4 奇跡の予感
とある日本の、野球超強豪地区で、その紅白戦は行われていた。
三年生が抜けた新チーム。そしてそれは、送別試合でもあった。
秋からは主力投手との一枚として期待されていた選手である。しかし様々な理由があり、チームを去らなければいけないことになった。
七回までを投げて、五安打三失点。
彼の属する側のチームが、5-3のスコアで勝っていた。
後片付けも終わり、広くもないロッカールームで着替える。
「けどほんま、古田が抜けるのは痛いなあ」
短期間の間に、何度この会話がなされたことであろう。
「秋大で勝って、センバツ行ける思たんやけどなあ」
「こればっかはしゃーないわ。金がないとな。俺らじゃなんも出来ん」
「奨学金とか、古田だけこっちに夏まで残るとか、なんとか出来ひんかったんか?」
「やめとけ。そういうのはもう全部考えた後やろ」
仲間たちの言葉に、嬉しくも寂しくなる古田である。
父の会社、まあ工場と言うべきかもしれないが、それが倒産した。
昔の知り合いを頼って就職先は見つけたが、地元を離れることになった。
息子一人を残していくには、一人暮らしをさせる金はないし、頼れる親戚も学校に通えるほど近くにはいない。
あまり言えないことだが、私立の高校に通わせることで生じる、様々な寄付なども苦しい。
私立の野球強豪校で野球をするというのは、そういうことだ。
「でも、野球はやめへんよな?」
「やめへん。当たり前や」
そこだけは強く、古田は言い切った。
「野球やめたら、俺は腑抜けてまうの分かってる。それにこの場合の転校は、ちゃんと転校先でも野球できるって確認してあるんや」
両親は強くそう言った。そして続けて、また言った。
好きなことを諦めさせて済まない。親に頭を下げられるのがあんなに悲しいとは、古田も知らなかった。
けど、俺は諦めへん!
そして引越し先である。
「千葉かあ」
「千葉言うたら……白富東やな。今年の千葉県代表にもなったし、あと一年あいつらと一緒にやれたら、下手すればここでやるより、ええとこまで行けるで。お前なら背番号取れるやろ」
なおこの時点では夏の甲子園は始まっておらず、白富東が絶対王者大阪光陰を破るとは夢にも思われていない。彼らほど大阪光陰の強さを知っている者たちはいないだろう。
「まあ、白富東に行ければ良かったんやけどな」
古田もまず、そこを一番に考えていた。
公立の高校であるにもかかわらず、設備や指導陣も充実している。何より練習試合の対戦でも分かっているが、凄まじく強い。
甲子園を狙うなら、今の千葉では私立よりもむしろ、そちらの方が可能性は高い。
「行けへんのか?」
「お前にはまだ言うてへんかったか? あっこ体育科とか全くないから、編入試験受ける以外に入る方法があらへんねん」
ちなみに定員を満たしていればそれさえ不可能なのだが、今の白富東の二年には、学校を辞めてアメリカに行ってしまった者が一人、インドに行ってしまった者が一人いる。
「お前の頭やったら行けるやろ?」
「調べたらあっこ、偏差値68もあるねん」
「うわ……」
「そういやあいつら、頭良さそうな顔してたもんな」
実際はそうでもない。
「すると千葉やったらトーチバか?」
まあ千葉県の代表と言えば、そこが思いつくだろう。
しかしトーチバは私立だ。金がかかる。
「今年のベスト4に残ってたチームに、もう一つ公立があるねん。今の監督になってから、春はブロック予選で白富東にボロクソに負けてるけど、夏でいきなりベスト4や。東雲にも勝っとる」
「ああ、千葉言うたら昔から強い公立多かったからなあ」
幸いなことにその学校も定員に空きがあり、試験もどうにか通りそうではある。
「なんちゅう学校や?」
「県立三里高校」
誰もが顔を見合わせる。
「誰も知らんやろ? 甲子園にも一回も来てへんねん。でも調べたら監督が、六大で活躍した国立選手に代わったばっかなんよ」
「ええやん!」
「お前の腕で、甲子園初出場プレゼントしたれや!」
こうやって喜び合うことが出来る。
