伍 蝶は毒を運ぶ
霊夢を布団に寝かし、紫は博麗神社を後にした。
「おかえりなさいませ、紫様」
「あら、まだ起きていたの?藍」
紫の式・八雲藍は、表情を一切変えずに頭を垂れていた。
「お休みになられますか」
「いいえ、今日は眠れそうに無いわ。少し付き合って頂戴」
紫はそそくさと居間に向かい、ちゃぶ台の横に腰掛ける。その姿を見た藍は、酒と杯、そして肴を盆に載せ、持ってきた。
「今日ね、霊夢の舞を見てきたのよ。御霊会の舞ね」
長い沈黙を破ったのは紫だった。藍はそれをただ静かに聞いている。
「あの娘の舞、とても美しかったわ。雅で凛としていて、それでいてどこか儚げな舞...。亡くなった霊を鎮める御霊会らしい舞でしたわ。きっと巫女なんてしていなければ、今頃立派な舞手になっていたでしょうね」
紫は、次から次へと言葉を零す。それは、興奮とは真逆の寂しい夜の調べの様だった。
「霊夢がね、妖怪は妖怪のままでしかいられないのかって聞いてきたわ」
その言葉を聞いた藍は、静かに唇に酒を含んだ。
「左様ですか...。それで、紫様は何と?」
「自分で考えなさい...とだけ言っておいたわ」
紫が杯の中の酒をぐいっと喉の奥まで染み渡らせる。だけど、まだ足りなかった。さっき霊夢と呑んだ時は、あっという間に酔ってしまったのに。
「もうすぐ秋ね。今年も秋姉妹に頼まないとね」
「左様ですね」
主人と従者の酒には、月は映えなかった。
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重たい瞼を開けると、既に日は昇っていて、蝉の音も少し離れた所で騒がしく鳴いていた。
「おはようございます、紫様。朝餉の支度が出来ております。とは言っても、もう昼餉の時刻でございますが」
「寝過ごしちゃったわね。軽く頂くわ」
「お食事後はお出掛けでございますか?」
「えぇ」
紫が目を覚ましたのを察知した藍が、紫を起こしに来た。紫が話している間に、藍はせっせと布団を押入れに仕舞う。
「気をつけて行ってらっしゃいませ」
食事を終えて家を出る時、藍はそう言った。いつもの言葉だけど、その言葉は心を軽くしてくれた。
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「あら?」
紫は珍しく疑問の声を上げた。博麗神社に霊夢の姿が無かったからだ。滅多に神社の外には出ない霊夢が一体どこに行ったというのだろうか。買い出しだろうか?いや、昨日の御霊会でたくさん食料はあるはずだし、服装の欠損や物が壊れている様子も無かったはず。もしかして、白黒の魔法使いか、紅魔の吸血鬼の館か...。はたまた最近、仲の良い守矢の巫女か...。
「私ったら随分推理ごとが好きになりましたわ」
何も考える必要は無いのだ。霊夢の家はここであって、他にはない。きっとどこかで道草でも食っているに違いない。直に帰って来るだろう。紫はそう思う事にした。
1分。
さらに1分。
その1分1秒がとてつもなく長く感じる。
日がそろそろ暮れる。まだ霊夢は帰ってこない。
流石に心配になった。いくら博麗の巫女とは言え、ただの人間の年頃の娘な事に間違いない。急に胸がざわついた。太陽が少しずつ遠くの山に吸い込まれる度に、紫は恐怖に似た何かを感じた。
「...んでね、って紫じゃない。来てたの?」
紫が、腰を上げたのと同時に、霊夢と魔理沙が一緒に博麗神社の階段を上って来るのが見えた。
「えぇ、待ちくたびれましたわ。巫女ともあろうものが、異変以外で長らく神社を開けるなんてみっともないですわ」
紫は咄嗟に言い繕う。その言葉に霊夢はくすっと微笑んで、魔理沙の後ろに隠れていた人影の腕を軽く引っ張った。
「ねぇ、紫。私、次の博麗の巫女を育てようと思うの。私が巫女になってもう十年よ。私も、そろそろ次の世代を作っていかないとって思ったの。で、それを魔理沙に言ったら、巫女探しを手伝ってくれたってわけ。それで、たまたま家を追い出されて一人ぼっちだったこの子を見つけてきたの。貴女も感じるでしょ?この子の霊力。私ほどでは無いかも知れないけど、それなりに...」
「分かりましたわ。認めます。その娘を巫女見習いとして育てる事を許可します。ただし、私は一切教育は致しませんわよ。宜しくて?」
紫が霊夢の言葉を遮った。そして発せられた言葉に、霊夢と魔理沙は驚いた。あの紫が、簡単に次期博麗の巫女見習いを育てることを認めたのだ。霊夢と魔理沙は顔を見合わせ、そしてその光景を、見習い巫女の少女は困り果てた顔で見比べていた。