141 完璧な世界
12回の裏の、大阪光陰の攻撃。
直史は変化球で二人を内野ゴロと内野フライで片付け、真田にはストレートとスルーを使って三振。
相変わらず全く隙の見えない投球である。
対する大阪光陰の選手の中には、二年前の夏を思い出している者もいた。
そう、あの上杉勝也によって、15回を無得点に抑えられたあの試合。
延長再試合となったあの伝説の決勝、勝利したのは大阪光陰ではない。
大阪光陰は試合では勝ったが、勝負では上杉に完敗であった。
それに、去年の準決勝も思い出す。
延長まで一人もランナーを出せず、タイブレークでノーヒットノーランをされた試合。
この試合も、結果がどうなるかはともかく、内容では直史に完敗だろう。
揺さぶりをかけても動ぜず、冷静にアウトを重ねていく。
そしてランナーを出さない。
それに比べると真田は、やや落ちてきている気がする。
球数が増えてきて、この二回は三振が取れなかった。
(なんとか揺さぶっていきたいんだが……)
秦野も指揮官として考えるが、打順は七番の中根からである。
真田はこの大会、豊田と継投することによって、負担を小さくしている。
それに練習試合などでは最終回まで完投することもある。
だがこの甲子園の大舞台で、白富東の打線を相手に、延長まで完封なのである。
リードする木村としては、少しでも楽なバッター相手には、消耗を減らしていきたい。
特に七番の中根とジンは、長打力もなく打率もさほどではない。
カットボールを使って、中根を二球でしとめた。
そしてジンも簡単に終わらせようとしたのだが、存外に粘ってくる。
最後は三振を奪ったものの、七球も投げさせられた。
ラストバッターの直史も、打つ気がないのを隠さない。
コースだけを注意したストレートで、三振スリーアウトである。
またこいつからか、と思わないでもないジンである。
だがパーフェクトピッチングが続いている間は、毛利が先頭打者で出てくるのは当然なのだ。
そして毛利としても、全く打てないこのピッチャーに、己の不甲斐なさを感じないわけではない。
ストレートを待っていれば変化球が来て、変化球を待っていればストレートが来る。
どんなボールでも反応して打ってやろうと思うと、ボール球を振らされる。
キャッチャーのリードもいいのだろう。それは確かだ。
だがそのキャッチャーの期待に完全に応えられる投手など、日本中でどれだけいるのだろうか。
毛利はボール球を振らされ、次にはファールでどうにか逃げ、そして三球目は、真ん中から内角に食い込んできた。
ファーストゴロでワンナウト。
二番の明石に対しても、変化球でカウントを稼いだ後、ストレートで三振。
三番の大谷は、またバント戦法を使ってきたが、ピッチャー前で直史が処理してアウト。
白富東が攻撃する時は、応援団とブラバンの演奏も、気合が溢れているように思える。
だが大阪光陰の攻撃の時は、相手の応援以外は、観客席がただ静かに見守っている。
どこまで続くのか。
15回まで投げきるのか。
そんなことが果たしてありえるのか。
13回の攻防が終了し、直史の球数は133球で奪三振は20となった。
球数的にはまだおかしな数字ではないし、攻防の入れ代わりがあるので休みもそこそこ取れている。
水分と塩分と糖分だけを流し込み、あとは集中力を維持する。
アンダーシャツは既に三回替えた。
あと二回だ。
そして真田は制球が甘くなってきた。
14回には大介に回る。そこで一点が入れば決まる。
先頭打者はアレク。今日は一本もヒットを打ててないというのは、彼にとってはありえないことだ。
だがそれだけ左打者に対して、真田が優位であることを示しているのかもしれない。
この打席も追い詰められてからカーブを掬い上げて、ライトが前に出てキャッチ。
おそらくこれが最後の打席だったろう。
哲平相手にはスライダーを中心に組み立てて三振。
まだスライダーを投げられるほど握力が残っているのは、さすがに驚異的である。さっきは一度すっぽ抜けたが、結果的には良かった。
しかし大介に回ってきた。
左打席に入る大介。
ツーアウトランナーなしからでは、勝負するしかない。
アレクと哲平が二人で、この回10球を投げさせた。
そろそろ変化球を投げる握力がなくなってもおかしくない。
ゾーンに入ってきたら打つ。そして決める。
カーブとストレートが外れて、ツーボールとなった。
ここでストライクを投げたいのは、勝負をするなら当然のことだ。
そして三球目、外へと外れていくスライダーだが、大介のバットは届く。
ライナー性の打球が右中間を切り裂く。
決まったかと思ったが、打球はドライブ回転がかかって、フェンスの向こうにまでは届かない。
大介は二塁でストップ。ツーアウトながらランナー二塁となった。
