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アリーの残した奇跡

作者: 蒼井果実

自信がありません。滑稽で気持ちの悪いものになってしまったかもしれません。

 馬車駅から歩いてすぐの聖堂に一基の棺がありました。日差しのあたらない隅にひっそりと置れていて、フタはされずガラスの壁で覆われていました。

 中には美しい女性が横たわっていました。流れるような長いブロンドの髪に淡い紫色の小さな唇。爪に光沢のある細い綺麗な指先からは、彼女が家事など知らない暮らしをしていたことが窺えました。

 名前はアリーといいました。これは手芸屋のお婆さんがつけたもので、本当は何と呼ばれていたのかを聖堂に訪れる人達は知りません。先月亡くなった前任の司祭が三年ほど前にどこからか運んできたのです。赴任してきた新しい司祭も詳しい理由は聞かされていませんでした。

 どういう経緯でこの場所に安置されたのか、街の人々の間では様々な憶測が生まれては消えました。また幼い子供達にはアリーが眠っているように見えていました。当然のことながら、いくら話しかけても決して返事はありません。彼女はただ目を閉じているわけではないのです。大人達はその度に優しく子供達へ諭しました。

 街の人は皆、アリーに対して親切でした。仕立て屋は綺麗な純白のドレスを寄付しました。子供達は花の冠を編みました。初めは気味悪がっていた人達も徐々に警戒を解いていきました。こうして彼女は街に溶け込み、まるで家族や友人のように扱われるようになりました。


         *


 ある日曜の朝の出来事でした。

「すみません。つかぬ事をお伺い致しますが」

 礼拝の後、自室へ帰ろうとした司祭をひとりの青年が呼び止めました。

「なんでしょう?」

「あの隅に置かれた棺の美しい女性は何という方なのでしょうか?」

「美しい女性……ああ、アリーのことですか」

 聖堂内はすでに二人の他は古株の修道女しかいませんでした。司祭は軽く咳払いをして、向けていた目をアリーの方へやりました。

「彼女はアリーと呼ばれていて、この街の人気者だそうですよ」

 司祭も深い事情を知っているわけではないので、詳しい説明はできませんでした。満足できない青年は次に修道女へ尋ねました。

「彼女はいったい誰ですか?」

「さあ、わからないわね」

「じゃあ、どうしてここに安置されているんですか?」

「そんなの彼女を見ればわかるでしょう」

 確かに修道女の言うように、理由ははっきりしていました。

 三年もの間、アリーは街の人々から親しまれ愛され続けてきました。当然、生き物は死ぬと土に返ります。しかし何故か不思議なことに月日が経っても彼女の姿は変わなかったのです。いつまで経っても美しいままでした。

「それにしてもあなた」品定めをするように青年を見て、修道女は言いました「そんな手でケースに触れないでくださいね」

 煙たそうに注意され、ひとり聖堂に取り残された青年はあらためて自分の身なりを気にしました。

「すみません」青年は謝りました。

 礼拝が終わると街の人はそれぞれの日曜日が始まります。酒の話や賭け事、色恋沙汰の話など聖堂を出た瞬間から彼らの意識はまるで変りました。しかし、この街では工場で働く労働者に休日はないのです。

 機械油の臭いが染み付いた服にひび割れた手。青年も遠い田舎から出てきた工場の労働者の一人でした。やはり彼も午後から仕事につかなければなりませんでした。

 頬についた工場の油を拭い、青年は薄汚れた自分の着る服をジッと目つめました。


         *


 それから青年は工場での仕事が終わると毎晩聖堂へ訪れるようになりました。

 どんなに疲れていても、彼はアリーに会いにきました。汚れた顔を洗い、ひげを剃り、聖堂に入るためだけに新しい服も買いました。田舎の家族へ仕送りをしている青年にとって、それはとても大きな出費でした。

 青年は朝食をなくしました。空腹感は疲れきっている彼へ容赦なくムチを打ちました。もともと屈強でなかった体はみるみるうちに痩せ細り、あばら骨が浮き出るほどになってしまいました。

 しかし生活が苦しくなった一方で、青年は以前よりも自分が幸せな毎日を過ごしている気がしていました。親族も友人もいないこの街で、一人きりだった彼に寂しさを受け止めてくれる相手ができたのです。

 椅子に座り、ぼんやりとアリーを眺め、そしてたまにひと言ふた言抱え込んだ気持ちを打ち明けました。それだけで青年は満足でした。


         *


 アリーに出会った日からちょうど一ヶ月が経過した夜のことです。青年は初めて彼女の夢を見ました。

 夢の世界でアリーは生きていました。二本の足でしっかりと大地を蹴り、手をつないで草原の中を駆けていました。そこは青年の生まれ育った故郷の地でした。

「アリー、僕はずっと君と一緒にいたい。一緒にいてくれないだろうか?」

 楽しい時間を過ごした後、青年は勇気を振り絞って尋ねました。そしてまともに顔を見ることができず、ただうつむいて返事を待っていました。

 なかなか答えが返ってきませんでした。一秒が一日のように感じられる瞬間でした。我慢ができなくなり、青年は顔を上げました。

 目の前にアリーの微笑む顔がありました。彼女は小さくうなずいて、風でなびく髪をおさえました。

「ああ、アリー! 本当かい!」

 青年は手をとり、力一杯アリーの体を抱きしめました。

「本当にずっと一緒だ。いつまでも、いつまでも」

 こうして青年は夢から覚めていきました。うららかな春の日の出来事でした。


         *


 夢を見た翌朝、青年は幸せな気持ちで目覚めました。そして早速、落胆が襲いました。現実の生活を考えると溜息が出てしまいます。しかし一方で、アリーの笑顔を思い出すたび胸が一杯になりました。高揚はベッドから出て工場へ向かうまで続いていました。あらためて青年は彼女を想いました。

