59 鬼神の一撃
最悪、坂本を歩かせることも考えていた。
しかし白富東のバッテリーが考えていたのとは、全く別のアプローチで坂本は得点の機会を作り出した。
歩かせるのと、バントヒットでの出塁は違う。
ノーヒットノーラン崩しと言うよりは、純粋にこれはピンチである。
「ファースト、サード前進! セカンドとショートカバー注意!」
ジンの指示が飛ぶ。二塁ランナーの武市は、それほど足は速くない。
だからここは進塁打ではなく、ほぼ確実に送りバント。
その後はどうする? スクイズ?
(スクイズかあ……)
白富東のスクイズ対策は、基本的に相手にやらせてしまうものである。
投手の力が強すぎて、リードされてる相手が「とりあえず一点」をやってくるからだ。
(そうか、あの時……)
一年の秋、同点で延長戦に突入した、神奈川湘南との関東大会決勝。
スクイズで決勝点を取られて負けたのを、しっかりと思い出した。
(あの時の神奈川湘南にはスクイズのプロがいたからなあ)
いるのである。そういう人材が。
ここでの一点は、かなり危険だ。
しかし、坂本には確かに注意していたが、まさかヒッティングではなくセーフティバントを仕掛けるとは。
長打を打たれることばかり気にしていて、ランナーをノーアウトで二塁にまで進めてくる危険性を低く見てしまっていた。
坂本にとっては、狙った長打より、セーフティバントの方が勝算が高かったわけだ。
自分も直史も、坂本に打たれる危険性ばかりを考えていた。
ハッタリだ。
坂本の長打力は、神宮のホームランこそあったものの、それほど特出したものではない。
勝負強さでも、武市ほどには打ってない。
全てが煙幕だったということか。それとも純粋に計算で、こちらの方が一点が入ると思ったのか。
坂本の方が、考え方が柔軟だったのだけは確かだ。
六番打者は最初からバントの構え。
(ウエストして様子を見るか?)
ジンは考える。武市をサードまで行かせてしまった場合。
代打が出てくるかそのまま打たせるかはともかく、満塁にしてしまった方がいいだろう。
武市の足ならフォースプレイでアウトに出来るという利点が発生する。直史が走者一掃の長打を食らうとは考えにくい。期待ではなく、確率の問題だ。
直史はサインを出す。だがこれは布石だ。
ボール球を二球。しかし走ってこない。送りバントの成功を信じている。
(やりにくい……)
三球目、インハイのバントにしにくい球を、見事に一塁線に転がされた。
「一つ!」
倉田のチャージが遅いのもあって、三塁は間に合わない。
一塁カバーに入った直史がキャッチしてアウト。
当初の予定通り、一死二三塁とはなった。
代打が出た。
さすがに正捕手の武市を代えることは出来ないので、三塁ランナーへの代走は心配しなくていい。
マウンドにベンチからの伝令が来て、内野陣も集まる。
「バッティングも優れているけど、犠打も記録している代打、ね」
ジンも確認はしていたが、やはりどちらも考えられるバッターだ。
だがこの場合は、ほぼ確実にスクイズだろう。
内野を浅めに守っていれば、ホームで刺せるかもしれない。
だがそれなら敬遠して満塁にした方がより可能性は高い。フォースアウトでタッチプレイの必要がないからだ。
相手が打ってくるのが確実であれば勝負するが、打ってこないのが確実なので、勝負するふりをしてウエストするか、最初から敬遠して塁を埋めるか。
直史は三振も取れるピッチャーであるが、バントに集中した打者から、バントすらさせない剛速球を投げられるわけではない。
スルーはかなりバントもしづらい球であるが、フライにするには向いていない球だ。
「勝負するふりしつつウエストで」
直史のオーダーは、ジンも許容出来るものだ。
初球からスクイズをしてきた場合は、ちゃんと外していける。
作戦は決まった。
そして直史は外野の位置もちらりと見た。
「大介」
散っていく内野陣の中、大介に声をかけて振り向かせた直史は、すっとサインを見せた。
大介の表情に驚きが浮かんだが、すぐにそれは消えた。
(何か考えちゅうな)
坂本は目ざとく見逃さない。
サインらしきものがあった。ショートの大介へのものだろうか。
ここでショート?
