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不幸中の

作者: あやあき

 何も変わらない、晴れた日。

 僕は東京の人混みの中を走っている。

あらぬ罪を被されて。



 最初の事件は、電車を降りた時に起こった。

 鞄を持っていない方の腕をぐいと掴まれ、

「この人、痴漢です!」

 ギョッとして声の主を見ると、スカートがやけに短い女子学生がいた。彼女の手が、僕の腕を掴んでいる。

「……僕?」

 女子学生は僕の問いを無視して続ける。

「この人、私のお尻を触ったんです! 誰か、駅員さんを!」

「ぼ、僕は触ってなんて……」

 弁明しようとしても、女子学生は聞く耳を持たない。

 断じて、僕は触っていない。何故なら僕は、左手を鞄によって塞がれ、右手は吊革を掴んでいたのだから!

 冤罪なんて冗談じゃない!

 僕は女子学生の手を振り払い、改札口に向かってダッシュした。普段使わない階段を駆け上り、何とか人混みに紛れ込めた。

 息を整えながら、会社を目指す。

 一体何だったのか……。最近冤罪事件が流行っていると言うけれど。まさか僕がその標的になるとは思ってもみなかった。何とも傍迷惑な話だ。全力疾走したおかげで喉は乾いたし、朝食をちゃんと食べてきたのに小腹が空いた。

 視界にコンビニが入ってきたので、お茶と何か食べ物を買おうと、入店する。

 通勤・通学ラッシュの時間だけあって、コンビニも混んでいる。人にぶつからないようにして、ペットボトルに入った冷たいお茶とおにぎりを手に、レジに並んだ。

 忙しさの中でも笑顔を浮かべる店員から釣りを受け取り、レジを離れようとした時、人にぶつかられた。

 鞄が僕の手から離れ、落下した拍子に中身が少し零れ出た。

 その中に、入れた覚えのない、ここのコンビニ限定のおにぎりがあった。

 何故?

 ぼうっと突っ立っている僕を動かしたのは、店員の声だった。

「万引きだ!」

 万引き!?

 店員だけでなく、他の客――僕の周りにいる人全員が僕に視線を向けている。

 まさか、僕か!?

 真っ白になりそうな頭で、料金を払っていないおにぎり以外の荷物を引っ掴み、店を駆け出た。

今度は闇雲に走って、通勤・通学ラッシュで出来ている人混みに再び紛れる。そして追われていないのを確認して、僕は建物の壁にもたれ掛かった。

 久し振りにこんなに走ったな……。否、ここまで必死になって走ったのは初めてじゃないだろうか。

 胸が苦しい。脇腹が痛い。

 なんて日なんだ、今日は。

 痴漢の罪を被せられそうになり、万引き犯になりそうになり。

 どちらも法に触れる事だ。

 ……危なかった、無実なのに人生を狂わされちゃ敵わない。

 呼吸が落ち着いてきたので、先程買ったお茶をがぶ飲みする。半分ほど一気に飲んでしまったけれど、まだ足りない。

 これだと会社の自販機でも買う事になるな……。

 頭に酸素が回って、だんだんと冷静に思考出来るようになってきた。

 大丈夫、僕は何もしていない。無実だ。堂々としていればいい。

 深呼吸をして手から、歩き出す。

 この時の僕の頭から、二度あることは三度ある、という諺は綺麗に消え去っていた。



 そして、今に至る。

 現在、僕はまた冤罪を掛けられ、何も知らない善良な市民に追い掛けられている。

 思い返すと、あまりに馬鹿馬鹿しい事だ。

 闇雲に走ったために本来の通勤ルートから逸れたところに来てしまい、スマホのマップ機能を駆使して会社への道を探していた。

 つまり、歩きスマホをしていたのだ。そして、まだ通勤・通学ラッシュが解消されていないために人のとおりも多かった。

 女性とぶつかったのも必然的である。

 これはそう問題ではない。

 問題は、ここから。

 僕と女性は互いの荷物をぶちまけた。互いに謝りながら己の荷物を仕舞い、再度謝罪を述べ、その場を去った。

 何もない筈だった。しかし、背後から女性の声がしたのだ。

「泥棒よ!」

 え?