 工場での仕事が終わった夜、青年は久しぶりに聖堂へは向かわず酒場を訪れました。

「ビールひとつ」青年は注文しました。

 男達の汗と酒の匂いが混ざり合った店内。そこは喧騒と安価な煙草の煙に満ちていました。

 一ヶ月ぶりに飲むお酒は青年を心地よい気分にさせました。本当ならアリーに会いさえすれば、それだけで足りるのです。けれども今夜だけはためらってできませんでした。

「今日幸せな気分で眠れればいい」青年は小さく呟きました「それだけでいいんだ」

 聖堂で眠るアリーは決して笑顔を見せてくれません。それどころか、走ることも歩くことさえないのです。昨夜の夢を大事にしたい青年は彼女の死を避けたのでした。

 二杯目のビールを飲み干したとき、隣に座っていた老人が青年に話しかけてきました。

「おい青年。今日は聖堂に行かんのかい?」

「えっ、それは……どうしてそれを」

 青年が驚いた顔をすると、老人は続けて言いました。

「お前が聖堂の死体に首ったけなのは、街の人間なら誰でも知っている」

 俺はここの人間ではないがな。咳き込むように笑って、老人は強い酒を喉へと流し込みました。

 青年は周囲を気にしました。案の定、店にいた男達は皆こちらを見ていました。老人と同様の反応を示す者もいれば、あからさまに不機嫌そうな顔でこちらを睨みつける者もいました。また薄気味悪そうに見る客も幾人かはいました。

 青年は身を縮め、居心地悪そうに老人へ言いました。

「綺麗な人だから、ただそれで見ているだけです。他に意図はありません」

「ふん。まあどうでもいいことだがな」

 青年の背中へは周囲から好奇の視線が突き刺さっていました。幸い掴み掛られることはなかったけれど、からかう声は確かに耳へと入りました。

 老人は尋ねました。

「でも、どうしてそんな気持ちの悪いことをするんだ? 女なら他に生きている奴が山ほどいるだろう」

 男達の笑い声が店内を満たしました。青年はビールジョッキを握り締めたまま、身動きひとつせずジッと黙ってしました。そして、それからしばらくの間、二人は言葉を交わさずお酒を飲んでいました。

 男達の関心はすぐに他のものへと移っていました。それは街一番の大金持ちである伯爵家についてです。一人娘である令嬢の結婚相手がなかなか見つからないという話でした。彼女の両親はすでに亡くなっていました。噂では隣国の王族からの誘いも断り、ひっそりと人目に触れることなく郊外の屋敷で暮しているそうなのです。

 貴族の令嬢の話など、田舎から上京してきた貧しい若者には全く関係がありません。青年は酒代をカウンターの上に置きました。

 席を立つ際に青年は小声で老人に言いました。

「きっと話し相手が欲しかったんです」

「ん、話し相手だと?」

「ええ。よそ者にとってこの街は……孤独ですから」

 今朝の余韻はすっかり消えて無くなっていました。外は雲ひとつ無い夏の夜空で、いくつもの大きな星が瞬いていました。

「やっぱり聖堂に寄ればよかった」

 こうして青年は酒場を出ました。


         *


 老人が言っていたように死者に恋する青年の噂は気がつけば街中に広まっていました。酒場での弱気は臆病者の烙印を押されてしまうから笑い話で済みました。しかし、他ではそうもいきません。仕事場である工場の中でも、青年はどこか頭のおかしい人間として扱われ始めました。

 絵描きに見えれば、怪しまれないだろうか。そう考えた青年はスケッチブックを持って聖堂へ訪れるようになりました。確かにそれは外目を気にしての行為でしたが、一方で美しいものを描きたいという意思もまた本当でした。

 青年は幼い頃から絵が好きで、とても上手でした。いつかは自分ひとりその世界で暮らしたいとも思っていました。しかし、彼の絵画に対する情熱は自身の優しさを超えるものではありませんでした。田舎で暮らす家族のことを思い、この街へとやって来たのです。だから、決して仕送りだけは欠かしませんでした。

 鉛筆をはしらせながら故郷での毎日を思い出し、青年は薄れかけた記憶をアリーに語りました。時には工場で起きた出来事も話しました。そんな日々は静かに、しかし確実に過ぎ去りました。気がつくと、もう半年が経って季節は冬になっていました。 


         *


 事件は深々と降り積もる雪の夜に起きました。めったに訪れることのない例の酒場に青年が姿を現わしたのです。店内にいた男達は一斉に彼に注目しました。

 青年はカウンター席に座り、一杯のビールを注文しました。

 隣に座っていた老人が、以前と同様に茶化した口調で尋ねました。

「ここ一週間くらい、恋人に会ってないそうじゃないか」

 ようやく目が覚めたのか、と意地悪く言おうとした老人は青年の姿を見て言葉を失いました。

 変わりに酒場の主人がビールを出して尋ねました。

「いったいその腕、どうしたんだい?」

 青年の右腕には何重もの分厚い包帯が巻かれていました。血の滲んだ跡があり、決して軽いものではないようでした。

「工場の機械に巻き込まれてしまって」青年は呟くように言いました。「動かなくなってしまったんです」

 利き腕が使えなくなったために工場を解雇されてしまったこと。その為に故郷へ帰ることを青年は話しました。

 いつの間にか、店内はシンと静まり返っていました。かつて青年に奇異の視線を向け、またはからかい笑っていた男達も今回は何も言いませんでした。かける言葉が見つからなかったのです。

 そんな中、老人がポツリと青年に言いました。

「この街を出て行く前にもう一度、恋人のもとに行ってみたらどうだ」

 今夜、十二時ちょうどに聖堂へ行け。そう告げてすぐ、老人は酒場を出て行きました。

 青年は店主に尋ねました。

「あの老人はどんな方なのですか?」

「うーん、若い頃は職人だったらしいけどね、人形作りの。今は何をしてるのやら」

 この街の人間では無いのでわからないと、店主は首を傾げて言いました。ツケもせず、泥酔することもない良い客のようです。その話を聞いて店の男達は背中を丸めました。


 迷った末、青年は言われた通り聖堂へとやって来ました。

 中には誰の姿もありませんでした。この時間では司祭も修道女も眠っているはず。それなのに何故か暖かく、ロウソクの炎が灯されていました。

「おや?」青年は呟きました。

 なぜかいつもは片隅にあるアリーの棺がこの日は教壇の前に置かれていました。それだけではありません。何か他にも違和感のようなものを覚えました。

「あっ、ケースが無い」

 棺の前までやって来て、はじめて青年はアリーを覆う硝子が消えていることに気がつきました。どうやら何者かに取り除かれたようです。

「いったい誰がこんなを」

 泥棒の仕業かと青年は考えました。しかし棺に物色をされた形跡はありませんでした。変わらずにアリーは安らかな顔で横たわっていました。毎週取り替えられる花のブーケも装飾品もそのままでした。青年の動揺はすぐに収まりました。

