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エースはまだ自分の限界を知らない ~白い軌跡~  作者: 草野猫彦
第十二章 三年目・盛夏 大甲子園

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142 再試合

 甲子園の大観衆の半分ぐらいは、試合が終わっても立ち上がることが出来なかった。

 とんでもない奇跡が目の前で起こったのだ。

 おそらくこの球場にいたほとんどの者は、今後の人生でも新興宗教にハマることはないだろう。

 人間の出来ることの限界を、佐藤直史という少年が見せてくれた。


 力だけではなく、技術だけでもなく、精神力だけでもなく。

 完全に制御された動きに加えて、多少の幸運。

 その偉業を記録する者、そしてその偉業を表現する者。

 瑞希とイリヤは何度も深呼吸してから立ち上がった。


 人間はすごすぎるものを見ると、それに熱狂するのではなく、魂が抜かれたように呆然とする。

 大阪光陰の応援側ベンチでさえ、それは変わらなかった。




 宿舎に帰還した白富東。秦野はタクシーで直史を近隣の酸素カプセルが使える場所に連れて行った。

 酸素カプセルは空気中の濃度より多い酸素を、やや高い気圧で維持したカプセルの中に寝転がって、疲労回復などを目的とした機械である。

 直史の自己診断では問題ないと言っているが、肉体的にも精神的にも、本人では判断出来ない部分にダメージは及んでいるだろう。


 カプセルで休むのは一時間。それを待つのは高峰に任せて、秦野は今日の試合の分析と、明日の試合について考える。

 甲子園の決勝で、15回までやって、決まらなかったのだ。

 だが終盤には、真田は大介にデッドボールを与えたり、制球はやや乱れる場面があった。

 直史も外野までは飛ばされたが、失投はない。

 いや、普通なら万全でも九回の間に失投はあるはずなのだが、それがない。

(どういう精神力……いや集中力か? ありえねえ)

 決勝に合わせて調整したにしても、ここまで見事に調整しきれるだろうか。


 宿舎に一足先に戻った秦野は、本日のスコアを片手にミーティングを始める。

 やはり病院に送られた沢口は、CTスキャンの結果問題はなかったが、実は頭ではなく肩を打っていたところが打撲になっていた。

 明日はベンチ入りは出来るが、出場は無理である。


 直史はいないが、それでも何かをせずにはいられない。

 真田から点を取るチャンスは何度かあった。

 まず六回の表、直史がフォアボールで塁に出た時だ。ここで三塁まで進んだが、大介が敬遠されて得点に至らなかった。

 12回にも大介が先頭で出て、三塁までは進めた。

 問題は三塁に進むまでに、ツーアウトになっていたことだ。

 大阪光陰の木下監督とバッテリーは、リスクを最小にするように動いていた。


 ランナーが得点圏では、大介は敬遠される。

 一度だけあったノーアウトで先頭打者というのは12回で、あそこでどうにかワンナウト三塁までにしておけば、一点は入っていたかもしれない。

 こちらのバッテリーは完璧だった。もちろんヒットになってもおかしくない当たりは数本あったが。

 だが一つのフォアボールもないというのが、ピッチャーとしてすごすぎる。


 さすがの真田も、今日のようなパフォーマンスは上げられないだろう。

 188球なのだ。直史よりも30球以上多いし、ランナー三塁のピンチも迎えていた。

 そこで折れないのは本当に凄いのだが、それでも消耗は直史以上だったろう。

 だが最悪、序盤から中盤にかけて、今日と同じぐらいのピッチングが出来ると仮定する。

 こちらがすべきことはなんだろうか。


 得点を取ることだ。




 本日の白富東は打線が機能していなかった。

 打ったヒットは大介が二本と、武史と鬼塚が一本ずつ。

 かと言って送りバントの失敗などはなく、純粋にあと一歩が足りなかったのだ。

 さらにこれまでの試合との違いと言えば、大介がホームランを打てなかったことだ。

 あのツーベースはいい当たりだったが、ドライブ回転でスタンドには届かなかった。


 あとは、打てない打者のところで、代打を使えなかったことか。

 ただチャンスの時に下位打線という場面はなかったので、代打も上手く働いたとは思えない。

 こうやって分析してみると、秦野の采配も間違っていたわけではないのだ。


 間違っていたとしたら、それ以前のことか。

 打線を強力にするならば、孝司を入れればいい。

 だが本来はキャッチャーの二人、倉田はそこそこ外野が出来るが、本職の中根には遠く及ばない。

 トニーの一発に期待して外野に入れるのも無理があるだろう。


 今日打てなかった者を外すか?

 しかしアレクや哲平、倉田などを外したとして、そこへ孝司を入れるのか?

