玖 雨に濡れた紅
紫はその日、藍と橙と紅葉狩りに来ていた。秋も深まれば紫の冬眠が近づく為、秋の早いうちに紅葉狩りをするのが、八雲家の恒例となっていた。
「紫しゃま〜!藍しゃま〜!」
「こら、橙。そんなに慌てなくても紅葉は散らないぞ」
石の坂を走って下る橙を、藍が笑顔で追いかける。すると、後ろ向きで走っていた橙がちょっとした小石で躓き、ころころと坂を転げ落ち、平坦な道の所で目を回していた。
「橙も相変わらずですわね…」
紫は扇を口元で広げた。
「もう!だからあれほど走ってはいけないと言っただろう」
「ごめんなさい、藍しゃま。でも、この稲が凄く綺麗だったので、藍しゃまと紫しゃまに見せたくて」
橙が指さした先には、黄金色に染まった稲穂が奥の方まで広がっていて、風の流れに合わせて右に左に揺れていた。それを見た刹那、紫は遠い昔の事を思い出した。
ーーー
約220年前。
紫は、閉じそうになる重たい瞼を懸命に開けて、1歩、また1歩と足を進めていた。その足には弓矢が刺さった跡があり、血の跡が黒く滲んでいる。服は破れ、身体中に出来た傷痕の傍には、歩いていても蠅や羽虫が集まっていた。紫にその虫たちを払う気力は無く、ただ休める場所を求めて息を切らしながら歩いていた。
(木陰...あそこで休もう...)
黄金色に輝く田園の横を過ぎれば、一休み出来るような木陰があった。なんとか這いつくばって辿り着いた紫は、乱れる息を整えることに集中した。
(どうして、私はこんな目にあうのだろう...私が何をしたというの...)
空はひどく澄んでいて、まるで紫を嘲笑っているようにも見える。
(このまま死ねたらな...でも、一度でも誰かを好きになりたかったな...)
紫の瞳からは、涙が溢れ出ていた。汗と涙が入り混ざり、顔の傷に沁みた。
突然雨が降り出した。辺りはあっという間に水で溢れ、地面がぬかるんだ。
「おい、おい!大丈夫か?」
気づけば眠っていたらしい。紫は男の声と体の揺れで目が覚めた。ぼんやりとしか見れなかったが、すぐに人間だと分かった。
「あぁ...にん...げん...」
「どうしてこんな所にいるんだ。とにかく家へ来い。このままじゃ死んでしまう!」
男は紫の背中と膝裏に腕を回し、さしていた傘を紫を包むように置いた。紫は人間の男に抱き上げられた事を屈辱だとは思わなかった。それどころか安堵感で溢れていた。
男は、囲炉裏の近くに布団を敷き、そこに紫を寝かした。体が布に包まれる感覚とパチパチと火の粉のなる音がとても心地よくて、紫は再び意識を飛ばした。
次に目を覚ました時、鼻腔をすり抜けたのは、美味しそうな魚の匂いと味噌の香りだった。
「お、起きたか。食事を取ろう。話はそれから聞かせてもらおうかな」
男は、紫の布団の横に、味噌汁と鮎の塩焼き、そして真っ白なおむすびを葉皿に乗せて置いた。紫はそれらの食べ物をじっと見て、男を見た。男は美味しそうに味噌汁を飲んでいた。紫は、食事に手をつけようとした。しかし、あと1歩の所でその手が止まってしまう。
「安心しろ。お前さんを取って食おうだなんて思ってないさ。この土地で取れた新鮮なものばかりだぞ。召し上がれ」
男はにっこりと笑って、そして自分の分の鮎を口いっぱいに頬張った。紫もそれを真似して、鮎を頬張る。すると、程よく塩の効いた皮が弾け、そこから溢れるように魚の身が紫の口いっぱいに飛び出た。慌てて噛み締めると、甘い脂が溢れ出し、紫は何度も何度も噛み締めた。それを見た男は、胸を張って言った。
「どうだ、美味しいだろ。どれも私の自慢の料理だからなっておい...泣くなよ。そんなに美味しかったのか?」
紫は泣きながら、魚をひたすら食べ続けた。ほかの味噌汁やおむすびを食べてる間も、涙を拭う事なく嗚咽を零しながら食べ尽くした。
「おい...し...かった...です...」
肩を上下に揺らしながら、紫はそう言った。
「お粗末様でした」
男は優しく言葉を返した。
その日、男は紫の事情を聞かなかった。
「私、妖怪なんです」
紫は自分から男に告げた。食事を出してくれただけでなく、寝泊まりも自分の怪我の治療もしてくれた男に、紫は戸惑うことなくそう言っていた。
「私は、神事を行う者、禰宜という役職の者だ。よろしくな」
「え?」
彼が人間だという事は分かっていた。だけど、神職の人間だというのは驚いた。それだけでなく、彼は神職なのにも関わらず、私を退治しようとしなかった。
「どうして...」
「君は怪我をしてた。それに、君は悪さをする妖怪なんかじゃない。私は悪さをする妖怪しか退治はしないんだ。だから、私は君を退治しない」
それに...。と彼は続けた。
「君は賢い。そして、私はそんな君にここにいて欲しい」
ーここにいて欲しいー
そんな言葉を言われたのは生まれて初めてだった。
そして、紫は彼と共に過ごすことになった。