67 終曲
本日四度目、ラストの投下。
静かだ。
応援の声も音も、何も聞こえない。
マウンドの上は、こんなに静かな場所だっただろうか。
いや、鼓動が聞こえる。
打席に入った初柴の鼓動だ。
激しい音。
それじゃあ打てないだろう。
投じられたカーブはピッチャーフライ。
あと二人。
五番は加藤の代わりに代打が出てきた。
そして一塁走者である後藤にも代走が出る。
データを踏まえて、しかしデータに絶対の信頼は置かない。
直史はバックの方を向いた。
この静かな世界を、自分が破る。
「どんどん打たせていくんで! よろしくお願いします!」
直史だって、こんな大声は出せるのだ。
代打の選手の打球が、今日初めてまともに外野に飛ぶ。
やや深めに守っていた手塚がダイビングキャッチ。あれほど無理はいけないと言っていたのに。
ただアレクがカバーしているので、最悪の事態にはならなかったろう。
これでツーアウト。
最後の打者も代打だ。
この大舞台で、最後の打者が代打など、大阪光陰も苦しいことだ。
カーブのあとのストレート。
鈍く当たったボールは、キャッチャーの頭上へ。
もう二度と失敗しない。
ジンのキャッチャーミットに、最後のボールが吸い込まれた。
スリーアウト。ゲームセットだ。
直史はマウンドに両膝をついた。
そして両手を天に上げる。
右手は強く握っていた。
終わった。
終わったのだ。
佐藤直史の、夏が終わった。
その後のインタビューを、直史はほとんど憶えていない。
ありがとうございますと、分かりませんを繰り返していたように思う。
しかしそれが事実だった。
もうどうでも良かった。
自分たちが勝ったのだ。
セイバーもまた、特に言うことがない。
直史が投げて、大介が打った。
それ以外には何も言うことが……一つだけあった。
「エラーが一つもなかったのが勝因ですね」
大介にも質問が殺到していた。
しかし彼には答えられない。
集中すると、まず音が消えるらしい。
それがさらに深くなると、色も消えるらしい。
そしてそれが極限まで極まると、どうやら記憶が飛ぶらしい。
「甲子園の場外まで運んだのは、初めてとのことですが?」
「それは、たまたま俺が最初の一人だったんですね」
桜島の応援が言っていた。
場外を狙って打てと。
何も憶えていなかったが、おそらく考えていたのはただ一つ。
どこまでも飛ばす。それだけだ。
送迎バスへ乗り込んだ白富東一行は、ようやく一息つけた。
終わった。やっとそう言える。
いや、まだ決勝戦が残っているが、最大の難関は突破した。
直接戦ってみて分かったが、やはり大阪光陰はSランク以上のチームであった。
真田もなんだかんだ言って意図的な四球以外は、大介に打たれたのが唯一のヒットでありホームランであった。
気が抜けているのはベンチだけでなく、セイバーもシーナもである。
延長に入ってからはずっと、相手のサヨナラの危機に晒されていた。
それまでずっとノーヒットだったピッチャーが、一本のホームランで負けるというのは、野球を見ていれば珍しくない。
直史は頑張った。
最後に決めたのは大介だったが、最後まで封じたのは直史であった。
直史が投げ、大介が打つ。
最後の最後で、そのパターンが出た。
「あ、なんか今日の試合、完全試合と認めるかどうかでもめてるみたいだな」
スマホを扱っている手塚が、そんなことを言う。
「一応ルール上は完全試合じゃなくて、ノーヒットノーランだよ。でもこれを完全試合と認めないのは、ちょっと無理があるよな」
水島もそのあたりは調べていたので、すぐに答えが出せる。
「ネットがすごいことになってるよ。正式に完全試合と認めるべきだとか、参考記録でも充分とか、むしろ普通の完全試合よりすごいとか」
分かる。
タイブレークになってからは既にランナーが出ている状態から始まるので、攻撃側の採れる作戦がずっと多いのだ。
それを完全に封じたのだから、直史の達成したことは、控え目に言っても偉大である。
(でもこいつ、根本的なところでは自分しか信じてないよな。いや、まあ本当に投手っぽいのか)
直史は投手っぽさとか、あるいは高校球児っぽさを備えていないように思える。
しかし根本的なところ、試合を自分で決めようという部分は、やはり投手だ。
外野には飛ばないように、ゴロさえもまともに打たれないように、ジンに要求してきた。
その完璧主義者の投手は、最後尾の席に横たわって眠っている。
電池が切れたように落ちた。肉体的な疲労よりは、精神、そして頭脳を使いすぎたのだろう。
ジンも極限のコントロールを要求したが、その意図を理解して、それこそ球速さえ意思を込めて投げていた。
おそらくこんなパフォーマンスは、直史も二度と出来ないだろう。
しかしこの舞台でこれをやってしまうのが、直史の直史らしさだ。
メンタル。それは集中力の極限なのか。
奇跡は起きた。
だがその奇跡を起こしたのは、神ではなく人間だった。
延長14回、打者42人に対して、三振29、被安打0、与四球0。
ルールの上でどうなっていようと、誰もが認める完全試合であった。
宿へ戻ると、これまたすごい騒ぎになっていた。