 女性の声に反応して振り返ると、女性は僕を指差している。

「誰か捕まえて! 私の財布を盗んだの!」

 まさか。

「そんな……そんな事は、ない、です」

 僕は証拠を提示するため、鞄の中に手を入れ、それを発見し、取り出してしまった。

 女物の財布を。

「あ……あ……、え?」

 どうして。どうして入っている? 入れた覚えはない。僕は断じて。なのに、何故。

「捕まえてっ!」

「ぼっ、僕はやっていない!」

 財布を放り投げ、踵を返して走り出す。

 大丈夫、相手は女。僕は男。ちょっと走れば撒ける。

なんて考えて、チラと後ろを見、「……嘘だろ」

己の甘さを知った。

 追っ手は女性だけではなかった。自分と同じスーツ姿の男性。関係のない筈の男が、追っ手に加わっていた。

「待てぇ!」

 無駄に正義感が強いな! 待ったら僕は冤罪で裁かれる!

 朝から走り過ぎて疲労を訴える足に鞭を打ち、走り続ける僕の目の前にバス停が現れた。しかも、バスが停車中だ。

 僕はそれに飛び乗り、その後すぐに背後の扉が閉まった。

 助かった……。

 追手の男は乗ってこない。

 乗客から奇異なものを見る目を向けられながら、僕はその場に座り込んだ。



 勿論、会社には遅刻した。

 課長に理由を訊かれて、寝坊だと答えた。まさか冤罪を掛けられていました、なんて言えない。

 隣席に座っている同僚の柏木には「一年分の疲労を背負った顔してんな」と評された。苦笑するしかない。

 それから滞りになく与えられて仕事をこなし、昼食を摂り、三時を回った時だった。

 後から思えば、この滞りなく進む日常を疑うべきだった。が、結局後の祭りなのだ。

 手洗いから戻ってくると、オフィス内がざわついていた。

 柏木がすぐ傍にいたので話し掛ける。

「おい、どうしたんだ?」

「……間宮か」

 すると、柏木は蒼い顔を僕に向ける。あと、他の何人かからも視線を向けられた。

「盗まれたらしいんだよ」

「……何が」

 厭な予感がした。

「金庫の中身。一千万円が」

 眩暈がした。

 盗難。また、犯罪。一体今日出遭うのは何度目だ。

「……ところで、さ」

 重々しく柏木が切り出す。

「金庫の暗証番号を知ってたのって、部長と、課長と」

 そこまで言われ、どうして柏木が重苦しい口調で切り出したのかが解った。

「……僕だ。僕も暗証番号を知っている」

 なんて事だ。また容疑者か。

 けれど、僕は潔白だ。確かに一度、月替わりの暗証番号チェックのために金庫を開けた。だが、それは僕以外にも部長、課長も開けた筈。

「お前、今日金庫開けてたよな?」

 柏木の問いに僕は冷静を装って答える。

「ああ、今日がその日だったからな。けど僕以外にも部長と課長が」

「それが、チェックするの忘れてたらしいんだよ。だから」

「……金庫を開けたのは、僕だけって事か」

「そういう事に、なるな」

「…………」

 だから僕に視線が集まっていたわけか。

 本当、……本当、今日はなんて日なんだ。

 何でこんなにも罪を被せられなければならない。

 しかも今回に限っては逃亡も出来ない。冤罪を掛けられた上、仕事を馘になるだろう。

 しかし、どうやって身の潔白を証明する? 僕が一千万円を盗んでいないと証明しようにも、ほら持っていないでしょう? なんて説明で納得する筈がない。

「間宮、お前がやったわけじゃないんだろ?」

「……当たり前だ。まさか、疑っているのか?」

「否っ、違う、違う! お前がやっただなんて思ってない! ただ……」

 柏木は口を噤むが、言いたい事は解る。

彼から見れば、僕が明らかに怪しい。

「一度、金庫の中を見てもいいか? 中を見ておきたい」

「……ああ」

