15 窮鼠は虎を噛むか
どうしてあれが打たれて、しかもセンターの一番深いところまで届くのか。
打者として超一流と言われた国立ですら、さっぱり理屈が分からない。
手元でわずかに変化させているはずだ。フライ系でホームランになるならともかく、ライナーの当たりでホームランになるのが不思議だ。
四番に今日は入っている佐藤武史に、またフェンス際まで運ばれたがなんとかアウト。
いい当たりばかりをされていながら、一点だけというのは確かに悪くはないはずだ。
しかし少し流れが傾けば、一気に試合が決まってしまいそうでもある。
「東橋君、よく崩れずに投げた」
「いや~、あんなところに打たれたらもう、いっそスカッとしましたから」
「確かにそうかもしれないね」
呆れるしかない国立である。
センターの西は、また違った感想を抱いていた。
「センターライナーでラッキーと思ったら、そこからぐんぐん伸びてくんだもんな。何かの冗談かと思った」
バックスクリーンに直撃しなければ、あそこからさらに上昇したのかもしれない。
スコアビジョンに当たれば、また壊していただろう。
とにかく規格外であるのは間違いない。
とにかく最小失点で一回の表は終わり、裏の三里の攻撃である。
そして白富東の先発は、佐藤直史。
ついに無安打無四球記録は途切れたが、無失点記録はずっと継続中である。
球速も県内レベルなら一流だが、それはおまけで変化球と制球、そして緩急を使う異形の超絶技巧派。
白富東は全国レベルのピッチャーを四枚も持っているが、その中でも一番めんどくさいのがこいつだ。
もし今日、付け入る隙があるとしたら、キャッチャーが倉田であるという部分だ。
打力として期待するなら、ライトに入れてもいい。あまり適正ではないかもしれないが、なんとかこなすだろう。
しかし大田がスタメンに入っていないというのが、なんともこちらを甘く見ているというか、それとも大胆と言うか。
ベンチでは女子マネの椎名が監督をしているというのだから、そのあたりも隙があるような気はする。
白富東レベルであれば、監督をしてみたいという人材はいくらでもいるだろうに。
それでも国体で優勝しているところが、底知れないところではある。
そして攻撃の前の白富東の守備練習で、観客たちはまた喜ぶ。
ノックをするのは大田やベンチメンバーではなく、監督である椎名なのだ。
女性監督と言うなら、前監督の山手もそうであった。
だが彼女は完全に参謀系の監督であり、ノックを打つのは大田が主であった。
高校野球においては、女性のマネージゃーが練習補助でグランドに入って、それが問題視されたことがある。
理由としては本音はともかく、危険だからというのが建前として言われた。
だがこのノックを見て、危険の一言で済ませてしまっていいものだろうか。
男女のフィジカルの差などで女子禁制の甲子園であったが、監督まで務める女子生徒が、ノックを普通に打っている。
センバツに白富東が進むのは確定なので、彼女が甲子園のグランドをチームメンバーとして踏む、最初の女性になるだろう。
さすがに国立ほどの打球の鋭さはないが、狙い通りのところにちゃんと打っている。
外野までちゃんとフライを飛ばしているのは、長年の努力の結果だ。
最後の見せ場のキャッチャーフライも真上に上げて、倉田がしっかりとキャッチした。
観客からの拍手に手を振って、現役女子高生監督はベンチに戻るのであった。
先頭打者の西は、出来るだけ多くの情報を引き出さなければいけない。
だが変化球が売り物の佐藤は、ストレートでストライクを取ってきた。
ならばそれを打てばいいと思うのだが、これが難しい。
(なんか変に伸びたり、少しだけ曲がったりしてるよな)
佐藤直史のピッチングは、基本的に大きく曲がる変化球で、分かっていても打てないコースに制御するものだ。
だが今日のこれは、打てるがまともには打てないものだ。これを実戦で試したため、国体ではヒットを打たれたのかもしれない。