報道陣はさらに増えて、警察が交通整理に出てきている。
お巡りさん、ありがとうございます。
眠ったままの直史を、疲労のないベンチメンバーが両脇から支える。
ずっと右手にタオルを持ったままなのは、ライナスの毛布に通じるものがあるのであろうか。
「お、ちょっと待て」
寝顔を晒すことを嫌う直史は、普段も目の上にタオルを乗せて寝ている。
この状態で写真に写るのは嫌だろう。
ジンにタオルを頭からかけられた直史が降りる。
間断のないシャッターの音。完全に疲労困憊した直史を、隠すように一行は歩く。
その後ろから、俺を映せと言わんばかりに、大介が派手にのしのしと歩く。
直史もとんでもないことをしたが、大介もとんでもないことをした。
これまでの日本の野球において、プロを含めてさえ、甲子園に場外弾を放った者はいない。
いつかはやるんじゃないかと思われていたやつが、今日やってしまった。
しかもどうやって打ったのか憶えてないと言う。
大介は変に隠したりもったいぶったりする人間ではない。
あの真田のストレートが放たれた瞬間から、脳は記憶する機能を止めて、全てを演算に回し、神経が全てを振ることに回した。
二人の天才が人生最大のパフォーマンスを、同じ試合で残したのだ。
だから勝てた。そこまでしなければ勝てなかった。
一部屋特別にとってもらって、布団の上にタオルケットを敷き、直史を寝かせる。
「そんじゃ瑞希ちゃん以外の女子は出ていってね~」
そう言いながら双子が直史のユニフォームを脱がせていく。
「待て! スラパンは待て! それは武士の褌だ!」
必死で武史が止めて、瑞希は目を隠すふりをしながらもしっかりと見ていた。
「……スラパンの下って、何も履いてないんだね……」
「いくらお兄ちゃんのでも、見たくなかった……」
双子の目が死んでいる。
寝冷えしないように上にもタオルケットを被せて、一同は出て行く。
「あ~、脱がすのは瑞希ちゃんにやってもらった方がよかったね」
「そうだね。あたしたちは大介君専用だもんね」
「いや私も、まだそんなとこまでは……」
素直に瑞希が白状してしまうと、双子は大袈裟に振り向いた。
「え! まだしてなかったの!?」
「付き合ってもう、どんだけたってるの!?」
「お前らそういうデリケートな話は部屋の隅でしろ!」
珍しく武史の意見に従って、瑞希から色々と聞きだすべく、廊下の隅に向かう双子。
それに背中を向けて、武史は大部屋に集まる。
既にもう一つの準決勝は始まっていた。
「どう?」
「四回終わって1-1。かなり健闘してるな」
鬼塚が簡単に現状を述べてくれた。
チーム力では帝都一の方が上だが、本多は抜けた球を放ることが何度かあるし、上杉兄に鍛えられた春日山は、単なる速いストレートなら打てる。
ヒットは時折出るが、それに足やバントを絡めてホームを狙う、オーソドックスな戦い方だ。
しかし帝都一の強力打線を相手に、上杉も素晴らしいピッチングをしている。
「ん~、ちょっとここまでのスコア見せて」
スコアラーの一年からスコアを見せてもらって、思わずうなるジンである。
「樋口が覚醒してる……」
「ほ?」
「球数少ない。ゲッツー既に二つって、帝都一相手にありえん」
バッターを併殺で殺すのは、キャッチャーにとって難しく、それでいて目指し甲斐のあるプレイだ。
相手の能力や状況、感情までも把握して、ピッチャーに球を投げさせるのだから。
(一日休養日があると言っても、向こうは上杉一人だからなあ)
こちらも直史は完全にダウンしているが、なんとか一日でそれなりには回復するだろう。
しかし、樋口は本当に大変そうだ。
春日山が上杉という超高校級ピッチャーを抱えながらも、甲子園の頂点を目指せなかったのは、キャッチャーが弱点だったと言われている。
樋口が加入してから、練習試合の強豪との対戦でも、確実に勝てるようになったのだ。
それに去年は一年から四番として活躍し、今年も不動の四番である。
一応キャプテンは三年の本庄だが、実質的に引っ張っているのは樋口と上杉の二人だろう。
(同学年だってのに……くそっ)
試合は進む。
一進一退と言うよりは、帝都一の攻撃を春日山が上手くいなしているといったところか。
スコアは2-2と変わり、八回の表、二死ながら三塁にランナーを置いて四番の樋口。
ここで決めないと、春日山は苦しくなるだろう。
ここで樋口が採った手段は、実に予想外のものだった。
セーフティスクイズ。
深く守る内野の虚を突いて、サードに転がす。
(あれ? 樋口って走塁のデータは――)
盗塁を刺しているデータは多かったが、樋口自身の走力には覚えがない。
遅いというイメージはなかったが、盗塁などはしていないはずだ。
帝都一はサードの送球も乱れて、致命的な追加点を奪われた。
その後の裏、そして最終回の裏。
帝都一は揺さぶりをかけながらも、その強打で春日山に追いつこうとしたが、最後まで上杉が切れなかった。
むしろヒットの数は春日山よりも多かったにもかかわらず、最終的に3-2で春日山の勝利。
三年連続、三度目の決勝進出であった。
次話「最後の晩餐」