大介がホームランを打たないと決まらない。
白富東にはそんな雰囲気さえ出ている。
しかし四番の鬼塚に対し、初球をカーブから入る大阪光陰バッテリー。
大介が三盗を試みて成功。エラー一つで一点が入る場面を演出する。
鬼塚のバッティングは徐々に真田に合いだしている。
そして鬼塚の足なら、内野安打の可能性もある。
クリーンヒットならもちろんいいが、泥臭い内野安打でも、一点は入る。
ここに来て真田は、最近は使っていない高速シンカーを投げてきた。
確かに右打者に対しては外に逃げていく球だが、それでも攻略が難しいものではない。
ただこれで、シンカーもあるのかという選択肢が鬼塚の頭の中に浮かぶ。
傍から見ていればこれは、単なる威嚇でしかない。
だが実際に対戦していれば、視野も狭くなる。
真田の高速スライダーに比べれば、まだしもシンカーの方が打ちやすい。
外をもう一球攻めて、そこから内へ。
ツーシームをひっかけて、セカンドへの高いバウンドのゴロとなる。
ジャンプして素手でキャッチした明石は、そのままファーストへ送球。
またもファインプレイでファーストアウト。
一点が遠い。
回を重ねるごとに、ピッチャーは投げる球がなくなってくる。
その日のピッチャーのタイミングに、バッターが合ってくるからだ。
そう考えればこの試合五打席目の後藤は、そろそろミートしてもいいはずだ。
なまじパーフェクトなどしているだけに、一度崩れればそこで終わる可能性もある。
だが白富東の守備陣はそうは思わない。
直史が投げる限り、そこには凡退の山が作られる。三球目のカーブに合わせた打球は三遊間。後藤の打球は速い。
だが大介の守備範囲だ。しっかりと逆シングルでキャッチしてから、肩の力だけで一塁へ送球。ワンナウト。
後藤の足がもう少し速ければ、などとは思うが、それでもパーフェクトピッチは継続。
延長の14回になっても、直史の球速は140km台前半を維持する。
五番の丹羽を三振で切り、続く宇喜多はまたもショートゴロでアウト。
崩れる気配すらない。
不滅の大記録の達成に向けて、球場内は奇妙な静寂に満ちてくる。
15回の表。
視聴率が45%を突破したこの最終回、白富東は倉田がフェンス近くまで運んだものの、それもキャッチされる。
武史は粘ったがサードゴロに倒れて、中根はまた三振となる。
この裏、大阪光陰は最後の攻撃。
そこで点が入らなかったら、引き分け再試合となる。
大阪光陰、木下監督は迷う。
打力に極振りした代打はいる。だがこの試合の初対戦で、直史が攻略出来るのか。
それよりはここまで球筋を見てきたバッターを、そのまま出した方がいいのではないか。
(次の回があらへん絶好のチャンスや。動かなかったらアホやろ!)
そして送り出した代打は、一人目はレフトフライ。当たりは良かったのだが、中根がぎりぎりで追いついた。
沢口の足だったら追いつかなかったかもしれない。
そして木村へも代打が出る。さっきは左の代打で、今度は右の代打だ。
この前にレフトへヒット性の当たりになったのは、ストレートを打たれたからだ。
他の変化球とのギャップがないので、そのまま正直に打ってきた。
この打者へは二球連続でスルーを使い、三球目は外にカーブを外す。
そしてインハイのストレートで空振りを取って三振。
あと一人。
真田には代打は送られない。
音が遠い。
真田の呼吸の音が聞こえる。
ジンのサインに頷き、第一球。
チェンジアップ。真田はわずかに体を動かしたが、見逃してストライク。
二球目。スルーが高めから鋭く下に伸び、空振りでストライクツー。
ここまでの多い組み立ては、沈む球の後に、スピンのきいたストレートで空振りかフライを打たせること。
真田相手にどう投げるか。
一度サインに首を振り、そして第三球。
ボールが来ない。
スルーチェンジ。真田のバットの先に当たって、ファーストゴロ。
そのまま倉田がベースを踏み、スリーアウト。
15回が終わった。
引き分け再試合である。
ベンチに戻る白富東――いや、佐藤直史に対して、観客は本日二度目のスタンディングオベーションで迎えた。
15イニングを投げた両投手の成績。
真田真之 188球 16三振 四安打 三死四球 無失策 無失点
佐藤直史 154球 22三振 0安打 0死四球 無失策 無失点
試合時間は3時間12分。
両チーム合わせて二安打以上を打ったのは大介だけであり、長打は大介の二塁打一本。
六打席で四度出塁したというのに、大介は打率も出塁率も大きく落としてしまった。
どちらも異次元の投球内容であるが、直史はパーフェクト達成であるにもかかわらず、またも参考記録である。
結局直史は夏の甲子園では、完全試合は出来ないらしい。