つくづく嫌になるほどの余裕だが、西はアウトロー一杯のストレートを空振り三振した。
(落ちないストレートかよ)
二番の星には、ほとんど伝えることがない。
「ヘンカまともに使ってきてない。遊ばれてる」
そして国立の隣に座る。
「この間の練習試合でも対戦してないからはっきり言えませんけど、さらに進化してると思います」
球速ビジョンも表示されているのではっきり分かるが、今の打席は最速134kmであった。
そこそこの強豪校のエース級ではあるが、球速だけなら県内を見ても、この程度のピッチャーは多い。
「多分、スピンを意図的に調整してるんだろうね」
国立も内心の絶望感を言葉に出さないようにするので必死である。
佐藤兄は高校入学し硬球に慣れていなかったであろう一年の春に、勇名館をどうにか抑えて勝っている。
その後のトーチバとの戦いでは負けているが、これは彼だけの責任ではない。
以降に負けた試合は、明らかに審判の誤審とエラーの重なった一年の夏と、天候ややはりエラーなどによる二年の春。
夏はマメを潰してでも延長を投げ切って勝ったので、単純に技術が優れているわけでなく、精神力も強いことは分かっている。
変化球投手とは思われているが、直球で空振りが取れないこともない。そしていざという時には好き勝手に曲げまくる。
西の言葉を聞く限りでは、初速が同じストレートでも、握りやスピン量を調整して伸びや軌道を変えている。
おそらくこれは、プロを見回しても誰も出来ない。
ギアを上げた時に球質が変化する投手はいるが、それとは全く違う変化だ。
(だけど、このタイプなら打てる)
既に関東大会への出場は決定し、先制点を奪った場面。
佐藤直史はここから、一点を奪われるまでは、実戦で確かめる余裕がある。
それはキャッチャーが倉田であることとも無関係ではないだろう。
日本ではピッチャーの配球というのは、基本的に対戦相手のデータを元に監督が方針を決定し、その場の変化をキャッチャーが考える。
なおここで、そもそも配球どおりに投げられないピッチャーが、高校レベルでは多いという実態は無視する。
これがMLBであると、ピッチャーが己のその日の調子で、投げることを決めることが多いという。
この違いのために日本から挑戦したキャッチャーが通用しなかったりもした。
白富東は、他のピッチャーの場合はともかく、佐藤兄は倉田のサインにも、一切首を振らない。
それでも打たれないのだ。つまりキャッチャーのリードが優れているか、読まれた球でも打たせないか。
変化球がここまで多い投手をリードするなど、普通は高校生レベルではありえない。
つまりこのバッテリーは、倉田が成長するためのものである。
次の世代のことまでも含めて、向こうは選手を起用する余裕があるのだ。
(う~ん、監督がちゃんといるならともかく、同じ年の女子マネが監督で、次の世代のことを考えてるのか……)
キャプテンの大田も共に指揮していても、国立はそれがいかに異常なことか分かる。
高校野球の最後、夏は負ければそこで終わりというものだ。
白富東にしても、ここで負けても関東大会には出られるのだが、公式戦でそれを行うのは、かなり大胆なものである。
速球派投手なら球威の落ちる後半に勝負を賭けるかもしれないが、佐藤は延長でも全く球威は落ちないタイプのピッチャーだ。
そもそもストレートと変化球の球速差から考えて、試合では一度も全力投球をしていないのではという疑惑さえある。
だが、同じ人間で、倉田を成長させるために投げていれば、隙はある。
星がツーストライクから粘った打球は、鋭いゴロ。
三遊間。飛びついた白石が捕球して、膝を落とした状態から上半身だけでファーストへ。アウト。
普通なら抜けているし、そうでなくても内野安打になるコースだ。
白石は打撃もずば抜けているが、守備も鉄壁だ。
待球策を取りながらも、どうにか隙を見出すしかない。