(牽制アウト狙うちゅうがか)
直史は牽制も上手い。
正確にはセットから投げるフォームも含めて、盗塁はしづらい。
二塁ランナーの坂本をアウトにするなら、セカンドかショートへの送球が必要となる。その確認のサインか。
(アシが進塁することは意味がない。牽制アウトは取れんぜよ)
そうは思いつつも、リードはしっかりとする坂本である。
佐藤直史は崩れない。
ホームランを打たれてさえも、その後を冷静に封じて勝利した。
打たれないがゆえに、打たれた時には脆い。そんな分かりやすい弱さを持っていない。
「リーリーリー!」
声だけは上げるが、坂本の取るリードはほんの少しである。
ジンはミットを鳴らす。
ここで直史の注意が坂本に行き過ぎるのはまずい。
大介が上杉勝也のことを思うようには、直史は誰かを意識したことはない。
大阪光陰に敗北した時も、むしろそれで力むこともなく、全てプラスのパワーへと変えていった。
坂本はそれほどの選手か。
確かに面倒な選手ではあるが、奇策を使ってくるだけではないのか。
セーフティでの出塁を許したのは確かに油断だが、この場面で坂本を警戒する必要はない。
とにかくこの打者か次の打者をどうにかして、内野ゴロで一点の危機を回避しなければいけない。
一球目を外す。スクイズはしてこない。
二球目も外す。まだスクイズはない。
三球目。
(来るか)
坂本の背中に、大介の動く気配があった。
プレートを外した直史の、振り向き様の牽制。坂本は手から二塁に戻るが、悲鳴のような歓声が上がる。
二塁で坂本を殺すはずだった大介の動きが間に合わず、そのグラブの先をボールが通り過ぎていった。
「くっそ!」
(チャンス!)
まさかのミス。これを見逃す武市ではない。
待望の先制点へ、武市は本塁を目指す。
大歓声の中、ただ武市はホームベースを目指す。このまま普通にホームベースへ足から――。
その手前で、ジンのミットにボールが送られてきていた。
(な!? だがもう!)
しっかりとボールを抱えたまま、ジンは武市をタッチアウト。そのまま三塁へと送球し、坂本が進塁するのも防ぐ。
「アウト!」
主審の判定にも間違いはない。
明らかに間に合ったアウト。武市が二塁方向を見ると、センターのアレクが手をぶらぶらしながら定位置へと戻っていく。
カバーが早かった。いや、そんなタイミングではない。
ショートの大介の捕球が間に合わないと見てすぐ、武市はホームへダッシュした。目を切って駆けたのは間違いではなかったはずだ。
トリックプレイ。
ミスではなく、ミスに見せかけた罠。
「くそ!」
武市は本塁際の地面を叩いて、天を仰いでから立ち上がった。
(やられたぜよ)
坂本はフォローをするアレクの動きを見ていた。
そこから武市に戻れと叫んだのだが、大歓声で届かなかった。うつ伏せという体勢も、大きな声を出すには悪かった。
坂本に見えた、大介へのサインでさえフェイクだった。
どの時点かは分からないが、伝令に合わせたどこかで、センターへのサインも出ていたのだろう。
こういったプレイをいざという時のために練習し、サインも考えておく。それほど難しいものではない。
欺かれたのは坂本ではなく、武市、それと瑞雲のベンチにコーチャー。
センターのカバーの早さに、アレクの強肩を考えれば、すぐにバックの指示は出せたはずだ。
相手の隙が見えていただけに、自軍の浮かれ具合には目がいっていなかった。
(こりゃあ厳しくなったぜよ)
二死二塁からドラマは起こらず、八回の表が終わった。
珍しくもニコニコと満面の悪い笑みで直史はベンチに戻ってきた。
そして大介、アレク、ジンと手を叩きあっていく。
「いや~、マジ成功したな!」
大介としては「くっそ!」などとわざとらしい演技までしたのだが、大根役者でも相手が勘違いしてくれればそれでいいのだ。
「サインだけ出してなかなか牽制来ないから、やめたのかと思ったよ」