「お久しぶりです」落ち着いてから青年は話しかけました。「一週間ぶりでしょうか」

 無意識のうちに怪我をした右手を隠していました。しかし嘘はつけません。青年は小さく溜息をついて、それをアリーに見せました。

「実は事故で手と腕を傷めてしまいました」

 お前はもう来なくていい。解雇された日、工場長から言われた言葉を青年は思い出しました。それから田舎で仕送りを待つ家族の顔が目に浮かびました。年老いた父にもとから体の弱い母、それから二つ下の妹はジェシカといいました。もう彼らにお金を送ることはできないのです。

 込み上げてくるものを抑え、青年は疲れきった顔で無理にアリーへ微笑みかけました。

「もう僕の体には一ポンドの価値も無いようです。この街では働かせてもらえなくなってしまいました」

 それにあなたを描くこともできない。次の言葉を伝える前に、青年は目を閉じました。

「だから明日、田舎へ帰ります」

 しばらくして青年がまぶたを開けると、不思議なことが起きていました。

 アリーが泣いていました。閉じられた二つの目から透明な雫が頬を伝って流れていました。死んでいるはずの彼女が涙を流したのです。

 青年は嬉しく思ったものの、それほど大きくは驚きませんでした。これからの待ち受ける生活に比べて、突然舞い降りた奇跡はあまりにもささやかで小さな出来事に感じました。ボロボロになった彼の肉体と心は疲労と絶望で潤いを失っていたのです。

 教壇から最前列の座席に腰掛け、青年は何をするでもなくアリーの入った棺を眺めていました。見つめていれば彼女が生き返るのではないかと考えたのです。幼い子供がするような願いでした。

 時間だけが流れていきました。明るく暖かな聖堂内は瞳を閉じても穏やかな気持ちでいさせました。遠くから犬の鳴き声が聴こえました。機械音の無い静かな空間、柔らかな空気に包まれて、青年は明日からのことを忘れ、小さな幸せを感じました。

 いずれ聖堂の中は冷えるだろう。それでもこうしていたい。アリーと一緒にいられるならば死んでも構わない。そして、かつて彼女にも訪れた死がこのように穏やかであって欲しい。青年は薄れていく意識の中でそう思い願いました。

 壁際にあるロウソクの炎が外からの風でひとつ揺れてから消えました。


         *


 夢か現か、青年はやけに明るく白いもやの中で女性の声を聞きました。

「私の父はあなたが持つ情熱ほど母を愛してはくれませんでした」

 遠い昔の話です、という付け足しが後から青年の耳へと届きました。

 言葉は続きました。

「豪商の家に育ち、お金に不自由をしなかった父は唯一手にしていない名声を欲しがりました。伯爵家の母に近づいたのはそのためでした」

 愛の無い結婚、それも一方だけ、と女性はそう言いました。

「爵位の他は何も求めなかった父は私が生まれるとすぐに幾人もの女性を愛するようになりました。そしてその追求が疎ましく思えてくると、従者に命じて母を殺害したのです」

 その後、しばらく次の言葉が有りませんでした。青年は急かさずにジッと待ちました。

「父は母の命を奪ってすぐ病に倒れ、そのまま亡くなりました。彼は妻を殺した罪人です。でもそれと同時に私にとっては優しい父親でした。本当に良い父親だったのです」

「恨んではいないのですね?」

 返事はありませんでした。それでも青年は女性がうなずいたように感じました。きっと苦しんでいるのだと察しました。

「私は人を信じることが怖いのです。いいえ、むしろ愛を失うことが耐え難いのかもしれません」

「私は」青年は思わず自分の感情を口に出しました。「私は決して裏切りません。あなたを」

 熱で青年の頭の中が真っ白になりました。どうにかしなければという意思が勝手に口を動かし、女性に語りました。

「あなたは私の支えとなってくれました。あなたは孤独だった私の心を守り、暗い工場の作業場から私の精神を救い出してくれました。だから私は、私はあなたの役に立ちたい」

 青年はハッと驚きました。声に出して初めて、自分が誰と話していたのかを知ったのです。

「アリーさん、私はあなたに」

 興奮したせいか、ぼんやりとした曖昧な世界は急速に縮小していきました。

「アリーさん、私はあなたのことが……あなたのお名前は本当は何というのですか?」

 最後に女性の声が耳に届いたものの、あまりにも不明瞭で青年はそれを聞き取ることができませんでした。こうして意識はレンズの焦点をぶらしたように遠退いていき、そしてまたすぐに戻りました。


         *


 目を開けると、そこにはまた白いもやのような波の模様がありました。

 まだ夢の中なのか。青年はそう思いながら、ゆっくりと焦点を対象にあわせていきました。白い波はどうやらドレスの生地でした。どうやら青年自身は長椅子で横になり寝ていたらしく、足の先には女性が座っていました。

「あ、あなたは」青年は呟きました。

 女性は青年の描いたスケッチブックを膝に乗せ、一枚一枚を丁寧に眺めていました。花のブーケは取られていました。呼びかけられて、彼女はこちらを見ました。

「こんにちは」女性は笑顔で言いました。

 信じられない光景。有るはずの無い現象が青年から言葉を失わせました。

「あ、待って!」女性の声が青年の背中に届きました。

 椅子から転げ落ちた青年は振り返ることもせず、一目散に駆け出しました。突然のことでわけがわからず、ただ二本の足を交互に前へと出しました。

 聖堂の外はまだ夜でした。新雪が地面を覆い、刺すような冷たい空気が風のない街を覆っていました。

 立ち止まってはいられない。青年は夜の街に足跡を残しました。


         *


 聖堂から逃げ出した翌日、青年はいつものように部屋のベッドで目覚めました。窓からの日差しはもう昼のものとなっていて、凛とした清々しさを失った半面、やわらかな暖かみを帯びていました。

