第55話 ヴェルさんの毛刈り体験
毛刈りを始めて幾時間、やっと1頭の毛刈りが終わる。
傷つけないように細心の注意を払ったお陰で羊に怪我はない。
だが終わった瞬間、身動ぎひとつしなかった羊は立ち上がって俺の腹部に思いっきり蹴りを入れてきた。
……人間って吹き飛ぶんだなって自覚できた。
ヴェルさんがかけよって治癒魔法をかけてくれたので事なきを得たが、その後羊達に制裁加えようとしていたので慌てて止めた。
「い、いやいやヴェルさん!
時間がかかった俺の落ち度だから!」
腰に抱き付いて止めようとするも引きずられる俺……。
ぽっちゃり(オブラート表現)の俺をものともしない……だとっ!?
「グルルル……
仕方ない……しかしどうするのだ?
この頭数、今日中に全て刈り終えるのは難しそうに思えるのだが」
「そ、それはわかってるけど……。
正直、腕が疲れちゃって……」
実務に勝る経験なし。
ぶっちゃけなめてました。
畜産の方々本当にいつもありがとうございます!
ヴェルさんは顎に手を当てて少し考えると尋ねてきた。
「我輩もやってみよう。
少々やってみたいこともあるしな」
何だろう、不敵に笑うヴェルさんを見ていると何故だか不安になってくるんだけど。
現実逃避がてら羊達に目をやると、あいつらは毛刈りを終えた羊を見ていた。
件の羊はめっちゃ跳び跳ねてはしゃいでいるように見える。
数十キロの重しがとれたのだ、さもありなん。
というかそこまで喜ぶなら蹴り入れなくてもいいジャマイカ……。
「さて、勇気あるもう一匹のところに行くか」
そう言われて威風堂々と羊に近づくヴェルさん。
それに立ち向かうは先程の羊に勝るとも劣らない歴戦の戦士(ぽく見える羊)。
「あっ、ヴェルさん鋏!」
「おそらく必要ない」
羊はヴェルさんを見つめると頭を垂れる。
それを見たヴェルさんは軽く吠えた。
開始の合図だろうか?
「ふむ、なかなかに指が沈むな……。
ここが本体かなるほどなるほど……。
少々油のように滑るな……面白い」
呟きながらヴェルさんが羊の毛に手を突っ込ませる。
指を這わせるように動かしているが、いったい何をしているんだろう?
しかし羊、身動ぎひとつしないな。
時間にして数分、ヴェルさんの手が羊から離れる。
「仕上げに入る、動くなよ」
ヴェルさんが羊に話しかけた。
羊は全く動かない。
おや?
風が吹いてきた。
そう感じた瞬間、羊が……爆ぜた?!
あ、いやちがう、本体は無事だ!
羊毛が爆ぜたのかっ!?
羊達も驚き、たじろいでいる。
爆ぜた羊毛と綺麗に刈り取られた本体を交互に見返していた。
やべぇ、今羊と気持ちがシンクロしてる!?
「初めてにしては及第点だな、怪我はないな?」
ヴェルさんが羊を撫でると羊がメェ! と元気よく鳴いた。
本体が1番動揺してない……だと?
「ヴェ、ヴェルさん!
今何をやったのッ?!」
「切り裂くのが得意な風魔法で刈り取ってみたのだ。
いやはやうまくいったうまくいった♪」
ヴェルさんが楽しそうに笑う。
刈り取られた羊は身体をそらし姿勢よくおすまし顔で佇んでいる。
『どうよ、この肉体美!!』
とでも言いたげだな!
「これで毛皮の除去が簡単になったのだ!」
ヴェルさんの中で既に狩ったあとの獣に使うことが確定しているのか。
……ってことは羊は実験台にされたわけだ。
イルカがジト目でヴェルさんを見据える。
「さすがに夢見が悪くなるので、羊は無闇に食べないでくださいよ?」
「そんな事はしないのだ。
むふふふふ……」
刈られた羊の毛を触りながら何かに思いをはせているヴェルさん。
なんとなぁく、俺は彼女が考えていることがわかる気がした。
前の晩にちょっと羊毛について教えたのだが、その際にもちろんフェルトについても説明した。
案の定といいますか、なんと言いますか。
フェルトアートに釘付けになっておりましたよ。
リアルな作品が多いフェルトアートだけど、ヴェルさんの目を引いたのはデフォルメされたキャラクター達。
……ヴェルさん、絶対に何か作るつもりだな。
真剣な表情でちまちま作業をするヴェルさん……うん、いいよね。
そんな感じでホッコリしていたら、背後から視線を感じた。
俺を見ていたのは俺が毛刈りをした羊だった。
『お前を殺すのは最後にしてやると言ったな?』
たぶんそんなことは言っていないが筋肉モリモリマッチョマンの変態程度の殺気を放っている羊さん。
理由は簡単だろう。
職人がやったのかと見紛うほど綺麗に刈り取られているヴェルさんが毛刈りをした羊さん。
そして、部位によって毛の長さにばらつきがあり、見比べるとザンバラに見えてしまう俺が毛刈りをした羊さん。
所用時間も俺が体感数時間、ヴェルさんは体感数分。
俺は脱兎の勢いで逃げ出した。
その姿を悠然と見ている羊さんはたぶんこう言ったのだろう。
『あれは嘘だ』
身軽になった羊さんの脚力はデブな現代人である俺など相手にならなかった。
簡単に回り込まれて頭突きを喰らう。
俺は吹き飛ばされ坂道を転がっていった。
この一件で角で刺されず、首が折れなかったのはきっと、奇跡以外の何物でもないのだろう……。




