


布団にうつ伏せになってアプリを開くと、見慣れない真っ白なサムネイルが表れた。説明欄には一言“remember”とある。


白い画像を選ぶと、数秒の静寂があった。

長いサイレンが響き渡る。男は息を呑んで、音量を下げるボタンに指をかけた。


サイレンに重なるように、銃声が続く。

止まない銃声と怒号、何かが壊れる音が交ざったものが彼の耳に流れ込んだ。


耳に届いたものを脳が処理するまで数秒かかった。

その意味を理解して、彼はイヤホンを耳から引き抜いてスマートフォンの画面を閉じた。心臓の鼓動が早まって、指先がわずかに震えていた。


「地獄耳」は世界各地の物音をリアルタイムで聴くものだ。説明が正しければ、これはアクション映画でもなく、今この瞬間にどこかで起きていること。


男は顔をしかめて、端末をもう一度手にとった。おすすめの欄に白いサムネイルがずらりと並んでいる。


でたらめに一つを選ぶと、女のくぐもった悲鳴と、何かを叩きつける音が耳に届いた。どこだか分からない場所で、誰かが女を殴っている。後ろでがやがやと騒ぐ声がしていた。この状況を心配するのではなく、笑っているのは明らかだった。


──地獄、だった。


男は課金したばかりのアプリを反射的に削除して、布団に潜って目をつぶった。何度も寝返りを打っては時計を眺め、丑三つ時になってようやく眠りについた。



アプリを消して数日が経つ。いつものように食事をして、満員電車に乗って、会社で書類に目を通す日々。表向きにはいつも通りに過ごしていたが、ふとした瞬間に銃声や悲鳴がよみがえった。


地獄耳──世界の裏側の音を聴く。


朝にテレビをつけると、どこかで起きた戦争や暴力の報道が目に入ってきた。スマートフォンのニュースアプリも、SNSのタイムラインも似たようなものだ。「地獄耳」のアプリがあってもなくても同じことだ、と気づいてしまった。


男は苦いコーヒーを飲み干し、コップを洗って出勤の支度を始めた。

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