 夕方までには部屋から出て行かなければなりませんでした。この街路地から朝の空気を感じることが無いと思うと、青年は少しだけ残念で名残惜しい気がしました。

「夢を見ていたのだろうか」青年はモゴモゴと呟いてみました。

 ひょっとしたら、この一週間に起きた全てが長い夢の一部で、本当はまだ腕も怪我をせず毛布に包まって寝ているのかもしれない。あるいはこの街にやって来たこと自体が夢で、現実にはまだ田舎で暮らしているのかもしれない。人参にジャガイモのスープ、硬いパン。このまま夢に埋もれてしまいたいと思うほど、儚い希望が次々と頭の中に生まれては消えていきました。

「いっ!」

 労働者であった昨日までは味わうことのできなかった甘いひと時。それでもしっかりと現実を指し示すものはありました。寝返りを打った際に、壊れた右腕がズキズキと痛むのです。現実は一週間前でもなければ、田舎の生活でもありませんでした。青年は上体を起こし、血で汚れた包帯を見つめて深い溜息を吐きました。

「ならば、どこまでが夢だったのだろう」

 死んだはずの人間が甦る。青年は昨夜の出来事が未だに信じられず、幻のように思えてなりませんでした。

「でも、確かに願った。言葉を交わし、互いの気持ちが通じ合えるという奇跡を私は望んでいた。彼女の、アリーの復活を祈ったんだ。ただ……」

 ただ怖かった。あまりにも唐突で、心の準備ができていなかった。

 いったい何を恐れていたのかと思い返せば、それは一つしか考えられませんでした。

「なんて酷い人間なんだ。私は、最低だ」

 アリーを残して逃げ出したことは、それだけの意味ではなく、きっと彼女の心までも深く傷付けたでしょう。自分は与えられた奇跡に怯え、大切なはずの女性を裏切ったのです。青年は情けなく、そしてアリーに申し訳なく思いました。そして想像するたび、胸が引き裂かれるように痛みました。

 最後にもう一度話がしたい、そして今の気持ちを包み隠さず伝えたい。

 青年はこのまま田舎へと帰ることができませんでした。少ない私物をカバン一つに詰め込み、故郷を発った日と同様に父がくれたジャケットに袖を通しました。こうして荷造りを済ませた青年は聖堂へ向かいました。


 聖堂の中はまだ多くの人達が残っていて、どうやら休日の礼拝が終わったばかりのようでした。

 青年は外へと出る人を避けながら、教壇の前へとやって来ました。

「あら、遅かったのね」修道女は青年に向かって言いました。「こんな大切な日だったのに」

 何を言っているのだかわからず、青年はアリーの入った棺を目で探していました。しかし、いつも置かれていた場所にも、どこにもありませんでした。

「そうだ。甦ったのだから棺は必要ないんだ」

 青年はブツブツとそう言って、次に人の中からアリーの姿を探し出そうとしました。

 修道女は尋ねました。

「どうしたの?」

「ええ、アリーを探してるんです。彼女はどこにいるのでしょうか?」

 すると修道女は煙たそうに眉をしかめて言いました。

「だから残念だろうけど、あなたは間に合わなかったのよ」

「え?」

「司祭様がいつまでもこうしておくのは安らかに眠れないだろうとおっしゃってね」

 さっき、街の人全員で彼女とお別れしたのよ。修道女ははっきりと青年に伝えました。

 アリーは聖堂裏の墓地に埋められた。そして今その式がちょうど終わったところだ。二つのことを聞かされて、青年はカバンを床に落としました。

「そんな! 彼女は生きてるんですよ!」青年は大声で叫びました。

 埋めたなど到底信じられませんでした。なにしろ昨日の夜、青年は生きたアリーの姿を見ていたのです。彼女は椅子に座り、確かにスケッチブックの絵を眺めていました。

「絶対に死んでいない。昨夜、アリーは生き返ったんです。それを生き埋めにするなんて」

「もう諦めなさい」

「でも!」

 そのとき、修道女の強い眼差しを受けて興奮していた青年は落ち着きを取り戻しました。

 気がつけば、残っていた街の人達が青年ことを見ていました。おそらく心を病んでしまったのだと思われたのでしょう。もはや誰も声をかけようとはしませんでした。

 青年はめげずに言いました。

「本当に生きている彼女を見たんです」

 わかったから、もう諦めなさい。それが修道女の答えでした。

 その日の礼拝は終わり、街の人はそれぞれのいるべき場所へと帰って行きました。司祭も修道女も聖堂を後にしました。ひとり残された青年は棺の置かれていた隅を呆然と見つめていました。もしかしたら、と期待したのです。しかし何も起こりませんでした。

 夕方になり、青年は聖堂を後にしました。


 夜になって馬車に乗れず、青年は行く当てもなく街を歩いていました。

 陽気な男達の歌や自慢話などが酒場から漏れ聞こえます。満月で明るいせいか、家の外に出ている人も少なくはありませんでした。

「夢じゃなかった」青年は呟きました。

 もしかしたら自分が彼女を殺したのではないか。もしもあのまま大人しくしていれば、埋葬などされなかったのではないか。あるいは自分にもう少し勇気があれば……

 昨夜見たアリーの姿が鮮明に思い出されるたび、青年は逃げ出したことを酷く後悔し、同時に傷付いていきました。


 さらに夜が深まり、街に誰もいなくなった頃、青年は動き出しました。

 シャベルを左手に持ち、夜の墓地を歩きました。ホォホォと、どこからかフクロウの鳴き声が聞こえます。やけに満月が大きく明るく見えました。静かで冷たい場所。そこは昼間来るときとはまるで別世界でした。

「アリーさん、今助けてあげますから」

 もう絶対に逃げたりなどしない。青年は心に湧く恐怖をアリーへの想い一念で堪えました。

「あった」

 アリーと書かれた墓標がありました。暗くて色はわからないものの、磨耗してない様子から新しいことがわかりました。盛り上がった土からも間違い無いと青年は確信しました。彼女はここに埋められているのです。

 シャベルを突き刺し、土を掘り返しました。ひと気のない満月の夜でした。ザック、ザックと雪の混じった音が妙に耳へと残りました。墓を荒らす自分の姿を想像すると、青年は恐ろしくなりました。