(ありえねえ)

 それに真田が消耗していて、豊田が先発でもするなら、わずかだが点の取り合いになる可能性はある。

 こちらには武史と、中二日の岩崎がいる。

 投手力ではこちらが明らかに優位だろう。


 あとは、先攻を取るか後攻を取るか。

 もちろんじゃんけんの結果なのでこちらの思惑が通るわけではないが、今日の試合は九回からずっと、サヨナラ負けの危機にあったわけだ。

 それなのに最後まで投げ抜いた直史は本当に凄すぎるのだが、明日の再試合はタイブレークになる。

 いや、さすがに明日の試合まで、延長に突入するとは考えにくいのだが。




 大介の前にランナーがいたら敬遠された。

 つまり打順をいじっても、この法則は変わらないだろう。

 鬼塚がポテンとはいえヒットを打ち、倉田もライナー性の打球を外野に飛ばしたので、右打者を大介の後ろに置くというのは間違っていない。

「あと、ナオが疲れた時にどうするかだな」

 直史が限界に達したら、誰を登板させるのか。

 中二日の岩崎か、準々決勝以来の武史か。

 せめて大阪光陰の先発が分かれば、こんな悩みも少なくなるだろうに。


 ジンとしては先発は直史としても、武史も打線で使いたい。

 岩崎にもブルペンで準備はしてもらうとして、打力を維持するなら武史をピッチャーにして孝司をどこかに……。

(ダメだ。それで守備力が低下したらどうしようもない)

 打力だけを考えるなら、赤尾をファーストにして倉田をライト、鬼塚をレフトという組み合わせもある。


 色々とやっているうちに直史も戻ってきた。

「問題ないです」

 肩を回して直史は言うが、実は出張マッサージも頼んでおいた秦野である。

 本当のところは、明日の朝にならないと分からないだろう。


 今日の試合のビデオを見るにも、まずは食事が先である。

 しかしどのチャンネルを回しても、ニュースでは今日の試合のことをやっている。

『二度目のパーフェクトですが、今回も打線の援護に恵まれませんでした』

 う、と思ってしまう白富東である。そう言われても仕方がない。

「そういや俺の奪三振記録、そろそろ上位に来てるんじゃないか?」

 話題を替えるべく直史が振った。


 直史は四大会に出場している。そして変化球主体で打たせるピッチングのくせに、奪三振率も高いという奇妙なピッチャーだ。

 甲子園の一位は上杉がぶっちぎりのトップである。なにしろ一年の夏から五大会出場しベスト4以上、三年の夏以外は、ほとんど一人で投げ抜いていたので。

 よくあれで故障しなかったものである。

 直史も四大会に出てはいるが、登板イニング数が少ない。奪三振では上杉に勝てないし、おそらく勝てる者は二度と出てこないだろう。

「歴代で単独四位まで上がったな」

 データから菱本が告げた。登板数を岩崎や武史と分け合っているのに、たいしたものである。

「あれ? ……お前、今の時点で三振奪取率、上杉さんに次いで歴代二位だぞ」

 これには驚く直史である。


 直史は甲子園では76イニングと三分の一投げて、121個の三振を奪っている。

 もちろん奪三振数もすごいものなのだが、一試合あたりに奪う奪三振率に直すと、14.27となり、上杉に次いで歴代二位となるのだ。ただし一大会だけしか出ていないピッチャーなどは除かれている。

