序 蝶は暁を舞う
芒の香りが鼻腔を擽る。
もう時期、稲の収穫期だろうか。今年は豊作になって欲しい。この土地で穫れる米はとても美味しい酒になる。春先まで熟成させれば、春の宴会にはそれはそれは美味しい酒になるだろう。
目の前に見えるのは、朱だ。
紅より儚くて、橙よりも存在感のあるその色をした鳥居が目の前にあった。その下で神具を操る【彼】は、蝶の如く舞っていて、美しかった。彼自体が、この土地の象徴とも言える、そんな幻想的で魅力的な舞。
「ここは美しい所だね、紫ー」
「そうですわね。貴方の舞が良く映えますわ」
「ははっ。紫はお世辞が上手だね。お世辞だと分かっていても、何故か君に言われると嫌な気持ちにはならないな」
禰宜の彼は、少し口角を上げる。初老らしい口元の皺が深くなる。
「ここには、名前がありませんの。貴方が名付け親になってくださいな」
手元の扇で口元を隠す。紅くなる頬を隠すために。
彼は、持っていた神具に目をやり、少しして、紫に目線を戻した。
「【幻想郷】はどうかな?安直過ぎるかい?」
彼の言葉に、紫は目を細める。
【幻想郷】ー。
彼を言い表すのに、過不足ない言葉だろう。
「いいえ、貴方が名付け親ですもの。いい名前ですわ。そうしましょう」
紫がそう答えると、彼は、良かった。とだけ言った。
「紫、そろそろ取り掛かろう。私と君で創りあげたこの土地、【幻想郷】の誕生の儀式をー」
秋を知らせる風が、黄金色の紫の髪を揺らす。
そこには、鉄の臭いが少しだけ混ざっていた。
これは、【幻想郷】とそこに生きる人妖達の物語ー。
ーーー
第190季。夏
博麗の巫女が死んだ。
まだ三十路も行かぬ若さだった。死因は、大量出血。妖怪に殺された。その頃は吸血鬼やらが、幻想郷中で悪事を働き、非常に治安が悪かった。巫女は強かったが、所詮は人間に過ぎなかった。吸血鬼の長・スカーレット伯爵やその召使い達との死闘を繰り広げ、最期は伯爵と共に死に絶えた。伯爵の長女・レミリアが講和を持ちかけ、紫がそれを承諾したのは記憶に新しい。
「脆いですわ...。人間は...」
レミリアが紫の元から去った後、紫は自分の式である藍にそう呟いた。藍は主の言葉に、何も答えなかった。
(まだ若いわね、藍)
巫女が居なくなれば、また新しい巫女を探さなければならない。されど、幻想郷にそのような人材がいないことは、巫女が死ぬよりもっと前から気づいていたし、だからこそ、それなりの霊力を持つ男との間に子を作れと巫女にも幾度となく警告した。それでも、巫女は、そんな曖昧な気持ちで、子は作りたくない。子は作るのではなく、神からの恵みなのだと紫に論じていた。
馬鹿馬鹿しい。
そして、愚かだ。
人間の感情など、【幻想郷】には関係ない。【幻想郷】に必要なのは、それを管理する者ただそれだけ。結局、巫女は子を作るどころか相手も持たぬまま、ぽっくり死んでしまった。そして、いつもいつも後処理をするのは、紫とその式だけだった。
哀れなその亡骸は、妖怪の手によって地に帰り大地の恵みとなった。
「藍、少しの間家を空けてるわね。留守を頼むわ」
「はっ」
「さてと...次の人間はどんな娘かしらね」
扇で口元を隠す。でもその頬に紅は無かった。