 コツンと軽い音がして、しばらく掘り進めると棺の一部が現われました。青年は丁寧に残りの土を取り除き、ゆっくりとフタを開けました。


 青年は息を呑みました。


 まぎれもなくそこにいたのはアリーでした。湿った土の中にいても彼女の美しさに変わりはありませんでした。白いドレスに花の冠、そして見慣れた顔がそこにありました。不安だった青年の表情がほころびました。

 早速、青年は呼びかけました。

「アリー、アリーさん。起きてください」

 昨日の夜、確かにアリーは生きていました。棺から出て青年の隣に座っていたのです。背を向けたときも彼女の声を聞きました。

 絶対に動くはず。だから今度は怖気づかないようにしようと、青年は心に誓いました。

「アリーさん起きてください。私です。あなたを迎えに来たんです」

 しかし、いくら話しかけてもアリーは動きませんでした。何度名前を呼んでみても、ピクリとも反応を示しませんでした。呼吸をしていませんでした。肌も血色が悪く、青白いままでした。

 ただ眠っているだけのように考えていました。そして動き出すことが当たり前だと思っていました。いつの間にか奇跡を軽くみて、青年は死んだ人間は二度と生き返らないという常識を無くしていたのです。

「起きてください。アリーさん」

 徐々に自信が薄れていき、青年の心に絶望の色が濃くなっていきました。やはり自分があのときに逃げ出しさえしなければ……。悔やめば悔やむほど、保身に懸命だった自分を呪いたくなりました。

「お願いです。起きてください。どうかもう一度、奇跡を私にください。決して粗末には扱いませんから」

 願う言葉が夜の墓場をむなしく漂いました。いくら祈っても事態は何も変わりませんでした。夜が深まっていき、いっそう寒さは増していきました。

 なおも動かないアリーを見て、待ちきれなくなった青年はおもわず手を握りました。彼女に触れたのはそれが初めてでした。

「これは」青年は目を丸くしました。

 何度か使ったことのある石鹸のような硬い感触。初めは死体だから人肌のようにはいかないと考えました。しかし確かめていくにつれて真実が浮かび上がり、どうにも否定できなくなってしまいました。

 青年は脱力し、ガックリと肩を落としました。朽ちるはずがありません。アリーはロウ人形だったのです。

「そんな、そんな!」

 自分は人形に惹かれ、愛していたのだ。死体に恋するよりもなお滑稽な話だ。酒場に集う男達の良い酒の肴だろう。いったい誰がこんな悪戯を考えたんだ。

 しかし、怒りの炎はそれほど大きくは燃え上がりませんでした。むしろ悲しい気持ちで一杯でした。失うものが多かったこの街の生活で、唯一の宝物さえもくすんでしまったのです。出会った日から半年間の出来事、アリーと交わした毎日の会話が次々と青年の中で思い出されては消えていきました。

 どれくらいの時が経ったのでしょう。呆然として、青年はアリーの手を見つめていました。どう疑っても、触れなければ本物にしか思えませんでした。完全に心を奪われてしまっていました。きっと昨日の出来事も全て幻だったのです。そう思うと、とても虚しく思えました。

 そんなときでした。

「泣いて……いるのか?」

 青年は気がつきました。閉じられたロウ人形の瞳から涙がこぼれていたのです。硝子のように透明な雫は目尻を伝い、耳へとかかっていました。アリーが泣いていたのです。

 青年はロウでできたアリーの体を抱き起こし、彼女に問いかけました。

「どうして泣いているんだ?」

 返事はありませんでした。それでも青年はかまわず続けました。

「もしかしてアリー、君はロウでできた自分の身を悲しんでいるのか?」

 大粒の涙があふれ、アリーを抱えた青年の左腕に落ちました。それが答えになりました。

「ああ、アリー!」青年はアリーを抱きしめて言いました。「僕の気持ちは伝わっていたんだ! 決して無駄ではなかった! とても嬉しいよ!」

 自分の想いが届いていた、そしてアリーが受け止めてくれたことに青年は喜びました。依然としてアリーの体は動きませんでした。それでも充分過ぎるほど、孤独だった彼の心は満たされた気持ちになりました。

「誰だ、そこにいるのは!」遠くから声がしました。「墓泥棒だ! 墓泥棒が出たぞ!」

 揺れるランタンの灯が青年の目に映りました。墓守に気付かれたのです。

 心のあるアリーを土の中にはいさせられない。そう考えた青年は彼女を背負い、棺を埋めた穴から這い上がりました。

 青年は真夜中の墓場を走りました。振り返るたびランタンの明かりは近くなっている気がしました。それでも諦めずに逃げ続けました。


 馬車が通れるほどの一本道へと出たとき、追っ手が見えないことを確認してから青年は立ち止まって息を整えました。

 もう戻れない、と青年は思いました。街の人々は彼がアリーに熱を上げていたことを知っているからです。

 きっと墓守は街の男達を連れて探しにくるでしょう。だから、できるだけ遠くへ逃げなければなりませんでした。青年は歩き出しました。

 アリーにはそれなりの重さがありました。節々がダランと垂れ下がっていて運びづらく、右腕を怪我している青年は苦労しました。

 道の両脇には雪原が広がっていました。風が流れ、サワサワと林の枝葉が擦れた音が聞こえました。輝くような満月の明かりが青年とアリーの二人にかかりました。

「昔、祖母をこうやって山向こうの医者まで運んでいました」

 青年は死んだ祖母のことを思い出しました。


 しばらく歩いていくと、目の前に森が現われました。

 木々の葉が幾重にも重なって暗く、中の様子を窺い知ることはできませんでした。夜の森へ明かりも持たずに入ったらどうなるかはわかりません。迷って出られなくなることも、また獣に襲われる危険も考えられました。しかし一方で、追っ手が馬を使っていることも青年には予想できました。

 きっとまわり道をしていては、見つかって捕らえられてしまう。そうなれば、アリーは再び墓の中へと入れられてしまうに違いない。

 青年はアリーを背負って森の中へと進んでいきました。

 月明かりも届かない漆黒の世界は死への入り口のように思えました。時折りカサカサと動物の動く気配を感じました。煌々と光る目も幾つも見えました。どうかリスや狐であって欲しい。青年は左手を前に伸ばして、探りをいれながら歩きました。

