64 震える
ノーアウトで一塁ランナーにアレク。この場合のジンの役割は一つしかない。
進塁打だ。
大阪光陰の二番手加藤の球種は、スライダーにカットにシュートにスプリット。どれもムービングファストボールであるが、チェンジアップを時々投げる。
ジンの打力で狙って打つなら、チェンジアップが一番可能性は高い。しかしジンを相手にチェンジアップを投げる意味はあまりない。
最初からバントの構え。これに対して竹中は、あっさりとバントをさせた。
一死二塁。そしてバッターは大介。
当然のように竹中は立つ。
ああ、と仕方がないとは思いつつも、観客の間からは溜め息が洩れる。
派手好きなニワカファンと違って、準決勝を座席を確保して見に来るような通は、敬遠すべき場面と、敬遠せざるべき場面とを了解している。
白石大介相手に、セカンドにランナーがいる状態、しかも一塁が空いていれば、歩かせるのは当然だ。
しかしこれで、二塁にアレク、一塁に大介と、足の速いランナーが二人となった。
ここで四番は佐藤武史。
桜島に九点を取られた男である。
しかしここでブラバンは、専用の応援曲を奏でる。
ズン! パパパパーー ズン! プププパーー パープーパープーポペパー (チャカチャカチャ)
パープー (トントントン) プープー (トントントン) プープーピーペーーーパッパパパン!
(ズンチャチャチャチャチャチャ ドンチャチャチャチャチャチャ トンチャチャチャチャチャチャ ズン!)
パプパッ (トントトトン) パポパッ (トントトトン) パプパーパパプーパポパー (トントトトン)
パパポポッ (タンタタタン) パプパポッ (タンタタタン) パプパーパーポー (ツンターターターターーン)
この曲を聴いて、アニメの本編を見たイリヤが、あまりの稚拙さに寝込んだというぐらいの。
OPが本編と散々言われたこの曲を、なぜイリヤが見るのを止めなかったのか。
手塚は小心者の小悪党に見えて、意外と大胆な嫌がらせをする。本人に自覚があるかはともかく。
ネクストバッターサークルから立ち上がった武史は、気合を入れてマウンドの加藤を睨む。
その武史に対して加藤の初球は、あえて打つのが得意な変化球。
しかし膝下に沈んでいくスプリットだった。
そして二球目も外れていくシュート。三球目は内に切れ込むスライダー。
ボールスリーとなった高めのストレートに手を出し、内野フライ。
球威が武史の予想をずっと上回っていた。
五番の鬼塚。応援曲はルパンに変化する。
しかしツーアウトになってからでは、得点の期待値はかなり下がる。
ストレートを打ったが、平凡なセンターフライに終わった。
予想通りではある。
大介を歩かされたら、後続で点を取るのはかなり難しい。
大介の前にランナーを溜めるよりも、ホームランが狙えるランナーなしの方がいいとまで思える。
投手戦になってきた。
雨はぽつぽつと降ってはやんで、試合を中止するほどではないが、エラーがありえそうな展開となってくる。
実際に大阪光陰側は、内野ゴロがものすごく勢いを殺され、エラーとまでは言わないが、内野安打を記録された。
それに対する白富東。
「また三振だ」
「すげー。大会記録更新するんじゃねえの」
「いや、上杉の一試合25三振があるから、それは無理だ」
「延長になったらどうだ?」
「いや、それも去年の上杉が決勝でね……」
観客はざわめきだしたが、いくら直史が三振を奪っても、さすがに上杉の記録は超えられない。
おそらくルールなどの抜本的な改革でもない限り、あの記録は更新されないだろう。
「まあでもたいしたもんだよ。もう六回が終わって三振が14個だろ? それに四球は出してないし……あれ?」
誰かが気付いた。
そして誰かが気付けば、他の者に伝わっていく。
三振の数も多いが、それ以前に、一人のランナーも出ていない。
つまり六回が終わった時点で、直史はパーフェクトピッチングをしている。
静かなざわめきが球場を満たす。
まさか、この準決勝の、絶対王者の、大阪光陰を相手に?