 金庫は社員のデスクが集まっているところではなく、部長のデスクの傍にある。

 少々距離がある所へ歩みを進めると、他の社員たちもぞろぞろと付いてきた。

 見張られるようで、厭な気分だ。

 金庫の前には、部長と課長がいた。

「おお、間宮君」

「金庫の中を見せてもらってもいいですか?」

「勿論だ」

 今日更新された暗証番号四桁を入力して、金庫を開ける。

 普段、金庫の中には現金一千万円と、顧客名簿などの重要書類が入っている。

 その中の現金だけが綺麗さっぱりなくなっていた。

「ありませんね……」

 僕は溜息と共に金庫を閉めた。

「部長と課長は今日金庫を開けていないのですか?」

「ああ……」

 部長と課長は顔を見合わせる。

「申し訳ない事に、二人して忘れてしまっていてね。誠に済まない」

 けど、そのお蔭で嫌疑が向いていない。僕は業務をこなしたせいで嫌疑を向けられている。

 なんて理不尽な世界なんだろう。

 この場に味方はいない。自分だけが頼りだ。

「間宮君」

 声を掛けてきたのは課長だ。

「ロッカーを見せてくれないか? 否、君を疑っているわけではないんだ。他の皆にも見せてもらおうと思っている」

 嘘吐け。じゃあ何で僕が最初なんだ。

「分かりました」

 頭の中で警笛が鳴る。

 しかし僕は社員証を手にロッカー室へ向かった。

僕は今日、出勤した時にしかロッカー室に入っていない。そしてその時には、異常はなかった。

入口で認証するピッという音が続く中、己のロッカーを開けた。

 そこでは、見覚えのないアタッシュケースが存在感を放っていた。

 躊躇いなく、そのアタッシュケースを開ける。当然と言うべきか、そこには現金が入っていた。きっと、一千万ほどだろう。

 すぅっと、身体中の体温が下がった気がした。

 背後のギャラリーがざわめいている。何かを言われているんだろうけれど、全く頭に入ってこない。

 考えろ。……考えろ。僕は何もやっていない。僕は盗んでなんかいない。誰かが僕に罪を被せたんだ。

 思い出せ。何か手掛かりがある筈だ。今日会社に着いてからの行動を思い出すんだ。

 会社に来て、課長と話して、柏木と話して、仕事をして、そして金庫の当番の事を思い出して、開けに行ったんだ。金庫を開けて、閉める時に課長に呼ばれた。そこで、まだやるべき段階が残っていたけれど、「あとは私がやろう」と申し出た人がいて――

「お前がやったのか?」

 その言葉だけ、はっきりと耳に届いた。

「違う。僕じゃない」

 否定の声は掠れていた。

 その後に続けて言われた言葉は全く聞き取れなかった。言葉の知らぬ異国に連れて来られたみたいだ。

 腕を掴まれ、歩かされる。

 見知った顔ばかりが並んでいる筈なのに、誰も判別出来ない。

 ……僕は独りぼっちなのか。

 そう絶望の淵に立たされた、その時だった。

「ちょっと待ってもらおうか」

 凛とした低い声が、空間に響いた。

 声のした方を見遣ると、そこには見知らぬ男が立っていた。

パッと見、二十代後半くらいか。僕の給料では買えないような仕立ての良いスーツに身を包み、赤茶色で癖のある髪をしている。蛇のように吊り上がった眼は、僕を捉えると細められた。

「間宮諒さんは、貴方で?」

「ああ……そうですが」

 何故この人は僕の名前を。

「申し遅れた。私は久世と言う者だ」

 否、それよりも、何故僕はこの人の声だけは聞き取れたんだ?

 不思議に思っていると、男――久世は驚くべき事を言い出した。

「間宮君、君はどうも大変な目に遭っているようだ。どうだろう、ここは一つ、私に任せてはもらえないだろうか? 君の身の潔白を証明してあげよう」

 何だって? 今、僕の身の潔白を証明するって?