「怖くない。大丈夫」

 この森を抜ければ追っ手も来ないはずだ、と自分にも言い聞かせるように、青年はアリーを勇気付けました。

 何度も転び、また木にぶつかりました。危険を承知で急いで歩いているために、手や体は打ち身や切り傷などでボロボロになっていました。それでもいくらか時間が経つと目が慣れてきて、ぼんやりとそれなりに見えるようになってきました。

 大木の下へとやって来たときです。青年の歩く先に二つの光る目が現われました。

 小動物だと思い、青年は歩くのをやめませんでした。しかしその目はいっこうにその場から動きませんでした。こちらを避ける気が無いようでした。

 リスや狐とは大きさもその間隔も違う鋭い目でした。さらに近づくと、耳にウウゥというやや低い唸り声が聞こえました。青年は野犬かもしくは狼だと確信しました。

「来るならこい!」青年は威嚇するように大声で言いました。「こちらは一歩も引かないからな!」

 獣はさがりませんでした。一歩また一歩と前に出て、ジワリジワリとこちらへ距離を詰めてきました。

 アリーをどうしよう。そう青年が後ろを気にした一瞬でした。獣は地面を蹴り、一気に飛び出してきたのです。鋭い牙をむき出し、襲い掛かってきました。

 パーン。殺されると思った直前、けたたましい銃声が森の中で鳴り響きました。鳥やその他の生き物が一斉に逃げ出しました。気がつくと、二つの鋭い目もいなくなっていました。青年は辺りを見まわしました。

「あっ、あなたは」青年は驚いて声を上げました。

 青年を助けたのは酒場で話した老人でした。聞けば、この森は街でも有名な伯爵家の領地で、そこに彼は仕えているとのことでした。

「それにしても」猟銃を肩に掛け、ランタンを片手に老人は言いました。「盗人がお前だったとはな」

 墓荒らしのことを聞いて森を探していたのだと老人は話しました。

 青年は尋ねました。

「僕は役人に突き出されるのですか?」

「そのつもりは無い」

「じゃあアリーを、彼女を墓の中へと戻すつもりですか?」

「彼女?」

 前を行く老人は怪訝そうな顔で振り返り、なるほどと納得したように頷いてから再び歩き始めました。

「そいつのことか。そうだな。どうしてくれようか」

「お願いします! 彼女は生きてるんです! だからどうか――」

「ああ、わかったわかった。とりあえずご主人様に報告しなければ。話はそれからだ」

 老人は森の中を軽快に進んでいきました。その一方の青年は付いていくべきか迷っていました。

 もしかしたらこの老人はアリーを街の人達に引き渡してしまうかもしれない。しかし、逃げ出したとしてもすぐにまた捕まってしまうだろう。ここは助力を求めた方がアリーを救えるのではないか。

 結局、青年は老人の言葉に従いました。


 森に囲まれたその中に、大きな屋敷はありました。そして老人の住まいは近くに建てられた古い小屋でした。

 小屋に入った青年はランプの明かりを灯す老人に頼みました。

「私のことはどうなっても構いません。だからアリーのことはどうか助けてください」

 すると、老人が疲れたような溜息を吐きました。

「そんなガラクタ、誰も連れ戻したいとは思わないだろうさ」

「ガラクタ?」

「そうだ。そんなの埋めようが焼こうが、誰も興味を示さない」

 初めて青年はアリーの悪口を耳にしました。街の人達は皆、彼女のことを大事にしていると思っていました。それだけに老人の言葉は意外でした。

 青年はアリーを庇うように言いました。

「アリーは決してガラクタではありません。確かに死んでいますが、綺麗な心を持った女性です」

「わかったわかった。お前はガラクタをそう思っているんだろう。俺にとってはゴミと変わらないが、お前には宝石に見えるようだ」

 老人が故意にアリーを罵っているのだと青年は察しました。彼女へ向けられた醜い言葉が胸を痛めました。

「汚く見えるのはあなただけです。街の人達は皆、彼女を愛していました」

 青年は憤りを抑えきれず、言い返しました。

「なぜ、そんな言葉を口にするんですか?」

「ゴミをゴミと言ってどこが悪い」

「あなたは、あなたという人はどうして死人にそんな酷いことを言えるんですか!」

「嘘で塗り固められた人形だからだ!」

 シンと小屋の中が静まり返りました。

 そうだ。街の人にアリーが人形であることを知ってしまったらどうなるのだろう。もし奇跡が嘘であるとわかったら……。この老人と同じように激怒するのではないだろうか。

 このとき初めて、別の可能性が青年の頭を過ぎりました。

「それに背負っている物をよく見ろ」老人は言いました。

 青年は言われたとおりアリーを床に降ろして、あらためて見ました

「そ、そんな」青年は言葉を失いました。

 白いドレスはいつの間にか泥で汚れてしまっていました。花の冠も落ちて無くなっていました。綺麗な肌も傷だらけになり、髪の部分も剥がれて取れかかっていました。もはや誰が見ても作り物にしか見えなくなっていました。永遠のはずだった美しさはどこにもありませんでした。

「ごめん……なさい」

 搾り出すようにして、青年はようやく一言発しました。

 アリーの体は左腕と右足がどこかでとれしまっていました。転んだせいもあります。また茂みの中を掻き分けた際になったのかもしれません。全て逃げることに必死だったからでした。