不可能だろう。
残り三回と言っても、大阪光陰の三回の攻撃だ。
それに白富東も点を取れていない。このままなら達成しても参考記録でしかない。
しかし、と期待する。
ただひたすら投げ続ける直史。
思えば去年の上杉も、ひたすら淡々と投げていた。同じ大阪光陰相手に。
マスコミ席もざわめきだす。
まさか、とは思う。
だがもしも白富東が一点でも取れれば。
「そういや延長になったらどうなるんだ? 12回までは公式記録になるけど、タイブレークは?」
カタカタとパソコンのキーを叩いて、記者たちは確認しだした。
「タイブレークの試合で完全試合は認められないってさ。ノーヒットノーランになる」
「いやでも、12回までに決まれば完全試合だろ?」
「そうだけど……そもそも今の佐藤の投球数ってどんだけだ?」
ベンチの中が静かになってきた。
「お~い、何か喋ってもいいんだぞ」
直史は言うが、なかなか言葉を口にする者はいない。セイバーでさえも、この正体不明の重力を感じている。
「……兄ちゃん、マジで狙ってる?」
武史がようやく口を開いたが、呼びかけ方が昔に戻っている。
「狙ってない。点を取られないことが第一で、それ以外はどうでもいい」
点を取られないために一番確実なのが、パーフェクトに抑えるということなだけだ。
実際にゴロやフライは打たれているので、エラーや内野安打でパーフェクトが途切れてもおかしくはなかった。
「つかそろそろ打ってやりたいんだけどな」
そう言う大介は良い当たりこそあるのだが得点につながっていない。
不思議なものだがパーフェクトに抑えられた福島より、加藤の方が打ち崩すのが難しく感じる。
実際に球種のバリエーションが多いので、そのせいもあるだろう。
この投球がどこまで続けられるのか。
直史はバナナを一本食べて、七回の自軍の攻撃を見つめる。
三振に取られることなく粘っていくが、やはり連打で点を取るのは難しい。
ここまでの試合の流れを見て、直史は口にこそ出さないものの、打順の失敗に気付いていた。
一番に大介というのは間違っている。するとすれば、二番に大介であった。
アレクがランナーに出ていても、大阪光陰バッテリーは必死でジンでワンナウトを取ってくる。
すると大介が歩かされて、ワンナウト一二塁になるのだ。ここで武史が進塁打を打てても、二死となる。
一死ならタッチアップやホームイン出来るゴロを鬼塚が打っても、先にスリーアウトになる。
だがそれも、12回までだ。
タイブレークになれば、無死一二塁の状況から始まる。
そこで大介を敬遠したとしたら、無死満塁。
そしてその場合は、三塁のランナーはアレクになる。
ここでわざと一塁か二塁、特に一塁のランナーがアウトになれば、一死で二三塁にランナーがいる状況になる。
武史がゴロを打てれば、アレクの足なら帰ってこられる。そして大阪光陰はゲッツーが取れない。
タイブレークで大介が先頭打者になれば、勝てる。
まあそれまでに、どこかで点数が入る可能性の方が高いが。
「少しだけ、雨が強くなってきたかな?」
「もっかいグランド整備入るか?」
ざわめきの中で、直史は思考する。
体力は全く問題ない。相手がスルー以外を早めに打ってきてくれるからだ。
肩や肘もだ。変化球主体だが、この夏はここまであまり投げていないので、そもそも疲労が溜まっていない。
問題は指先だ。
割とスルーを投げている。決め球として以外に、見せ球としても。
だが大丈夫だ。しっかりとした痛みがある。
痛いのは生きてる証拠である。
七回の表の攻撃が終わり、直史はその裏のマウンドに立つ。
先頭打者は堀。また面倒なバッターではある。
とにかく球数を放らせようとしているのだろうが、それならそれでやりようはある。
打たれても単打程度にしかならない変化球でカウントを稼ぐ。あとは最後の空振りを取るだけだ。
ここで直史からサインを出した。
ジンは一瞬だけ戸惑ったが、ミットを鳴らす。
出し惜しみはなしだ。
三球勝負を覚悟している堀の視線の先で、直史は大きく背中を見せるフォームを見せた。
(――な!?)
回転する体から、しなるように投げられたストレート。
カットしようとした堀のバットをかすり、それはジンのミットに収まった。
球速は本日最速、そして自己最速タイの139kmであった。
「おい! 佐藤が公式戦でトルネードなんて使った記録あるか!?」
一方の大阪光陰ベンチは大騒ぎである。
「ありません! 練習試合で見たとき、公式戦の記録も分かる限りは遡りましたから!」
実は一年時の春の大会で使っているのだが、そこまでは大阪光陰もデータを持っていなかった。
それにあの時のトルネードは、サイドスローだったのだ。
小寺に、とにかく粘れとサインを出す。
しかし彼は、トルネードから投じられたチェンジアップを引っ掛けてしまい、初球でピッチャーゴロに倒れた。
球場がまた異常な盛り上がりを見せている。
それまではある意味、静かであった。拮抗した試合に、大記録がかかった投球。
しかしその微妙な均衡を、直史が崩した。
ノーモ
最初は誰が言ったのか。
だがこれもまた、誰か一人が呟けば、年配のファン全員に伝わっていく。
ノーモ
ノーモ ノーモ
ノーモ! ノーモ! ノーモ!