「貴方は僕を疑っていないんですか?」

「ああ、勿論。君が盗んだのではないと知っているからね」

 やっと現れた。僕を信じてくれる人が。

……ああ、僕は独りではないんだ。

 へたれこみそうになったが、腕を掴まれていたので床に膝を付ける事はなかった。

「お前は何者なんだ! 外部者だろう?」

 外野から声が飛ぶ。

「違うよ。ほら」

 久世は微笑を浮かべ、胸から下げた社員証を見せつける。

「本日**支店から配属された、立派な関係者だ」

「そんな者が来るとは聞いていないが」

 課長の言葉に、「あれぇ、そうなのかい?」と久世は素っ頓狂な声を出す。

「それは困るなぁ。支店間の連絡がなっていないなんて一大事だ。……まあ、そんな杜撰さだからこのような件が起きたのだろうが。仕舞いには、無辜な社員を犯人に仕立て上げて……一体何を考えているんだか」

「……久世といったか?」

 部長が前に出る。

「君は一体何をしたいんだ? 今君が庇っている間宮君は、社の金を横領したんだ。君も見るといい。間宮君のロッカーに動かぬ証拠がある」

「動かぬ証拠?」

 はん、と久世は鼻で笑う。

「でっち上げた証拠の間違いだろう」

「なっ……」

「こちらには――この間宮君には、ちゃんとした証拠がある」

 え? そうなの?

「君等が今出てきたロッカー室。出入りするには社員証を認証機にかざさなければならない」

「そうか!」

 声を上げたのは柏木だ。

「ここの認証機は入退室の記録を兼ねている。間宮が犯人なら、出勤してきた時とさっき以外にも入退室の記録がある筈。だから」

 柏木は興奮した面持ちで言う。

「履歴にその三度目がなければ、間宮の潔白は証明される!」

「ちょっと待ってくれ」

 課長が口を挿む。

「何も認証機にかざさなくても、他の社員がかざして扉を通る時に一緒に出入りすれば履歴は残らない」

 すると、久世が口を開く。

「君はどうしても間宮君を犯人に仕立て上げたいらしい。……否、君等と言うべきか」

 久世は周りのギャラリーに目を遣る。

「では尋ねよう。ここにいる者で、間宮諒と一緒にロッカーを出入りした者は?」

 誰も名乗り出ない。

当然だ。僕はそんな事していないのだから。

「いないようだな」

 久世は部長と課長に視線を遣る。

「そろそろ認めたらどうだ? この真犯人は自分達であると」

「は――?」

 久世の言葉に、僕も、柏木も、他の社員達も、誰もが呆けた。

 どういう事だ?

「間宮君」

 久世は僕に歩み寄り、尋ねる。

「金庫をチェックしていた時、誰かが君を呼んだだろう?」

「何故それを? 貴方はあの場には居なかった筈」

「それは後から説明する。――誰が呼んだんだい?」

「――課長です」

「ではその後、誰かが代わりに閉じておこうと言っただろう。それは誰だ?」

 そう、あれは――

「部長でした」

「ありがとう。では、金庫を改めて見てみようか。面白い物が見られるよ」

 久世は色素の濃い唇を吊り上げた。



 ぞろぞろとギャラリーを引き連れ、金庫の前まで来た。

 先程開けたように金庫を開く。

 ガランとした空間に、書類が数枚――数枚?

「まさか」

 書類を確かめると、確かになかった。

「顧客名簿が、ない」

「何所にあると思う?」

 久世がクイズを出題するような軽い調子で言う。そして、誰かが答えるのを待たずに続ける。

「部長の鞄だよ。奴が盗んだんだ」

 皆の視線が部長に向く。部長は蒼い顔をしている。

「ぶ、部長……」

 声を掛ける課長を久世が指差し、「そして、奴が共犯者だ」

 何だって?

