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寒い日の朝

作者: 森内哲

 「おはよ、結城君。今日も寒いね」


 いつものように教室へ入り席へ着くと、いつものように隣の席から椎名さんが声をかける。


 「――――昨日より最低気温も最高気温も5℃以上高いよ?」

 「相変わらず結城君は『何にも』わかってないなぁ」


 椎名さんがそう呆れ、指を絡めた手を前に思いきり突き出す。そのまま机の上に突っ伏すように伸びをした。その仕草はどことなく猫に似ていた。

 彼女はたまにやたら勿体ぶった言い回しをする。確かに僕は彼女よりずいぶん成績が悪いし世の中のことを何にも知らない。例えば今の総理大臣のフルネームを漢字で書くことはできないし、感染病の流行が今第何波なのかも知らない。若者に人気のタレントも、俳優も、ネットアイドルも、流行語も、流行りの本も知らない。自分が将来何になるのかなんて知らないし、何になれるのかもわからない。それとも何者にもなれないのか、あるいは大人ぐらいにはなれるのか、それすらわからない。


 けど今の会話で「『何にも』わかってない」とまで言われるのはずいぶん唐突だ。何か意味があるんだろうけど、『何にも』知らない僕には椎名さんの考えなんてわかるわけがない。


 それはそうと、どうせ伸びをするなら机に突っ伏すようにするのではなく、手を上に伸ばすか後ろに反らすようにしてやってほしい。その方がなんというか、色々と男子としては嬉しいからだ。机の上で柔軟をする彼女を見ながらついそんなことを思ってしまう。


 何にも知らない僕でも椎名さんよりわかっていることが少なくとも2つある。一つは今日は昨日より暖かいということ。季節はまだ11月。暦の上ではもちろん冬だけど、真冬というほどではない。たまには秋に戻ったみたいに暖かい陽気の日だってあるだろう。なんだって彼女は飽きもせず、毎朝毎朝「寒いね」と付け加えたがるんだろう? 猫のように寒がりなのだろうか。


 そしてもう一つわかっていること。それは、椎名さんはおそらく自分が自覚しているよりもはるかにモテるということ。昨日の昼休みに女友達の彼氏を羨ましがって、「私も彼氏ほしいぃぃーー」って(うめ)いた時には、その場にいた男子の多くが心の中でガッツポーズをしていたはずだ。

 椎名さんがモテることは当然他の女子は知っているから、自覚のない彼女を憐れむやら呆れるやらして、「そのうちわかってくれるって。諦めちゃだめよ」とよくわからないフォローをしていた。どうしてそんな変なフォローをするのか、僕はそれも知らない。




 「結城、チラチラ見すぎだって。そういうの女子に全部バレてるらしいぞ」


 後ろから高橋が小声で注意した。椎名さんに背を向けるように振り返り、小声で言い訳する。


 「全然見てないって。――いや、ちょっとは見たかな? 挨拶された時に一回見たかも。挨拶されたらそりゃ見るだろ。あと返事したときに一回。それと伸びをした時にちょっとだけ首のラインを見てたかも。普段髪で隠れてるうなじが見えそうだったから」


 「めちゃめちゃ見てるじゃんか。しかもちょっとキモい」


 高橋が笑った。高橋には恩義があった。あったと思う。あったような気がする。僕が椎名さんに告白したいと相談したら、告白のセリフを考えてくれたうえ、彼女と二人きりになる状況をうまく作ってくれたからだ。もっとも今考えれば碌でもないセリフだったと思うし、結果は無残なものだった。




 数か月前のこと。文化祭でうちのクラスはお化け屋敷をすることになっていた。特にもめることもなく看板づくりやらお化けのマスクやらをつくっていたのだが、ある日マスク作りの材料がどうしても足らないことが発覚し、誰かが買い出しに行く必要が出た。しかしうちの高校は立地が悪く、あいにく近場に手頃な店がない。そこで市の中心街まで遠出して買い出しに行き、翌日それを学校に持ってきてもらうことになった。


 とはほとんど嘘で、実際には材料は足りてるから買い出しに行かなくてもいいし、割と近場に必要なものを買える店だってある。委員の高橋がもっともらしくついた嘘だった。話の上手い高橋とはいえ、結構無理のある話だったはずなのに、そしてずいぶん強引な流れだったはずなのに、僕と椎名さんで買い出しに行くことが不自然なまでにあっさり決まった。


