第一部:ブルティア 第一話:五本の川
大きな五本の川によって五つの国に分けられた大陸―ブルティア。その広大な土地の半分以上は様々な種類の木が自生する大きな森林に覆われていて、他の2割は川や湖、残りの3割の部分は開けていて、そこに人々が居住している。
大陸の最北端から南に向かってほぼまっすぐに流れるのはノーザ川。閑静さを保ちながら急な山を駆け下りてくるこの川の水は、他のどの川の水よりも透き通っていて、軟らかく、魚たちのみならずブルティアに住んでいる者たちはみな好んでいる。また、蒼白とも白ともとれる小さく美しい花(ノーザホワイトと呼ばれている)がこの川の周辺に限って観察できる。淡く光を反射させながら、つま先から徐々に鼻腔へと這うように漂ってくる甘い香り。毎日耕作に勤しむ者たちも、あるいは南東の国の王でさえも花々に劣らず美しい王妃を連れてそこをしばしば訪れる。
やや北西よりの西から流れる”最も噂の多い川”ウェスタ川といえば、ノーザ川ほどではないものの大変水が澄んでいて綺麗であるのだが、不思議なことに殆ど魚が住んでいないのだ。ある国では、「南西の国がウェスタ川の上流で密かに魚を獲り尽しているに違いない」だとか、また他のある国では、「北東の国が我々を飢餓に追い込んで破滅させるために川に毒を盛ってるに違いない」とまで言われている。
この二つの川に加え、東からしなやかなカーブを描きながら流れるタスイ川が大陸の真ん中で合流し、大きな湖―セントラル湖をつくっている。
この湖は何といっても魚の量にも種類にも富んでいて(このことからウェスタ川に毒が盛られているという噂は、本当に単なる噂であることがわかる。魚をほぼ絶滅させるほどの毒に侵された川が注がれている湖に、これほど多くの魚が平気で、むしろ悠々と生きていけるとはいささか思えない。)釣りで大変に有名だ。早朝などは多くの老若男女で賑わうのが常である。その人気ぶりといえば、ここで貸しボート・釣り具業を一人で独占している男がブルティアの大富豪十人の内の一人に数えられるほどだ。
セントラル湖の丁度真ん中あたりには、小さな島があるがこれはどの国にも属していない。特別に素晴らしい環境であるとか、珍しい生物が観察できるとか、シンボルとなるような建物があるとか、人々の興味をひくものが全くないので、その島を訪れる人は滅多にいないのである。そんなわけで、困ったことにどの国も魅力のない島の管理をしたがらない。
ところで、残り二本の川の紹介をするのと同時に、そろそろこの大陸の最大の謎にも触れておきたい。その二本の川というのがセントラル湖から南西へと流れるセイナ川と、南東へと流れるエーエス川なのだが、その二本が流れ着く先はというと……それは決して海ではないのである。そもそもブルティアに”海”というものはどこにもなく、もちろん言葉すら存在しない。では、この大陸の”端”には一体何があるのか……かなりおかしな話だが、それが全く謎なのだ。強いて言うならば、何もない。ただただ虚無が広がるばかりなのである。
セイナ川とエーエス側は絶えず大量の水をこの虚無に注ぎ続け、東から西へ気持ちよく駆け抜ける風も虚無へと吸い込まれてゆく。ひとたびあなたがこの、完全な暗闇であり周りから一切の音を奪っている虚無に”近づき過ぎてみる”ならば、ただちに五感の全てを奪われ、やがてあなたは思考を働かせることすら、そのやり方を完全に忘れてしまったかのようにただただ虚無に向かって立ち続けることになるだろう。その後あなたがどうなるか……運がよければ巡回している兵士に見つかり助け出されるだろうが、もし誰にも気づかれなければ……それは敢えて言うことでもないだろう。
この虚無の正体については多くの説がある。単純なものから挙げると、「単なる端説」―世界には必ず端があるはず。虚無は単なる世界の端なのだ、と言うかなり昔から信じられている仮説である。しかし今となってはこの説を信じる人はそう多くない。教養のない者か、人とあまりかかわりを持たず、噂には耳を傾けないものか、世界の端のことに興味はなく生計をたてることだけに必死になっている者くらいなものだ。
「単なる端説」を大きく翻すこととなった「異世界説」は、今日のブルティアにおいて最も多くの人々が信じている説であり、現在虚無に関して行われている調査も全てこの説を前提にして行われている。この説はいくつかの事例を元に各国の有名な科学者たちが論争に論争(この論争というのが大抵ただの罵倒のしあいになっていて、それはそれは酷いものだった。)を重ねて出された説なのだが、その内容を簡単に言ってしまえば、「虚無の向こう側にはブルティアとは違う世界が広がっている」という誰もが一度は脳裏に不鮮明ながらも描いただろう、至極簡単なものだ。しかしこの説が現在のように多くの人々に信じられるに至るには、各国の多大なる努力が不可欠だった。時には犠牲者も。一度だけ、一人の兵士に無線を持たせ、遠隔操作で動く荷台のようなものに彼を乗せ、途中で落ちたりしないように下半身をベルトで土台に固定し、それに大陸の端からセントラル湖までの距離をはかれるのではないかと思われたほど長いロープをくくりつけ、虚無の中を進ませる、という計画がなされた。前述したように、虚無に近づきすぎれば”行動する”という概念がその者から奪われる。しかし、ブルティアにも”終わり”があったように虚無にもそれがあるならば、虚無から出た先で彼は意識を取り戻し、無線でその歓喜を仲間たちに伝えてくれるだろうと予想された。荷台には彼に絶えず栄養を補給し続ける点滴も取り付けられ、かなりの長旅もできるようにした。同伴していた科学者が遠隔操作用のリモコンのスイッチを押す。彼を乗せ、ロープをくくりつけられた荷台はゆっくりと暗闇に呑み込まれる準備を始める。彼が振り返りながら仲間たちに手を振っている間に、彼の姿は誰からも見えなくなった。
サーっと静かにロープが地面を擦る音だけが微かに聞こえる。科学者がリモコンのスイッチを切ってもその音はやまなかった。誰もが直ちに異変を感じ、慌てて無線で彼の安否を確かめようとする。が、何度呼びかけても彼が応答することはなかった。無線による一方的な会話はそれでも続く。ロープがあと数百mにもなったところで、兵士の一人がおもむろにそのロープを掴んだ。するといとも簡単にロープはそれまで2日間近く繰り返してきた動きを止めた。すかさず手繰り寄せる。ロープはその兵士に身を委ねたかのようにどんどんこちらへを戻ってきた。それを見た他の兵士たちも、ずっとリモコンに釘付けになっていた科学者もロープを手繰り寄せるのに加わり、ついにはその場にいた全員が一丸となって無心にロープを引き続けた。
もう何時間経ったかわからない。あまりに軽すぎるロープを引き続けることに誰も疲れ果てることはなかったが、一瞬でも不安を忘れたものはいなかった。そしてついに、先頭でロープを引く兵士が荷台の後部であるバッテリーの姿を確認した。歓喜の声があがる。しかしすぐに虚無はいつもの静けさを取り戻した。丸2日間と半日以上虚無を旅を終え、再びブルティアの兵士たちにその姿を見せた荷台の上に、彼は座っていなかった。途中で落ちたのか……兵士たちがそう落胆しているときも、科学者は残酷なまでに冷静だった。
「ベルトが刃物で切断されている。」
科学者の言葉は虚無に吸い込まれることなく、その場にこだました。