「まあでも、俺はクローザーとかリリーフで投げる場面が多かったから」

 短いイニングに集中出来るなら、ゴロよりも危険性の少ない三振を取っていくのも当然だ。

「それはそうか」

 どのみち凄いことは凄いのである。




 食事を終えてから今日の試合の映像を見るが、なにしろ三時間以上の熱戦であった。

 風呂の時間を挟んで飛ばして見ても、本当に長い試合である。

 そして出した結論であるが、打順はいじらない。

 ただし明日の朝の、直史の様子を見てから変える可能性はある。


 解散となって直史は宿舎の庭に出て、星空を見た。

 よく晴れている。明日の天気も雨は降らないだろうと言われている。

 直史の横に小さな足音を立てて瑞希が並ぶ。

「明日も投げるの?」

「投げて、勝つ」

 そんな直史の手を、瑞希はそっと握る。

「彼氏がかっこよすぎて困っています」

「自慢してもいいけど?」

「正直、大声で日本中に叫びたい気分です」

 伏し目がちの瑞希は、直史の左手をすりすりといじる。頭をこてんと肩に寄せてくる。


 言うまでもなく、直史は甲子園期間禁欲中である。

 恋人がこうやって可愛らしく誘惑してくるのは、いや本人は誘惑のつもりではないのだろうが、たまらんものがある。

 でもここは我慢の子である。

「そういえば再試合のせいでUSJなくなったんだよな」

「残念よね」

「だったら優しい彼女がご褒美をくれてもいいと思うんだ」

 直史のねだるご褒美は、まず九割がたエロいことである。

 そしてまた、瑞希が拒否しないギリギリを攻めてくるのが、ピッチャーらしくいやらしい。

「それは内容次第です」

 直史は瑞希の耳に囁く。ちょっと18禁レコードに引っかかりそうな内容である。

 真っ赤になった瑞希は、俯いて小さな声で返した。

「前向きに、検討させていただきます」




 眠れる者もいれば、眠れない者もいる。

 大介などはあっさりと割り切ってしまったが、今日は完全に押さえ込まれた哲平などは後者である。

 トイレに起きてきた孝司は、そんな哲平が鏡の中の己をじっと見ている状況に遭遇した。

「眠れないか」

「まあな」

 一年の中では唯一、今日の試合では出場の機会があった哲平である。

 しかし結果としては全打席凡退だ。

 進塁打は打てたという程度の慰めはいらない。


 来年もまだ、大阪光陰に真田はいるのだ。

 そして来年にはもう、白富東に直史と大介はいない。

 今の二年生と、自分たち一年生が、戦っていくしかないのだ。


「試合に出られるだけ、お前はいいよ」

 孝司はそう言うしかない。

 白富東の一年生の中で、バッティングが一番優れているのが孝司である。

 だがポジションが被っていて、試合の内容があまりにもシビアだっただけに、代打としても使ってもらう機会はなかった。


 使ってもらったとしても、打てたとは思えない。

 初見であのスライダーを打つのは無理だ。それに真田のストレートは、力の入れ方によって伸びが変わる。

 孝司もミーティングで散々映像は見たのだが、あれが打てるのはヤマを張らなければ無理だ。

 そしてそれに加えてカーブがある。


 絶対的に実力が不足しているのだ。一年という年齢差以上に、真田はシニア時代、世界大会でも優勝しているピッチャーなのだから。

「でもありえるとしたら、大阪光陰が継投策を取ってきた時かな」

 孝司も再試合を最後まで、真田が投げきるとは思えない。

 188球というのは、少なくともシニアならありえない数字だ。

 真田は体格もそれほど優れていないので、疲労は直史の比ではないと思うのだ。


 もっともこの二人は一年生であり、既に夏の甲子園を去年も体験している二人の投手のことなど、理解の範疇外である。

 15イニングを完封というのは、シニアの七回までに慣れた人間には、感覚がおかしくなる。

「代打でもいいから、どこかで出たい」

 映像を見る限りでは、真田も豊田も、孝司の脳裏にでは何度もリプレイし、対戦したような感覚になっている。


 白富東の守備を見る限り、試合の展開によっては、代打で登場する可能性は高い。

 おそらく得点や失点を考えると、勝つのは白富東のはずなのだ。


 眠れぬ夜を過ごす者たちはまだ多い。




 月曜日に再試合となった決勝戦。

 なぜか急病や親戚の不幸で、急遽休みを取った人間が、全国で数十万ほどいたという。

 そして甲子園にも徹夜組というか、前日からの居座り組がいて、おそらく全席満員どころか、立ち見がまた出てくるだろうと思われる。


 当事者である白富東のメンバーは、昨日と同じ時刻に起きた。

 直史は目覚めると、ゆっくりと立ち上がって肩を回す。

 重くはなく、軽くもない。

 少なくともここで確認する限りでは、調子に悪いところはないと思える。


 宿舎の庭を軽く散歩して、朝食を摂る。

 宿の了解を取った上で、直史はジンとキャッチボールをした。

 本格的な投げ込みなどは行えないが、少なくとも上半身に異常はない。

 指先の感覚にも鈍いところはない。


 10球ほどで終えて、また時間を待つ。

 アンダーシャツにスポーツ飲料、バナナを持って出動である。




 甲子園球場に入る。

 満員を超えた人数が、月曜日にもかかわらず入っている。

 暇なやつらだなと思いつつ、直史はベンチに荷物を置く。


 今日の試合、白富東が後攻を取った。

 昨日の試合で秦野は感じたのだが、もしもまた延長になれば、おそらく直史以外のピッチャーでは、サヨナラのプレッシャーに耐えられない。

 さすがにまた延長戦に突入するとは思えないが、先制されても裏があると思えば、気は楽になる。


 それに大介が、考え方を変えた。

 たとえ他の全ての打席を空振り三振しても、一発のホームランがあればそれでいい。

 直史もまた、考え方を変えた。

 何本のヒットを打たれようが、点さえ取られなければそれでいい。


 秦野も、ジンも、もちろん野手全員も、ベンチも、スタンドにいる一部も、そう決断した。

 1-0で勝つと。


 白富東も大阪光陰も、バッテリーは変わらない。

 スタメンは負傷した沢口の代わりに中根が入った以外は、これもまた変わらない。


 再びの決戦が始まる。

 抜けがあるかもしれないけど、直史の甲子園四大会ここまでの成績。

 12登板4勝1敗1分5S 投球回76.3被安打5与四死球8失点3自責点2奪三振121防御率0.23WHIP0.17奪三振率13.3

 完封5内ノーヒットノーラン3

 甲子園以外の公式戦も一年夏以降は文章になっている範囲では合計五失点。ただし一年春は覚醒前だったため、ホームラン含みそこそこ打たれています。


 50イニング以上登板のマンガキャラだと、タッチの上杉和也が、地方大会のみですが防御率0.17だそうです。

 なお現実の一番すごいお人。

 高校公式戦通算防御率0.41 354イニング 16自責点 被本塁打0 甲子園防御率0.46

 もちろん江川卓さんです。野球界の歴史を変えてしまっただけはあります……。

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