 その帰り道だ。買い物を済ませ店を出ると、日がすっかり落ちていた。まだオリオン座が見える季節じゃなかった。僕が自力で見つけられる星座はオリオン座だけだった。カシオペヤ座やこと座、さそり座なんかは名前を知っているだけで、形がわからない。北斗七星だったら流石にわかる。だけど北の空に出る星座は発見しづらく、高校生になって以降視力の落ちた僕には見つけることができない。


 空には星がいくつか浮かんでいるのが見えた。僕が名前も知らない星々は、僕が名前ぐらいしか知らない星座を構成しているはずだ。

 そんな中、目の悪い僕でもはっきり見える、物を知らない僕でも名前を知ってる天体が煌々と輝いていた。

 月だ。その日は半月と満月の中間くらいの姿をしていた。天気だけは良かったから、その輪郭がよく見えた。太りすぎた猫のお腹みたいな不格好な輪郭だった。せめて今日が満月か、あるいは綺麗な三日月ならよかったのにと思う。

 僕は空を見ながら高橋に教わったセリフを言った。


 「――月、綺麗だね」


 これが高橋が教えてくれた告白のセリフだった。夏目漱石が "I love you." を「月が綺麗ですね」と訳したことから、告白のセリフとして有名らしい。高橋曰く、「椎名さんみたいな文学少女なら絶対知ってるしときめくはず」とのこと。

 半信半疑だったけど、告白のときなんて言えばいいのか僕にはわからない。アドバイス通りにつぶやくことにした。言ったはいいものの、横に立ってる椎名さんの顔を緊張で見れない。どんな顔をしてるんだろう。こんな中途半端な月を見ながら告白して幻滅されてるだろうか。緊張で心臓の音が大きく鳴りだした頃、椎名さんが答えた。勇気を出して顔を見ると、不思議そうな表情でこちらを見ていた。


 「そう……、かしら?」


 玉砕。高橋が言うには、はっきりオーケーの返事をもらえなくても、「そうね」と言われたら婉曲的にオーケーを出しているということらしい。

 「そう……、かしら?」 ちょっと曖昧な返事だが、おそらく訳すと「これからもいいお友達でいましょうね」ということなんだろう。椎名さんは不思議そうな表情をしていて、夏目漱石以来の由緒正しい告白のセリフだなんてまるで知らないような表情だった。けれど椎名さんに限って知らないわけがないので、やっぱり知っていてその上で僕を傷つけないように遠回しに断ってくれたんだろう。


 玉砕したと結果だけを伝えると、高橋が慰めにカラオケへ連れて行ってくれた。失恋ソングを何曲か歌いながら徐々に元気の出る曲を選曲していき、最終的には二人でウルフルズの「ガッツだぜ」を大声で熱唱してすっきりした。

 完全に割り切れたわけではないにしろ、今朝のように椎名さんと短い会話を交わしても失恋の(きず)に悶えるようなこともない。




 「なあ、これ読んでみてくれよ」


 ある日の放課後、帰り道を一緒に歩いていた高橋が一冊の本を差し出した。ミステリが好きな高橋が勧める小説は大抵どんでん返しの落ちが用意されていて、毎度のように予想外の落ちに驚嘆させられた。特に東野圭吾の『ある閉ざされた雪の山荘で』には参った。そんなトリックがあるのかと心底びっくりしたのをはっきり覚えている。けれどこの日渡された本はミステリじゃなかった。


 「『サラダ記念日』……? 俵万智かよ。歌集? お前こんな風雅な趣味あったの?」

 「俺は短歌なんて興味ないよ。ただ『何にも』知らない結城だったら読んだほうがいいんじゃないかと思って」

 「お前もそれ言うのかよ。椎名さんに言われるならともかくお前だって成績は俺とどっこいどっこいだろ」

 「この間の中間、お前より合計点8点上だけど?」

 「――誤差だろそんなん」


 実際、椎名さんに比べれば遥か低みにある僕の成績は、決してどうしようもないほど悪いわけじゃない。平均点周辺をいつもウロウロしてるくらいで、特に良いわけじゃないけど悪いわけでもない。平均点を無視して常に90点を超える椎名さんがおかしいだけだ。彼女のおかげで平均点が引き上げられ、泣きを見る生徒が大抵一人か二人出る。うちの高校での赤点は平均点の半分と決められているからだ。