 落ち込んでドレスについた泥を拭う青年に老人は観念して告白しました。

「それを作ったのは俺だ」

「……え?」

「四年前ある方の為に作った。大勢の人間を欺くことを知りつつやってしまった」

 憎らしそうにアリーを睨みつける老人に青年は尋ねました。

「あなたなら、アリーを元通りに直すことが出来るのではありませんか?」

 老人は考えた末、無言でうなずきました。

「では、お願いします! どうか彼女を助けてください!」

 するとわかったと答え、老人は青年に小屋の外で暖をとって待つよう言いました。

 老人は一度屋敷に入り、大きな鍋と補修用なのか、いくらかのロウソクを抱えて出てきました。腕と足が一本ずつ無いのです。大手術になることは容易に想像がつきました。

「どうかお助けください。私にとってアリーは大切な存在なのです」

 焚き火をおこした青年は小屋に入る老人を祈りながら見つめていました。出来ることはそれくらいしか残されていませんでした。


 いくらか枝をくべて、揺れる炎を眺めていたときでした。思っていたよりもずっと早く老人が青年を呼んだのです。

「どうです? アリーは直りましたか?」

 小屋に入った青年は少し興奮気味にアリーの姿を探しました。

「お前の探しているアリーはこれだ」老人は指差して言いました。「こうなった」

 テーブルの上には一本の太い大きなロウソクが置かれていました。やや赤みがかった色で、混ざりきっていないのか白い部分のところも残っていました。

「アリー? これが彼女?」

 青年は何がどうなったのか即座に把握することができませんでした。頭の中が真っ白になっていました。

「俺はあの人形を作ったことを後悔していた。許せなかったんだ」

「あ、アリ……アリィ!」

「アリーは死んだ。もう戻ってこない。だからお前も忘れろ」

「冗談じゃない!」

 青年は老人に掴みかかりました。

「街の人達からとても大事にされていたんだ! 皆から愛されていたんだ!」

「だから許せなかった。自分の罪が消えて欲しいと俺は願っていた」

「ふざけるな!」

 突き飛ばされ、老人は床に転びました。

 青年は馬乗りになって、なおも老人の襟首を掴みかかりました。

「とても優しい、とても素敵な女性だった。だから愛していたんだ。愛していたんだ!」

「アリーは作り物だ」

「うるさい!」

「人間じゃないんだ。だから彼女に心は無い。いい加減、目を覚ませ!」

 ゴツン。青年は頭にきて老人の顔を左手で殴りました。

「直せ! 彼女を作り直せ! いますぐ元に戻すんだ!」

「それは出来ないと言っているだろう!」 

 老人は大声で怒鳴りました。

「憎いなら俺を殺すがいい。だが絶対に作る気はないぞ!」

 老人の意志は固いものでした。もう二度とアリーが元に戻ることは無い。青年はそうわかりました。

 青年は立ち上がり、あらためてテーブルの上に置かれたロウソクに目をやりました。

「アリー」青年は震え掠れる声で呼びかけました。「守りたかった。ただ君を守りたかっただけなんだ」

 それが叶わなかった。結局はアリーの安全を奪い、ただのロウソクへと変えたのは自分なのだ。とても償いきれない。

 青年はまだ温かいロウソクに触れ、左手で抱えたまま小屋を出ました。


 この半年はいったい自分にとって何だったのか。どうして右腕が使えなくなったのか。そしてロウソクになったアリーのこと。消えそうな焚き火を前にして、青年は涙を流し考え事に耽っていました。

 そんなときでした。憶えのある女性の声が耳に入りました。

「ごめんなさい。どうか私を許してください」

 声のした方に目をやった青年は驚いて固まりました。なんと、そこにはアリーが立っていたのです。

 全てをお話ししますと言い、アリーは語り始めました。

「私の父は母を殺し、自らも病に倒れました。一人残された私はある日、父の日記からその事実を知りました」

 その日を境に、心に傷を負った彼女は人と接することをためらうようになりました。人を信じるのが怖いのです。何年も経ち、年頃になってもそれは直りませんでした。彼女は気のおける幼い頃からの側近達とだけ会話を交わし、毎日を送っていました。

 伯爵夫人である彼女には名誉と際限のないお金がありました。しかしそれらは羨ましがられるだけの物。決して膨れ上がった孤独を紛らわせてはくれませんでした。

 彼女は無理とは知りつつも、爵位や資産ではない自分を見てくれる誰かの存在を欲していました。ためらう一方で、他人と接することを望んでいたのです。その思いは日増しに大きくなっていきました。

 幼い頃から仕えていた老人は孤独な主を常々不憫に思っていました。そして悩んだ末に、若かりし頃ロウ人形の細工師だった彼は主に似せた死体をこしらえたのです。

 先代の司祭と修道女には事情を話し、協力を得て聖堂に棺を置きました。街の人達は時間をかけてロウ人形を受け入れ、大事にしてくれました。その様子を影から見て、彼女は孤独を紛らわせていたのでした。

「あなたは私にたくさんのことを話してくれました」

 毎日仕事が終わる夜遅くに訪れ、その日の出来事を語る青年は彼女にとって特別な存在となりました。青年自身もまた孤独を背負っていました。倒れそうになりながらも歯を食いしばって生きていました。そんな青年の姿から彼女はたくさんのものを貰いました。

「事故の後、あなたは聖堂へ来なくなりました。そして昨夜、私は怪我のことを知って、それで……」

 本当のことを話そうと考えたのでした。

「しかし、私はそうと知らずに逃げてしまいました」

 事のてん末を把握した青年はそれでもなお確認をするために尋ねました。

「アリーは……あなただったのですね?」

 はい、という言葉が返ってきました。青年はあらためて赤いロウソクに目を向けました。

「ごめんなさい」

「いいえ、気になさらないで下さい。勘違いをした私が悪いのですから」

 無理に笑ってはいたものの、青年の顔からは血の気が引いて青ざめていました。

「そうですか。そうですよね」

 よくよく冷静になって考えてみれば、ロウ人形が勝手に動き出すなど有り得るはずがない。信じていた奇跡は幻だったのだ。自分が墓場から掘り出して、ここまで運んできた物は、何の変哲も無いただのロウの塊だったのだ。そこに愛情など存在するはずが無い。

 理性が淡々と現実を諭す一方で大きな喪失感が青年を襲い、彼の心を傷付けました。

 消えそうな焚き火に老人は枯れ枝を足しました。そして申し訳なさそうに青年と彼の腕の中にある赤いロウソクを眺めました。

 老人はすまないと謝った後で、溜息混じりに語りました。

「私は怖くなった。人を欺くということがこれほどまで重い罪だとは、この歳になるまでわからなかったんだ」

 老人はかつて有名な人形職人でした。父親から技法を教わり、また独学で研究も重ねました。彼は熱心で才能もあり、なによりも人形を愛していました。

 借金のカタに店が取られるまで、人形作りの勉強は続けられていました。しかし一方で老人は肝心なことを知りませんでした。似せることに懸命になり過ぎて、最後に父親が人形に傷をつけていた意味を考えなかったのです。

