46 冷静と情熱の間
六回の裏の終了後、全てはイーブンに戻ったはずだった。
スコアは1-1。始まる打順は向こうが下位、こちらが四番からとなる。
点差はない。そこだけは等しい。
だが精神的に苦しめられているのはこちらだ。客観的に考えても、古賀はそう判断するしかなかった。
二塁で憤死した選手は責められない。己もまた、ここが絶好の勝機と考えていたからだ。
ジャイロボールの弱点の一つに、他の変化球に比べると、制球が甘いというものがあった。
それはあの精密機械のような投手をもってしても、他の球種に比べるとゾーンに入る程度にしか制御されてないので、確かなのだろう。
ピッチャーの繊細さを知る古賀は、かなり露骨な揺さぶりをかけたつもりだ。むしろ相手にとってはこちらが悪党に思えただろう。
勝てば官軍とまでは言わないが、汚い揺さぶりをかけた自覚はある。だがそれを古賀も選手も、ためらったりはしない。
そもそも全く通用しなかったというのが、かなり痛い。
吉村が執念で一点を取ってくれた。あの時点では、完全に流れがこちらに来たと思った。
ゾーン内には入るジャイロが、そこを外れるとなれば、そもそもジャイロですらなくなる。
軸を正面に保つというのが、ジャイロの最大の重要点だ。
それを保ったまま回転をかける。回転がなければ、おそらくフォークに近い軌道になる。そして勇名館の打者なら、フォークは打てる。
投手が明らかに想定より外に外した時、ついにそのコントロールが狂ったと思ったのだ。
だがその後の、冷静な牽制。
こちらも冷静であれば、コーチャーが注意したであろう、ショートの動き。
意図的に視線を自分に誘導したのかとまで思う。さすがにそれはないにしても、わずかな隙を見逃さなかった。
マウンド度胸で比べるなら……絶対に誰にも言えないが、吉村より上だろう。
ここでこんな牽制が出来る高校生など、古賀は見たことがなかった。
七回の表、白富東の攻撃は、流れを完全にこちらに持ち込めるものではなかった。
先頭打者の岩崎がツーベースを打ったのだが、これを送ろうとしてバント失敗。
キャッチャーが飛び出して小フライを取り、それをピッチャーにトス。
そしてピッチャーから素早くセカンドに送られ、飛び出していた岩崎が併殺となった。
吉村は、球威はまだ衰えていないが、確実に消耗している。
クリーンヒットを打たれているのは、コースが甘くなってきたからだ。
しかしそれを、守備陣がフォローしている。
切れかける吉村は、八番の直史にも散々粘られた末にヒットを打たれたが、その後は内野ゴロに抑えた。
「消耗してるってよりは、力を温存してる感じですね」
そう言い残してマウンドに立つ直史の前には、先ほど対決するはずであった黒田。
あの時は一発出れば終わり、ヒットでも追加点のチャンスだったが、ここではホームランしか得点の手段がない。
黒田の足は平均的なので、吉村のようなバント戦法は使えない。
そもそも黒田はろくにバントが出来ない。いや、もちろん練習ではしているのだが。
直史はジンの要求する緩急に、時折首を振ることにした。
準々決勝や、決勝の序盤から考えて、どうやら自分もジンも、ジャイロスルーの一番効果的な使い方を、安易に使ってしまったらしい。
無敵の魔球ではないと分かっていながら、配球次第では無敵に近くなりうると考えていたのだ。
そんなに配球を固定してしまっては、それはバントするのも簡単だろう。
そう、ジャイロスルーには弱点があった。そもそも、弱点のない球など、目で追えない速球か変化球のどちらかだ。
ジャイロスルーは、あくまでも認識を騙す球なのだ。
もちろん打ちづらく、特にゴロを打たせるには有効な球だが、使う人間が馬鹿であれば、いくらでも欠点や攻略法は出てくる。
とりあえず勇名館が明らかにしたのは、多投すれば中盤以降で、バントするのは容易という点だ。
バントヒット自体が難しい出塁方法と分かっているが、それでもそれは攻略法の一つだ。
直史はそうではないが、フィールディングの苦手なスタミナ不足の投手なら、九回を投げきるのは難しいかもしれない。
(しかしこの人もだけど、勇名館も相当に頑張るね)
黒田に対して直史は、極力ジャイロスルーを使わないようにした。
いや、黒田だけではなく、この後の選手には、ジャイロスルーは決め球以外では使いたくない。
単純に使えば使うほど、効果が落ちていくからだ。
ジャイロスルー以外を狙う。実はこれは一番手っ取り早い攻略法だ。
もちろんジャイロスルーへの対処の方法も、頭に入れておく必要はある。
ジャイロスルーをカットし、それ以外の球を狙う。これが正しい。
だが今黒田がやっているのは、その逆だ。
ジャイロスルーを待って、他の球種をカットしている。
これだけカット出来るなら、素直に他の球を打てばいいのだ。
ジャイロスルーが通用しないのが分かれば、こちらは敬遠気味に四球で逃げるだけだ。
あと一人ランナーが出れば、九回にもう一度黒田の打席が回ってくる。
だがそれも、四球で逃げればいいだけだ。ジャイロスルーをボールに投げたら、さすがにバントすら難しい。
そう思って投げた直史のジャイロスルーを、黒田は引きつけてスイングした。
ファウルチップ。三振。