正直な話、不安はある。このチームで、最後まで戦いたかったという気持ちもある。
だが野球を続ける意思だけは揺るがない。
かくして奇跡が起こる前兆は、既に発生していた。
国立は忙しかった。
教師としての彼の立場から、彼の性格もあって、授業に手を抜くことは出来ない。
放課後は野球部の練習である。肉体を使った練習だけでなく、座学もしっかりとする。
体を鍛えるのには、時間の限界があるのだ。頭を鍛えて、状況判断能力を高める。
そして練習やプレイの意味がしっかりと意識されていれば、同じ練習でも身につく技能ははるかに高くなる。
そんな中でも部員一人一人に合ったメニューを組み、後は念のために来年の新入生獲得のため、中学の軟式やシニアを回ったりもする。
人手がいないため、これら全てを自分で行わなければいけない。地味であるがガソリン代もそこそこ痛い。
正直、厳しい。
来年の新入生に関しては、それなりに感触は良かった。ただスカウトされるような選手はやはり強豪校に進路を決めているし、素質がある子でも即戦力にはほど遠い。
星たちの代では無理なのか。
どうしようもない現実というのはあるのか。
しかし諦めればそこで歩みは止まる。
「国立先生」
そう呼び止めたのは、同じ教師の長谷部であった。
二歳年長の女教師で、女子テニス部の顧問をしている。
体育系の出身ということもあり、国立とは話す機会も多い。色々と気を遣ってもらってもいる。
なお彼女の担当は国語であり、国立は意外なことに数学だ。
打球の弾道計算などをしている間に、数学にはまってしまったのである。
「長谷部先生、おはようございます」
「おはようございます。校長先生が呼んでましたよ。出来るだけすぐに来てくださいと」
「あ、はい。分かりました。ありがとうございます」
微笑んで背中を向ける長谷部を見ながらも、国立は考える。
校長からの話。正直、心当たりがありすぎる。
問題行動などはないはずであるが、自分が一介の教師としての職分以上に、動き回っていることは間違いない。
何か釘を刺されるのか。すぐに来いというのも不安を煽る。
しかし校長室に入室した時の校長は、困ったような顔をしてはいたが、不快感などは見せていなかった。
「まあ、かけて。緊急の事態ではないのだけど、君としては少しでも早く、こういったことを知りたいだろうと思ったのでね」
ソファにかけた国立の向かいに座った校長が持っていたのは、書類ケースである。
「どうかね? 野球部の具合は?」
「はい、皆目標を決めて、頑張っています。怪我だけは心配ですが、そこも注意しています」
「うちのような公立校は、なかなか私立のようには行かないからね。公立でもどうしても、伝統的に強いチームに行ってしまう」
国立だってそうだった。出切れば公立でも、強いチームに行きたかった。
「私の立場としてはね、今後何年かかけてでも、少しずつ野球でも強くして欲しい。その程度なんだよ。ただ、今の生徒たちはやはり、甲子園に行きたいのだろうね」
「私も高校球児でしたから、やはり憧れというのはあります。……あそこは特別です。神宮では試合経験がありますけど、やはり甲子園への憧れというのは、ちょっと別格ですね」
「それならこれが、野球部の力になるかな」
校長が手で空けるように示されたケースの中には、生徒の書類が入っていた。
「私も先に調べてはいたんだが、一家移住の場合などで転校する時は、公式戦への参加禁止期間はないそうだね」
「そうですね……」
書類を見ていた国立の目が止まったのは、その生徒の前の所属。
大阪。私立理聖舎高校。
絶対王者大阪光陰に少しでも対抗出来る、大阪府内では唯一と言ってもいい学校だ。
続けて内申書の方を見る。
投手。地区予選で登板。ベンチメンバー。
指先が震えてくる。
もちろんこれだけで、全てを判断するわけにはいかない。私立の選手というのは、公立とはどうしても意識が違ったりする。
しかし、こんなことがあっていいのだろうか。
喜ぶにはまだ早いが、それでもこれは、可能性の塊だ。
「この子の編入は、もう決まったんですか?」