アレクもニコニコである。これはアレクの強肩がなかったら成立しなかったプレイだ。
サインが出たのは、ノーアウト一二塁の場面だ。
ガチガチに警戒していた武市は、まず牽制でアウトには出来なかった。
おそらくあの段階ではまだ、大介の失策を見せても、三塁へ走ることはなかったかもしれない。
だから千載一遇のチャンスと思わせる、三塁にまで進めてみせた。
八回の表、あそこからスクイズを試みたとして、満塁にしてフォースアウト可能な状態では、武市の足だと間に合うかは微妙であった。
そんな意識から、本塁を目指せるチャンスを演出してしまえば、走ってくる可能性は高いと思った。
走ってこなければこないで、状態は何も変わらない。
会心のプレイであった。
こういった作戦はだいたいが一試合に一度きりのものであり、それを成功させるのが、強いチームなわけである。
(坂本は確かに手強い選手だけど)
直史は冷や汗を拭った。アレクのカバーが早くても遅くても、送球がずれても、ジンが捕球ミスしても、成立しないプレイであった。
(野球はチームスポーツだから、坂本以外を攻めればいいんだよな)
それが都合のいいことに、相手のもう一つの精神的な支柱である武市であった。
結局、修羅場を潜った回数が多い方が勝ったと言える。
そして八回裏の攻撃。
「大介、もう九回の裏はいらないよな?」
この回がアレクからの攻撃なので、確実に大介には回る。
「俺が決めてもいいけど、お前は坂本との勝負、もう気は済んだのか?」
「俺たちが坂本たちに勝つのが重要で、俺が坂本に勝つ必要はない。てか、野球の個人の勝敗なんて、見方によってはいくらでも変わるだろ」
たとえばここでアレクが長打で二塁打まで進み、大介の単打で帰ってきた場合。
本日の大介の成績は四打数一安打一打点となり、彼の平均的な打率を大幅に下回ることになる。
しかしチームとしては、その一点で勝てる。
「決めてきてくれ」
そう言った直史の視線の先で、アレクの打った球が外野の頭を越えていった。
(いかんの)
武市も自分も、わずかにだが精神的な動揺を引きずっていたのか。
ノーアウトから二塁へのランナーが出てしまった。
それにこれは、今日初の長打でもあった。
ここまで成果としては出ていなかったが、打力の高いメンバーで坂本に当たるのは、確率的には悪いことではない。
坂本はノーヒットノーランをするようなピッチャーではないのだ。ただ防御率はそれなりに優れている。
確率の問題だ。
確率で言うならば、そろそろ打たれてしまっても全くおかしくはないのだ。
そして鬼塚の、ライト前へのポテンヒット。
ノーアウト一三塁で、迎えるバッターは白石大介。
いっそ塁を埋めるための敬遠というのも考えられるが、次の武史には今日二本のヒットを打たれている坂本である。
(あ~、ナックル……打ち損じ願うしかないがか)
ただ坂本のナックルは、空振りが取れるほどの変化ではない。内野ゴロか、外野フライでもアレクは帰ってこれる。
(九回の表の攻撃はあんま期待できんちゅうが、それでもここで一点までと考えるしかないがか)
運に任せるしかない。
投げる。ナックルを。
その独特の投球フォーム。盗塁しようと思えば出来るが、鬼塚は走らない。
ここでゲッツーを取られても、その間にアレクがホームを踏めば、それで決着だ。
リリースの瞬間、坂本が感じたのは殺気。
(いかん! 打たれちゅう)
咄嗟にタイミングをずらせて、ホームのだいぶ手前でワンバンさせた。
(危なか――)
ワンバンした球は、真ん中低めのボールのコースに入る。
だがそこは、大介のバットの届く範囲だ。
ワンバンのボール球を、打ってはいけないというルールはない。
ゆるい、普通に打てるボールを、大介は渾身で振り抜く。
打球は一直線にライトスタンドを目指し、その観客席へ突き刺さった。
「よし」
ガッツポーズをした大介は、そのまま塁を回る。
「……たまるか~」
さすがに呆れる坂本であった。