変化球主体なら、握力の低下を期待するところであるが、佐藤がそういった可愛げのある存在であるはずもない。
東橋も早々に追い込まれているが、早打ちをしないでどうにか後半まで行きたい。
(分かってはいたけど一点が痛い。果たして点を取れる機会が何度あるか)
そう思っている国立の前で、東橋の打った球がレフトの前にぽとんと落ちた。
国体でも二本しかヒットを打たれていない佐藤から、あっさりとヒットで出塁した。
意外と言ってはなんだが、予想外のことではあった。
どうやら東橋の様子を見るに、狙った球を運良く叩いたということだけのようではある。
マウンド上の佐藤は平然としているが、むしろ倉田の方に動揺が見える。
古田の前にランナーが出た。ツーアウトではあるが、そもそもランナーを出すことすら珍しい投手である。
これはあれだ。キャッチャーのリードのミスだ。
倉田も強豪シニアのキャッチャー出身であるから、かなりの実力を持っているのは間違いない。
だが秋まではほとんど公式戦ではマスクを被っていなかったため、実戦経験が不足している。勘も鈍っているだろう。
岩崎や佐藤弟のような、球威で圧倒するタイプのピッチャーならともかく、リードの必要な技巧派を、扱いきれていない。
だからこそ佐藤と今日は組ませているのか。
これは微妙な状況だが、チャンスであることには変わりはない。
だがヒット一本で帰ってくるのは難しい。
つまり、スチール。だが単なるスチールだと、倉田の強肩で刺されて終わる。
それでも初球スチール。大きな縦のカーブの間に、二塁への進塁成功。
これが直球系であれば、古田も打っていった。ランエンドヒットだ。
インプレイ中だが、倉田と佐藤が少し会話をした。
いざとなれば大田とキャッチャー交代なのだろうが、そのタイミングがどうなのか。
それにしても、ノーヒットピッチングが基本の佐藤が、よくもまあこのリードで満足している。
初球はカーブでストライクを取ってきた。セカンドの東橋は、牽制アウトに気をつけながらも、しっかりとリードは取る。
二球目に何を投げるかは、選択肢が多すぎて絞りきれないが、この東橋のリードを見て、三盗を警戒するかもしれない。
(アウトになってもいい。行け)
クイックからの投球に対して、東橋はスタートを切る。
外角高めに外したボール。これなら三塁で刺せると思ったか。
外しきれていないボールを古田はライトへ流し打ち。
ライン際に着地。回り込んでライトは捕球したが、早くセカンドを発進していた東橋は、余裕でホームイン。
佐藤直史、公式戦においては80イニング振りの失点であった。
どういうことだ、と国立は喜びよりもむしろ当惑していた。
少なくとも星の打席までは、ヒットを打たれるような球は投げていなかった。
東橋の一本がまぐれだとしても、古田にまで外した球を打たれるとは。
佐藤の調子が悪いのかとも考えるが、西を相手には完全に抑えている。
先頭打者の俊足の西、それに続いて面倒な星がアウト。
ツーアウトから気が抜けた? 佐藤が?
そして古田への不用意なボール球。
わざと点が取られる状況にしたとしか思えない。
「東橋君、打ったボールは?」
「はい、ストレートの割合が増えてたので、それに的をしぼりました」
「う~ん……」
佐藤の調子が悪い、と判断してしまえばことは簡単だ。
しかし現実的に考えて、あの佐藤が調整に失敗するだろうか。
それに調子が悪くても、他にもピッチャーはいる。
そんなことを考えている間に、五番がゴロに打ち取られてスリーアウト。
一回の表に先制されることは予想していたが、正直その裏で同点に追いつけるとは思っていなかった。
だがこれで、とりあえず試合は振り出しに戻ったのだ。
「よし! ここをきっちりと切っていこう!」
何か不穏なものは感じるが、とりあえずは考えるのは自分の仕事だ。
二回の表、白富東の攻撃は、五番の倉田から。
先ほどの反省をぶつけたような打撃で、ボールがスタンドに放り込まれた。
次話「いまだ道の途中」