「どういう事です!?」

「論より証拠だ」

 久世はつかつかと革靴を鳴らして部長のデスクに歩み寄り、部長の鞄を引っ繰り返した。零れ出た中身から書類を取り出し、掲げて見せる。

「見たまえ、これが確かな証拠だ」

 確かに、それは顧客名簿だった。

「ああ……」

 崩れ落ちる部長。課長は額を押さえている。

 僕達は何も言えない。平社員の仕業かと思われていたものが、部署のトップ二の仕業だったのだ。ショックが大きすぎる。

「警察には通報しないのかい?」

 いつの間にか久世が隣に来ていた。

「ああ、ええと……」

 迷っていると、柏木が「俺がしておこう。警察に先に上への連絡が先だけどな」

「ああ、頼む」

 こうして、四度目の冤罪も無事晴れたのだった。



「久世さん、今日は本当にありがとうございました」

「なぁに、私の単なる気紛れだ。そう何度も礼を言われる事はしていない」

 ここは普段なら絶対に入らないだろう高級レストラン。

 久世にお礼をしたいと申し出たら、ここで食事をしたいと言われたのだ。勿論、彼の分も僕が払う。痛い出費ではあるが、久世は無罪を証明してくれたのだ。惜しむと罰が当たる。

 久世は慣れた手付きでフォークとナイフを操る。よくよく見れば美形であるから、さながら映画のワンシーンだ。

「私には好きな言葉があってね」

 肉を飲み下してから、久世が話し出す。

「とあるヒット曲のワンフレーズなんだが。人生をフルコースに例えていて、その中途が苦かったり渋く思う事があっても、最後のデザートを笑って食べられたらいいと」

 僕にも憶えがあった。タイトルは思い出せないけれど。

「しかし、考えてもみたまえ。そんなフルコースを出されたら堪ったものじゃないだろう?」

「好きな言葉に駄目出しですか」

「否、そういうつもりはない。ただ、他人のを見るのはいいが、自分に降りかかるのはいかがなものかと思うね」

「解ります」

 今日四度も冤罪を掛けられたんだ。もう人の不幸には笑えない。

「それを思うと、本当に、久世さんには何とお礼をすればいいのか……」

 僕が恐縮すると、久世はフッと噴き出すように笑った。

 そして、「くっふふっ」と尚抑えるように笑いを漏らす。

「……久世さん?」

「あっはっはっはっは!」

 声を掛けると、久世は遂に哄笑に転じた。

「……あの」

「ははっ、はーあ。――まったく、滑稽で堪らなかったよ」

「何がです?」

「だって君が、本気で私に礼を述べているんだからね」

「……普通の事でしょう?」

「そうなのかい?」

 久世が真顔で訊き返してくるものだから、本当にそうなのかと不安になってくる。

 すると、また久世が噴き出した。

「いいねぇ、その間抜け面。仕掛けた甲斐があるってものだ」

「……は?」

「まだ分かっていないのかい?」

 久世は込み上げてくる笑いを抑えるようにしながら、僕に告げた。

「私だよ。君に痴漢の罪を擦り付けようとしたのも、万引きの罪を被せようとしたのも、泥棒に仕立て上げようとしたのも、横領の罪に陥れようとしたのも。――全て、この私の仕業なのだ」

「なっ……」

 何を言っているんだ、この人は。

「まだ意味が解らないって顔をしているねぇ、物分かりの悪い人間はまたカモにされてしまうよ?」

 愉快、という言葉が似合う笑みを、久世は零す。

 対して、僕は、

「……どうして」

 何とかその四文字だけを絞り出した。

 久世はふふんと楽しそうに答えた。

「決まってるじゃないか。暇潰しさ」

 暇潰し?

「待ってください……」

 気が遠くなりそうなのをどうにか引き留めて、声を絞り出す。

「それじゃあ、僕は貴方の退屈逃れで、こんな目に遭ったという事ですか?」

 否定して欲しい。

 まさかそんな事はないだろう。

 しかし、久世は「そうさ」と肯定した。

 ギシッと、音がした。

 気を回して初めて、自分が脱力して椅子にもたれ掛かった時に発せられたものだと気が付いた。

 僕は今日、大変な目に遭った。人生が崩壊してしまうのではないかとまで思った。

 それが、この目の前の男の暇潰しで起こったものだなんて。

「なかなかに大変だったよ、準備するのは」

 久世は溜息を吐く。

「一件目はネットの掲示板で使えそうな子を探したんだけど、これが一苦労だった。特徴を挙げられても、それに該当する少女なんて溢れんばかりにいる。目的の少女を見つけるのに一週間掛かったか。見つけてからは楽だったがね」