あまりにも常識外れの投球内容に、解説もまともな会話が出来ない。
おそらくこんなピッチングは、二度と見られることはないだろう。
むしろ188球も投げた真田の方が、常識的である。
最終回の瞬間視聴率は50%を記録し、スポーツ新聞のみならずほとんどの新聞においては、翌日の一面をこれに取ることになる。
テレビ局は中継を延長して、試合を振り返ったりもした。
直史は最後のアウトを取っても、ガッツポーズをしなかった。
スタンドでは喜ぶというよりはまさに虚脱であり、また明日も試合があることに気付いて、急遽休日を取ろうとする観客が電波を飛ばしまくった。
瑞希とイリヤは自分の手が震えているのを、お互いの顔を見合わせて確認した。
15回を演奏したブラバンと、踊りきったチアは、共に疲労困憊である。
引き分けなので当然インタビューは行われないのだが、秦野や直史にはマイクが向けられる。
「まだ何も終わってない」
秦野は固い声で呟き、直史は無言を通した。
そしてこれは大阪光陰の選手たちも同じであり、バスに乗り込むまではほとんど誰も喋らなかった。
バスの中でも、空気は重い。
この決勝戦、監督同士の対決を考えたなら、間違いなく秦野の敗北である。
直史は一人もランナーを出さなかった。ファインプレイもありはしたが、それにしても一人も出さなかったのだ。
それに対して白富東は、ノーアウトからランナーを出す展開もあった。何か手が打てるとしたら、それは明らかに白富東側であったのだ。
大事に攻めすぎた。
ランナーを三塁まで運びながらも、あと一歩が絶望的に足らなかった。
そんな己を内心では叱責しながらも、秦野は確認しなければいけない。
「ナオ、どうだ?」
この短い問いには色々な意味が込められている。
直史は軽く右手を何度か握り締めた。
「明日もいけます」
マジかよ、という表情が多くの選手の顔に浮かんだ。
直史としても15回を投げたのは初めてである。
ただ去年の準決勝を考えても、おそらくまだ限界は来ていない。
エースの限界は、まだここではない。
「大田の意見は?」
「球威は最後まで落ちませんでした」
「じゃあ体重量ってから考えるか」
秦野は眉根の辺りを揉む。
「菱本、真田の球数は?」
「188球です」
「明日は投げてこないか、投げてもさすがにパフォーマンスを落としてると思うが……」
大阪光陰にはまだ豊田がいる。
常識的に考えれば、今日の試合だって12回辺りで交代してもおかしくなかった。
だが、豊田なら間違いなく打てる。
明日の試合で、先発はどう出てくるか。
真田が出てきた場合、どの程度回復しているのか。
「地元だから回復手段にも長じてるだろうしな……いや、こっちもそれは考えないとな」
秦野は携帯でどこかに連絡を取る。
いい当たりはそれなりにあったが、得点には結びつかない会心のリードであったとジンは思う。
だがそれは直史がピッチャーだったから出来ることで、明日もこんなピッチングが出来るとは、さすがに思えない。
夏の甲子園のマウンドで150球以上投げるということは、人間の限界を超えているはずだ。
精神論を嫌う直史であるが、ここはやはり精神力でどうにか投げきったと考えるべきだ。
もちろんここまでの試合をほとんど投げないという、体力の消耗を抑えることはしてきた。
15回の完封であれば、二年前の上杉が決勝でしていた。
しかし直史は明らかに、決勝に合わせてコンディションを整えてきたのだ。
だからこそ準々決勝でこそ二イニング投げたが、他は全て仲間に任せた。
とにかく決勝を全力で戦うために、完全に調整してきた。
だがさすがに15回を投げた上で、さらにもう一試合投げることまでは想定していなかっただろう。
明日の再試合は、岩崎か武史が投げる事態を考えなければいけない。
真田にしてもさすがに今日ほどの内容では投げられないだろう。
点が入るまともな試合になる可能性は高い。
岩崎か武史を先発にするべきか。
いや、それはないとジンは判断する。
最後の夏の甲子園を、パーフェクトを達成したエースが、投げると言っているのだ。
勝敗ではなく、ここは純粋に直史に任せるべきだ。
相手の大阪光陰はどうするだろうか。
真田の球数は直史よりもずっと多く、それにこの大会も継投が多いとは言えそれなりに投げてきた。
球数制限には引っかからないだろうが、今日の試合は一人のピッチャーが投げるには過酷過ぎた。
体格的に考えても、投球スタイルから考えても、おそらく真田は限界間近だったはずだ。
球速もわずかに落ちていたし、制球もわずかに乱れていた。
その程度で済むだけで、真田も充分に規格外ではあるのだが。
真田が来るか、豊田が来るか。
首脳陣はまだ頭を悩ませる必要があるようだ。