日本野球史上には、多くの偉大な選手が存在する。
しかし最も挑戦した選手と言えば、野茂英雄を挙げるのが最適であろう。
当時はありえなかった、日本最高のピッチャーのMLB挑戦。
球団を裏切ったとも、日本を捨てたとも、散々に言われた。
近鉄時代の十分の一以下での年俸でも、彼は挑戦したのだ。金ではないと言って。
そして成し遂げた。
打席に入った後藤は、この異常な雰囲気に気圧されていた。
甲子園。子供の頃から夢見て、高校入学時には手の先に見えていた。
そしてここで打った。試合を決める、決定的な一打を。
真田と共に、大阪光陰の栄光は自分たちが支える。甲子園は俺たちの舞台だ。
違う。
甲子園は恐ろしい場所だ。
口が渇き、耳が遠くなり、バットの振り方が分からなくなる。
反射的に振ったバットの下を、ボールは通り抜けた。
今のはなんだった?
一球目? いや、三球目だ。主審が宣告している。
七回の裏終了。佐藤直史の完全試合、いまだ継続中。
すごい。
言葉が出てこない。
言葉に出せないまま、イリヤは五線譜に己の思いを綴る。
これだ。
あの灼熱の大地の上で、彼女が感じたのは、これだ。いや、これはもっと大きい。
魂を侵食してくるような、熱い激情。
これを一人の人間が演出しているのだ。
八回の表を前にして、瑞希が目元をハンカチで拭っていた。
穏やかで冷静な彼女をして、ここまでの感動を与える。
やはり佐藤直史という人間は、特別だ。
この曲に付ける名前は決まった。
背番号11だ。
兄は凄すぎる。
武史が感じたのは、嫉妬でも劣等感でもなく、ただの憧憬。
兄は試合を支配している。
ここまで単打は許したものの、得点への機会は断ち切ってきた加藤が乱れた。
下位打線を四球で出してしまったのは、この試合で初めてだ。
そして大阪光陰、木下監督が動く。
ピッチャー加藤に代えて、真田。
加藤はライトへ戻り、山内がベンチへ。
この大舞台の、この異常な状況で、まさか一年生の投手をマウンドに送るとは。
自分だったら、絶対にまともに投げられないだろう。
しかし真田は違う。
確かにこの大観衆の大興奮は、彼でさえ経験したことのないものだ。
しかし単なる野球の、ベースボールのレベルでは、同等以上の舞台に立った。
U-15世界大会。
彼は世界一になった投手だ。
だから前の回、直史がトルネード投法を使い、会場が湧き出したころから、肩を作り始めていた。
迎えるバッターは、ラストバッターの佐藤直史。この現象の渦の中心。
こいつをここで抑えれば、また試合の流れは変わる。
まずはカーブから入る。
中学時代は唐竹割りとまで言われた、世界の強打者をことごとく打ち取ってきたこのボール。
しかし高校に入ってすぐに言われた。これだけでは足りないと。
目の前の選手、佐藤直史のカーブの方がすごかったと。
しかし佐藤は自分のカーブが打てない。
屈辱であったが、真田はあっさりと頷いた。
自分ならば、それ以上の球が投げられると信じて。
そして身につけたスライダー、左打者にとってもだが、右打者にとってさえ必殺とも言える変化量とスピード。
これも佐藤には打てない。
そして真っ直ぐだ。
これまた佐藤の、弟の方が150kmを出したが、コンスタントに出せるのと、制球に優れていなければ意味がない。
アウトロー一杯に決まって、三振を取った。
続いて真田は一番のアレクと、二番のジンもあっさりと三振に取る。
「つかあいつも、コントロール無視したら150km投げられるんじゃねえか?」
プロテクターを装備しながらジンは呟く。
真田の球速はここまでのMAXが147kmだ。
だが軽く投げているように見える。それにしても伸びが凄い。
「大介なら二打席あれば打てるだろ。それまでは打たせない」
静かな直史の声に、ジンはまた違った意味でぞっとする。
こいつは、正気か?
今自分が何をやろうとしているのか、分かっているのか?
これが敵なら恐ろしいが……いや、味方の今でも恐ろしく感じるのはなんでだ?
「出来れば残りは全員三振に取りたいけど、無茶はしないからな」
雨が強くなってきた。それでもまだゲームに支障が出るほどではない。
とりあえず、九回の表には大介に回る。
そこで一点でも取れれば、試合は終わりだ。
「さっさと帰って、風呂入ってミーティングだな」
とぼけたように直史は言って、八回のマウンドに向かった。
次話「あなたは成し遂げた」