「その少女に、僕を痴漢の犯人に仕立てようと持ち掛けたのですか」

「今時の少女はお金に困っているからね。金をチラつかせたたらすぐに喰い付いたよ。もう少し警戒心を持った方がいいね」

 そうじゃない。僕はそう言う事を聞きたいわけじゃない。

「二件目は至極簡単だった。君の後を付けて、君がレジに立っている時にぶつかってレジを通していない商品を入れる」

「あの時ぶつかってきたのが……」

「私だ。ちなみに、三件目で君を追った会社員も私だ」

「は……?」

 久世をまじまじと見るが、この人とあの時追い掛けてきた会社員とは重なるところがない。

「あの時は髪を黒くして、眼鏡を掛けていたから、気付かないのも無理はないだろう。わざわざ、安月給の君等が着ていそうなスーツまで新調したんだ。感謝したまえ」

「感謝……?」

 頭がおかしいんじゃないだろうか、こいつは。

「ちなみに、財布を君の鞄に仕込ませたのは私ではない。君を泥棒だと言った女性が、荷物を拾うように見せかけて君の鞄に自分の財布を入れたんだ。彼女は恋人が詐欺師だったらしくかなりの金を騙し取られていてね。この計画を持ち掛けたらすぐに乗ってきたよ」

「……そうやって関係のない人を犯罪に加担させていったのですか」

「皆、最後は自分の意思で決めたんだ。私の責任ではない」

「そう抜け抜けと……」

「ふふん、やっといい表情になってきたじゃないか」

 久世は嬉しそうに笑う。

「どういう事です」

「否、これは私の趣味の問題だ。気にしないでくれたまえ」

 そう言われても気に掛かる。しかしこの男は正面から尋ねてものらりくらりかわすのだろう。

 だから話題を転ずる。

「じゃあ四件目は」

「メインディッシュの話だね。あの件に関しては、私は計画を立てただけだ」

「全部そうじゃないんですか?」

「他の三件は私が積極的に立てて、実行したものだ。だが、四件目の発案者と実行者は君のとこの部長だ」

「……どういう事です」

「そのままの意味――なんだが、きっと君は納得しないだろうからね。簡潔に説明しよう。君のところの部長は妻の過剰な株への投資で借金まみれだった。そこで会社の金に手を付けようとした。しかしそのまま持っていったのではすぐに事は露見する。そこで彼は私を頼った」

「頼ったって……貴方と部長は初対面じゃ」

「初対面ではない。が、私は顔を隠して彼と会っていたからね。名前も久世とは別の名前を用いていたし。――接触方法は伏せさせてくれ。聞かない方が、君のためだ」

 ここまで来て身を案じられても全くいい気はしない。

「私が立てた計画はさっき会社の方で説き明かした通りだ。課長は以前部長と同じように会社の金に手を付けようとして、その時部長が気付いて弱みを握られていたようだ。だから簡単に共犯者になった。君に現金を押し付けて容疑を向けさせ、自分達は金になる顧客名簿を盗む。そういう計画だったが、まあ失敗に終わったわけだ」

「……貴方は最低だ」

「うん?」

 首を傾げる久世にイラッとしたので、言ってやる。

「貴方は自分の手を汚さずに他の人を使って僕を貶めようとした。善良な人々を使って」

「おいおい、待ちたまえ! 君は本気でそれを言っているのかい?」

 久世が大仰に言うが、僕には何故そう言われているのか解らない。

「一件目の少女と三件目の女性を善良と言うのは百歩譲って認めよう。だが、君のとこの部長と課長はどうだ? 君を犠牲にして利益を得ようとした。救いようがないじゃないか!」