 年月が経っても老人の腕は落ちていませんでした。感情と情熱を込めて作られたロウ人形は本物と瓜二つでした。街の人達や青年はいとも簡単に騙されました。そこで初めて、老人は父親がしていた行為の意味に気付かされたのでした。

「私は人形を聖堂から奪い返したかった」老人は言いました。

 女性も同じ気持ちでした。慰めになったのは最初だけで、すぐに後悔が生まれました。街の人達は期待した以上にロウ人形へ優しく接しました。彼女はその光景を目にするたび大きな罪悪感を覚えていました。

「でも」青年は言いました。「おかげで半年の間、私は素敵な夢を見させてもらいましたよ。きっと街の人達も同じ気持ちでしょう」

 確かに失ったものは小さくありませんでした。しかし青年はアリーと過ごした半年間が決して無駄ではないようにも思えていました。疲れていても苦になりませんでした。たとえ先の見えない生活であっても幸せでした。彼女がいたからこそ工場の歯車であっても、また必要とされなくなっても心を失わずに済んだのです。

「本当にいい夢でした」

 これ以上、二人の前に哀れな姿を晒すべきではない。そう考えた青年は静かに立ち上がり、再び暗い森の中へ入ろうとしました。

 あの、と女性は呼び止めました。

「夜も遅いことですし……もしよろしければ、お泊まりになりませんか」

 それが良い。夜の森は危険だから昼にでも私が送ろう。

 老人も主の意見に賛成して青年に勧めました。しかし、青年は首を縦には振りませんでした。

「田舎で家族が待ってますから」

 きっと事故のことを知って心配していると思います。だから早く帰って元気な顔を見せてやらないと。

 背中を向けたまま語る青年の声は震えていました。

「あの、あの!」それでも女性は呼び止めました。「あなたはこの半年間をいい夢だと言ってくださいました。でも、それは私にとっても……あなたといた半年間は……何物にも変えられない……素敵な、素敵な夢でした」

 途切れ途切れの言葉で打ち明けた後、女性は覚悟を決めたように、振り返った青年の目を見つめました。

「夢は夢でしかないのでしょうか。夢を真にすることは叶わないのでしょうか」

 それきり女性はジッとうつむき、青年の答えを待っていました。


         *


 時は経ち、青年と伯爵夫人のふたりは結ばれました。

 良い医者の治療を受けた青年の腕は回復し、事故以前に近いほどまで動かせるようになりました。針金のようにやせ細っていた体も徐々に回復しました。さらに田舎の家族も貧しさから救われました。

 一方の妻にも変化がありました。彼女はもはや孤独ではありませんでした。今では社交界にも足を運び、街の人達とも接することが出来るようになったのです。

 ふたりは幸せに暮らしていました。

 そんなある日こと、まき割りを手伝っていた青年は前々から気になっていた疑問を老人に尋ねました。

「墓を掘り返したとき、ロウ人形の目から涙が流れたんだ。あれはいったい、どうやって細工したんだい?」

 すると老人は何のことかと首を傾げました。

「さあ、涙ねぇ。きっと目のところが熱で溶けたんでしょう」

「そんなわけは無いさ。あのときは冬で、雪まで積もっていたんだよ」

 青年は初め、仕掛けを教えたくないのだと思っていました。しかし、何度尋ねても返ってくる言葉は同じでした。全く心当たりが無い、と煙たそうに答える老人に、その考えが変わりました。

「あ、もしかしたら」

 二人の会話を横で聞いていた妻は少し笑って夫である青年に耳打ちしてささやきました。

「あのアリーというロウ人形も、私と同じであなたに恋をしていたのかもしれませんよ」

 なにしろ半年間も言葉をかけられて、愛され続けていたのですから。

 妻の言葉に青年は少し驚いて、それから深く考え込みました。


 その日の夜、青年は久しぶりに街の聖堂へとやって来ました。誰もいない静かな空間は昔と変わりありませんでした。

 教壇の前に立った青年は抱えていた大きなロウソクに火をつけて床に置きました。それはかつてアリーと呼ばれた人形の変わり果てた姿でした。

 青年は呟きました。

「私はずっとアリーは妻だと思い込もうとしていた。確かに彼女を愛している。でも、やはり違うのだろうか」

 果たしてこのロウソクには心がなかったのだろうか。満月の夜に人形が見せた涙は本当だったのではないか。もしそうだとすれば、自分は別の女性を愛したことになる。それはきっと裏切りだろう。

 思い返せば、アリーの流した透明な涙は青年の生きてきた中で最も美しいものでした。もちろん、それから豊かな暮らしの中でいくつもの輝く宝石を目にしました。しかし、あの雫ほど純粋で胸を打つものには二度と出会えませんでした。これからも巡り会えない気がしました。

「君は、君こそがアリーなのか」

 問いかける一方で、青年はそれを望んでいない自分の心に気付かされていました。切って捨てることのできないしがらみがたくさんあるのです。

 青年はロウソクの火に言いました。

「私は酷い男になったのかもしれない。妻の嫌う資産や名誉に目が眩み、真実を見ようとしていないんだ」

 するとロウソクの炎は少しだけ大きさを増し、声とも呼べない感覚が青年の心に響きました。

 ロウソクは語りました。

「あなたは変わらないわ。だってあなたはお金以上のものを持っているんですもの」

 私はただのロウソクよ。その言葉を聞いて青年の心は少しだけ楽になりました。

 青年は疲れて眠くなり、少しの間だけと長椅子にもたれて目を閉じました。

 こうして床に置かれたロウソクは朝が来るまで静かに燃え続けました。自身が消える寸前まで輝き続け、優しい光と暖かい空気を聖堂に保ち続けたのでした。


                   了

 題名『アリーの残した奇跡』

           蒼井 果実

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― 新着の感想 ―
[一言] ……っていうかどひゃあ! 認証エラーに気を取られて評価を忘れてしまいました。失礼しました。 それにしてもこういった本格的な作品は、やはりPDFで縦で読むと入り込みやすいですね。
2009/04/26 21:41 退会済み
管理
[一言] 「プロレタリア」のキーワードから飛んできて、大変興味深く拝見させて頂きました。笑 とても素直でまっすぐで、「病んでいる」という表現では表せない青年の在り方ですとか、アリーという存在がなんであ…
2009/04/26 21:38 退会済み
管理
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