「ああ、まあ普通に学力試験を受けて合格しているからね。こちらとしては止める理由は何もない。正式には九月からになるが、本人は出来るだけ早く野球部に合流したいと言っていたよ」
「そうですね。部員登録もしないと――」
「それはやっておいたよ。他にも色々とね。君は働きすぎだ」
そこで校長は溜め息をついた。
「野球部の全員が、君を頼りにしている。無理はしてはいけないよ。私も校長として、サポートはさせてもらう」
自分が頑張らなければと思っていた。
夏の大会で勝ち進み、大きな期待が肩には乗っていた。
そこには責任があると思っていた。しかしよく見れば、校長にしろ先ほどの長谷部にしろ、協力してくれる大人はたくさんいるのだ。
「野球に関して一番詳しいのは君だ。だから、君が頑張るしかない。だけど社会人として、教師としては私達の方が何倍も経験はある。もっと頼ってくれて構わないんだよ」
「――ありがとうございます」
国立は泣きたくなるのを堪えて、深く頭を下げた。
単純に実力だけで喜ぶわけにはいかない。
そう思った国立は、その日の夜には、転校生である古田重敏の家に向かった。
小さなアパートで、一家四人が暮らしている。
家族は両親と妹が一人。彼女も今中三で、大変な時期に引っ越してきたと言える。
家にいたのは古田と妹だけだったので、少し話そうかと、外に連れ出してみる。
「千葉の印象はどうかな?」
何気ない話題を振る。その間にも国立は古田を観察する。
背が高く、体も分厚い。野球をするために鍛えられた体だ。
「印象言うてもまだ、あんまり実感はないんですけど、関西弁が聞こえてこないのが、なんやらおかしいと思ってます」
はにかみながら古田は答える。
「ある程度事情は聞いてるけど、おうちの方は大丈夫なのかい?」
「……借金で首くくる前に会社潰したから、それでどうとかはないんです。でも全部ゼロになってもたから、おとんもおかんもずっと働いてて、自分だけ呑気に野球やってていいんかと、思う時はあります」
正直な子だ。それに優しい。
逆境は、人を強くする。
国立はゆっくりと話を続けた。
「うちの学校は、正直普通の公立校だ。伝統もないし、実績はこの間の夏のベスト4のみ。今でもフロックだと思っている人も多い」
「いやいや、それはあらへんです。予選の試合のスコアを見たら分かります。東雲に勝ったのがまぐれにしても、ベスト4まで行けることあらへんし」
なるほど、ちゃんと選んで三里に来たわけだ。
「うちの学校の強みは何かな?」
「まあ本人の前で言うのもなんやけど、監督でしょ? あとは大田が言うには、二番手ピッチャーが凄いって話」
「……白富東の大田君かい?」
「はい。前にうちと練習試合した時、アドレス交換してたんで。今でも時々メールし合ってますよ」
強豪校同士というのは、そういうつながりまで出来ていくものなのか。
まあ自分が大学時代のつながりを利用しているのも似たようなものか。
それにしても大田は色んなところでつながりを作っている。
父親のコネを使うにしても、ちゃんと自分のものにしている。
「それじゃあ君に聞こう。正直に話してもらっていい。三里が甲子園に行くには、どうすればいいかな?」
甲子園。
その単語で、古田が息を飲むのが分かった。
「三里の実力を見てないんでなんとも言えへんけど、俺の代で行こうと思うなら、センバツ狙うしかないんとちゃいます?」
実際理聖舎も春には大阪光陰には負けているが、近畿大会で勝ち進んでセンバツに出たのだ。
現状認識が合っている。
「夏は無理だと?」
「そりゃ可能性はゼロやないやろうけど、即戦力を引っ張ってくるのは公立では無理でしょ? 理聖舎かって基本的には、特待生はなかったし」
秋に勝つ。
その目論見は一致している。
「練習にはいつから参加出来るかな?」
「! 行っていいなら明日からでも!」
「分かった」
国立は右手を差し出す。
「三里高校野球部へようこそ。部員一同歓迎……するかどうかは分からないけど、私は歓迎するよ」
複雑な顔をして国立の手を握る古田であった。