「そうですけど」

「第一、私が助けに入らなければ君は警察行きだったよ?」

「…………」

 そうなのだ。久世は僕を救った。自分の立てた計画を駄目にしてまで。

「じゃあ、どうして貴方は僕を」

「それは気紛れだ。君を助けた方が面白そうだったんでね」

 ふふっと久世は笑う。

 掴みどころのない男。

 彼にとって僕は何なのだろうか。

 分からない。

 だから、僕も彼にどう対応していいのか分からない。

「さぁ、早く目の前の肉を片付けたまえ。まだデザートが残っている」

 見れば、久世の前の料理はなくなっている。僕の目の前の皿にだけ肉が乗っている。

 考えるのは疲れるので、よして食べるのに集中させてもらう。

 自分は暇だからか、久世は話し出す。

「私はこう見えて甘党でね。スイーツの類が大好物なんだ。和洋問わず。ここのデザートは最高でね。ぜひ君にも食べてもらいたい」

 久世への印象が入店した時のものに戻りつつある。

 彼は僕によい印象を持っているんじゃないだろうか。だから僕は救われた。……最後の一件のみだけれど。

 頭が痛い。

 普段こんなに考える事がないからだ。

 やがて食べ終わり、久世がボーイを呼んで皿を下げさせる。そして、運ばれるデザート。ワッフルの上にチョコレートが格子状に掛けられ、生クリームとストロベリーアイスが添えられている。

「これは、内緒だよ」

 久世はそう言って、懐から何かを取り出し、僕のデザートに振り掛けた。パウダーのようだ。

「これを掛けるともっと美味しいんだ」

 久世も同じものを掛け、デザートを食し始める。蛇のような眼を細め、幸せそうに食べる。

 僕も一口、また一口とデザートを口にする。

 蕩けるように甘い。

 けれど、その中にチリッと刺激物があった。

 何だろうか、と疑問に思っていると、突如、胸が苦しくなった。

「……はっ、あ――」

 胸を両手で強く押さえる。

「おや、効いたようだ」

 久世は口の両端を吊り上げて笑っている。

「ああ、いいねぇ、その表情。何が起こっているか解らないって顔」

「はぁっ、――くぜ、なに、を」

「毒だよ」

 久世は簡潔に答えた。

「ど、く?」

「猛毒さ。君は直に死ぬ」

 死ぬ?

 両手に力がこもる。

「ははっ、ここまで待った甲斐があった! その顔が見たかった! その何もかもを諦めた顔! 最高だよ、私の直感は正しかった!」

 何を言っているんだ。こいつは――。

「わざわざ立てた計画を反故にしたのは正解だった――!」

 久世の声がどんどん遠のいていく。

 そうして、僕は意識を手放した。



「おっ、目覚めたか」

 目を開けて最初に目に入ったのは、柏木だった。

「ここは……」

「病院だ。お前、レストランでデザートを食べていた時に急に倒れたんだ」

 レストラン……デザート……?

「お前、働きづめだったのに変な容疑まで掛けられて心臓に来てたらしいぞ。だから急に倒れて」

「……違う、毒だ」

「毒?」

 柏木は首を傾げる。

「どういう事だよ」

「そう、久世。久世だ! あいつが僕に毒を盛ったんだ!」

「何言ってんだよ、お前」

 柏木に笑われる。

「久世さんはお前が倒れたから救急車を呼んで、病院まで付き添ってくれたんだぜ? さっきまでいたんだけどな。帰っちまった」

「さっきまで、いたのか」

「ああ。――そうそう、目覚めたら渡してくれって頼まれてたんだ」

 差し出されたのは飾り気のない白い封筒。中に入っていたのはこれまた柄のない便箋。そこに流れるような文字が青インクで書かれていた。

「あと、久世さんはまた他の部署に移るらしいぞ。何だったんだろうな、あの人」

 柏木の言葉を無視し、僕は手紙に目を落とす。

『間宮諒様

 お加減はいかがだろう? まあ死んでないとは思うけどね。

倒れる前に君に毒をもったというのは半分本当で半分嘘だ。毒をもったのは確かだが、致死量までは至っていない。私の信条は殺しをしない事なのでね。

君にはいいものを見せてもらったよ。また会う時があれば遊んでくれたまえ。

久世』

 さぁっと体温が下がっていくのが自分でも分かる。

「おい、どうしたんだ?」

 柏木の声が遠い。

 頭の中でサイレンが鳴っている。

 手紙は音も立てずに布団の上に落ちた。


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