続く二人も三振に仕留め、直史はベンチに戻る。
「ジン、気付いたか?」
「うん? 何が?」
「スルーを普通のスイングで、初めてバットに当てられた」
「あ……」
まさか、黒田が適応し始めているのか。
確かに大介ならば、今はもう配球を読んで、スルーを打つことが出来る。
実戦のこの場で、黒田も三打席を終えたのだ。
大介を除けば、黒田が両チームで一番の打者だということは間違いない。
勝負のリスクが増えた。おそらくは、0.1%が1%程度にだが。
「状況にもよるけど、次は敬遠するかもな。それとこれで、あとを全員凡退させれば、黒田にはもう回らない」
「……確かに」
「スルーの使いどころも考えないとな。もちろん投げないっていう選択肢はないけど」
ジンは頷く。スルーの多用を控えるなら、ここからが自分の見せ場だ。
吉村の限界は近い。
八回の表、一番の手塚と二番のジンは、どうにか内野フライにしとめた。
そして迎えるのが、三番の大介である。
今日ここまで、三打数二安打。しかも両方が長打である。アウトになったフライも、下手をすればホームランだった。
ツーアウトながら、決定的な得点のチャンス。
吉村の初球は、外に大きく外れた。
二球目は体に当たりそうになった。大介は最小限の動きで避ける。
完全に目が、吉村のボールを捉えている。
三球目は、ワンバンのボールであった。
膝に手をつく吉村。ストライクが入らない。
(なんでミットがこんなに遠いんだよ……)
そしてストライクゾーン全てを覆うような、巨大なバットを打者が構えている。
東郷がはっきりと立った。
敬遠だ。仕方がない。
吉村が限界なのは、誰が見てももう明らかだ。
それに次の北村にも、先制打を打たれている。ここで勝負を避けても、誰も文句は言わない。
急に大きくなったミットに、吉村は四球目を投げた。
バットを受け取る北村に、大介が囁く。
「二塁へ行きます。もう、楽にしてやりましょう」
北村も頷いた。
吉村。全国レベルのこの左腕から、自分が打って得点を取るとは。
不思議な気分だ。そして今も、試合は決定的な場面を迎えている。
こんな打席に、自分が立つ未来など、思いもしなかった。
(大田、お前らを、俺のバットで甲子園に連れて行くぞ)
吉村のクイックも、動作が遅い。東郷が捕球して二塁へ投げようとするが、その捕球したコースが悪かった。
明らかなボール球だ。大介が余裕で進塁する。
これで二死であるから、クリーンヒットなら大介の足でホームに帰れる。
甘い球を叩く。
改めて集中して打席に入った北村だが、吉村の制球が定まらない。
(逃げて……いや、崩れてるのか?)
ボールフォア。
ストライクが入らない。
東郷がマウンドに歩み寄る。
結果的には、好打者二人を敬遠したのと同じだ。しかも既にツーアウトなのだから、後続を絶てばいい。
理屈の上ではそうなのだが、実際は吉村は限界だ。
ここでかける言葉を、東郷は知らない。
集まった内野も、吉村の限界には気付いている。
「五番は、たいした打者じゃないな」
本来の吉村の力であれば、注意するのは大介と北村のみ。
岩崎の長打と直史の打率が、今日は離れた打順を組んであることで、上手く機能していない。
吉村の限界は近いように思えるが、全体的な運はこちらに向いている。
下手な慰めはいらない。
「甲子園、行くぞ。俺のところに打たせろ」
「俺のところでもいいぞ」
「うちの守備は圧倒的に向こうより上手いからな」
吉村は勇名館の中核だ。この存在なくして勇名館が甲子園に行くことはない。
そして今、すべての選手が吉村を支えようとしている。
「じゃあ打たれるんで、あとはよろしく」
そう言った吉村の言葉には、力が戻っていた。
次の打者に投じられたボールは、甘いコースに入った。
レフトに抜けるであろう弱いライナーを、しかしショートがジャンピングキャッチ。
三塁へ向かおうとしていた大介が振り返ると、全力でガッツポーズをしていた。
勇名館はまだ崩れない。
勝ち越しのチャンスがあったのに、そこを抑えられた。
これは、悪い流れだ。
「ナオ、この回下位打線だけど、大事だよ」
下位打線だからこそ、しっかりと抑えたい。
スルーを上手く使う。頼り過ぎない。配球が大事になる。
「変に気負うなよ、普通にやろうぜ。最悪延長でも、勝つのはうちでしょ」
ぽんとジンの肩を叩き、直史はマウンドへ上がる。
相変わらず暑いが、六回のどさくさ以外は、それほどマウンドに立つ時間は長くない。
体力はまだ60%ぐらいは残ってる。水分補給も完璧。
まあ、普通にやればいい。
直史が三振を取るごとに、大歓声が上がる。
冷静に組み立てられた配球に、ランダムで入れる突発の変化。
直史の球種や、緩急、コントロール、タイミングの変化に、打者はまともに球を前に飛ばせない。
追い込んだらスルー。ゴロも打たせない組み立てだ。
勇名館もバント攻勢に出てくるかとも思ったが、どうやらそれもやめたようだ。
下手に策を弄すれば、ぎりぎりで踏ん張っている吉村が、調子を乱してしまうと判断したのか。
直史を崩すのは、もう諦めた。
つまりこの試合は、吉村と一緒に心中だ。
三者三振で、八回の裏の攻撃は終了。
古賀はマウンドに向かう吉村の背中を押した。