 「うーん……。せっかくだけどこれは趣味に合いそうにないや。悪いけど返すよ」


 受け取った歌集をそのまま高橋に返そうとするが、高橋は笑うばかりで受け取らなかった。


 「まあまあまあ。とりあえず騙されたと思って読んでみろって。何も小難しい文学作品を読めって言ってんじゃないんだから。たかが歌集ぐらいすぐ読めるだろ?」


 そう言われればそうなんだけど、短歌なんてなあ……。全く興味が湧かない。だが高橋が顔を寄せてこっそり告げた。


 「椎名さん、俵万智好きらしいんだよ。読んでおけば会話のとっかかりになるかもしれないぞ」

 「借りとくよ。明日には返す」


 もう終わったつもりの恋だけど、悲しいかな。毎日隣に椎名さんがいると、やはりワンチャンないかなと思いたくなる。椎名さんから毎朝「寒いね」と挨拶されるのが楽しみになっていた。


 「そうこなくちゃ。でも返すのそんな急がなくていいぞ。何だったらそれやるよ」




 その夜、僕は毎週見ているドラマも見ずに借りた歌集を読んでいた。短歌というと老人の趣味みたいな印象を持っていたが、ずいぶん内容が若い。恋愛の歌が多い。調べてみたら『サラダ記念日』は俵万智が20代の時の作品らしい。道理で恋愛の歌が多いわけだ。

 そして読んでいくと思った以上に面白い。すべての歌の意味を理解できたわけじゃないけど、割合シンプルなものが多く、現代語での歌だから古文の知識も必要ない。思った以上に面白いというか、むしろ純粋に面白かった。確かに僕は『何にも』知らなかったようだ。歌集がこんなに面白いとは夢にも思わなかった。

 特にこの歌が気に入った。


 「いつもより 一分早く 駅に着く 一分君のこと考える」


 試しに僕自身に当てはめて改変するとこうなる。


 「いつもより 一分遅く 駅に着く それでも君のこと考える」


 「君」が誰のことを指すかは言わずもがな。白状すると、玉砕してからも全く割り切れてなんかない。大体、同じクラスでしかも隣の席に座ってるんだ。それで割り切れというほうが無理だ。ある種の拷問に近い。

 僕は時間も忘れてページをめくっていった。どの歌も瑞々しい表現に溢れていて琴線に触れる。瑞々しいというのはこういう時に使う形容詞だと実感する。短歌の定型を守りつつ、現代的な表現で恋心を歌う。確かに俵万智には天才的な文才があると、僕ですら思う。


 あるページで手が止まった。そのページに載っていた歌から目が離せない。その歌を何度も読み返しながら、毎朝椎名さんが僕にかける言葉を思い返す。寒い日も、あまり寒くない日もいつも付け加えるあのセリフ。


――――確かに僕は『何にも』知らかったようだ。高橋はきっと知ったんだろう。だからこの歌集をわざわざ貸してきたんだ。いい友達を持ったな、と嬉しくなる。




 翌朝、いつもと同じように教室へ行く。いつもと同じように、椎名さんが声をかける。


 「おはよ。高橋君。今日も寒いね」


 確かに今日は寒い。予報によると昨日よりも3℃低い。だけど、もし今日が真夏日だとしても、僕の返事は変わらなかっただろう。僕はこう答えた。


 「おはよ、椎名さん。今日も()()()


 椎名さんがピクリと首を動かした。その頬がほんの少し赤くなったのが見えた。机の上に広げていた化学を掲げて鼻から下を隠す。ノートの上から目だけ出して僕を見ている。

 僕は昨日覚えた短歌を心の中で反芻(はんすう)する。俵万智が詠んだ、あの歌を。



 「寒いねと 話しかければ 寒いねと 答える人のいるあたたかさ」

最後まで読んでくれてありがとうございます。

そんなあなたが大好きです。

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