奥底に潜む影
この家に来て半年程経った頃。
佐登美は1人、休日を過ごしていた。
文也は今日もまた、急な仕事を頼まれ夜明け前に出かけて行った。ここのところずっと、休む事無く働いている。
重蔵と敏子の2人は、佐登美の休みの日は決まって何処かへ出掛けて行く。
1度出掛けると、夕方迄は帰って来ない。それは佐登美にとっては、好都合だった。
文也の居ない時間をこの両親と過ごすのは、精神を擦り減らし、体力を奪われ……苦痛の何物でもない。
佐登美は、久しぶりに寛いでいた。
慌ただしく其々を見送ると、1人になったリビングのソファの上でほっとしていた。
普段、佐登美が寛ぐのを嫌う敏子。口に出す事は無いが、監視されている様な視線を常に感じていた。
ほっとして、気が緩む……
つい……うつらうつら…………
佐登美は目を閉じ、ソファに身を任せた。
シンとした空気の中、柔らかいまどろみに、
身体が心地良く沈み始める。
薄れる意識の中で、微かに
ズッ……ズッ……ズッ……ズッ……
家の奥の方から……
睡魔との戦いの中……面倒で……このまま……
そう言えばこの家に来てずっと、頭の片隅で聞こえてた。
何だろう?何かを引き摺ってる。
……ズルッ………ズルッ……
記憶が途切れ
気のせいだろうか?さっきよりも近い気がした。
不思議な感じがした時、あの匂いが鼻を突いた。
目を開け……瞬間‼︎
何かが、佐登美の腕をギュッ‼︎と掴む。
その冷たい感触に飛び上がった。
「ひっ‼︎」
頭の中が朦朧としたまま、何かを夢中で払いのける。
何かがザザザッ‼︎と、音を立て、奥へと…………
一瞬だったのだろう。
次の瞬間には、何も無かった様に静かになった。
「な、何っ⁈……」
必死に聞き耳をたてるが、自分の心臓の音が煩くて集中出来無い。身体中の血管が激しく脈を打っている。
「夢?…………違う……違う……」
掴まれた腕に残る冷たい感覚、生々しさ……あの匂い……
怖い!と思った瞬間、夢中で家を飛び出した。
ふらふらとバス停の前を通ると、こちらに向かって来るバスが見えた。
逃げる様にバスに飛び乗った。
家がだんだんと遠くなると、周りの音が耳に入って来て、人のいる事にほっとした。
気付くと、財布と携帯を力いっぱい握りしめていて、掌には赤く跡がついていた。
約30分程で佐登美は実家にいた。
息を切らし立ち尽くす目の前には、突然蒼ざめた顔で駆け込んで来た娘に驚く母、早苗がいた。
「どうしたの?」
早苗が聞いた。
訳の分からない早苗をよそに、佐登美は唐突に今あの家であった事を話し出した。
信じ難い話に早苗は戸惑うが、やがて、
「何?……ホームシック?」
そう言って掃除機をかけ始めた。
「違っ!……何でそう言う話になるのよ」
「勝手に学校辞めちゃって、勝手に籍入れて、何にも言わずにいきなり家出て行っちゃって……あちらのご両親と、同居してるんですって?知らなかったわ!何?今更‼︎」
「だから……だから今はその話はやめて!……
何か有るのよ!あの家」
忙しく掃除機をかけ、上の空で聞いてる早苗を追い掛け回しながら、掃除機に負けない声で必死に話す。
自分の反対を押し切って結婚を決めた娘に、多少の腹癒せを交えながら、鬱陶しげにその手を止めようとしない。
「何言ってるの?いきなり同居で大変でしょうけど、あなたが好きで選んだのよ。
あれだけ反対したのに……根を上げるのが早過ぎるんじゃない!」
「違うの!ちゃんと聞いて、あの家変なのよ……」
佐登美は痺れを切らし、早苗から掃除機を取り上げスイッチを切った。
「変?……まさか幽霊でも出たって言うの?」
「……どうしよう。帰りたく無い!」
「何馬鹿な事言ってるの!少し窮屈になって疲れが出ただけよ。あなたはもう、石上家の人間!そうなった以上、出戻り何てみっともない真似しないでよね!」
「絶対何かいる……」
怯える佐登美の様子に、早苗は理解する事を拒んだ……ただ辛抱の足り無い娘を見る目で、ため息をつく。
「あなたらしく無いわね……帰りに文也さんに迎えに来て貰いなさい」
そう言い放ち、佐登美の手から掃除機を取り返し忙しなく家事に戻った。
夕方、佐登美の携帯が鳴る。文也からを確認すると、そのまま無視した。
焦ったそうに早苗が携帯を取り上げると、迎えに来る様に告げ、佐登美に代わる事無く電話を切った。
佐登美が代わる事を拒否したからだ。
「晩ご飯食べてから帰りなさい」
半年ぶりに佐登美は、実家で食卓を囲んだ。とても懐かしかった……暫し、このほっとする感覚を忘れていた。
佐登美を厳しく監視する敏子の存在。ずっと、解放される事の無い緊張感……確かに、自分は疲れていたのかもしれない。
早苗は笑い話の様に、佐登美の話しを文也に聞かせている。
あれ程文也との結婚を反対した早苗が、文也を交えて和やかな時間を過ごしている。
反対に、義理の息子が出来てはしゃいでいる様にも見える。
結局のところ、自分に従わない娘に腹を立てていただけなのかもしれない……
対照的に、父の耕一郎はあからさまに仏頂面を崩そうとしない。
早苗の
「ねぇお父さん」
の言葉に表情を変える事無く、話に加わる事もしない。
「えっ?幽霊?止めてくれよ。家の家族はずっとあそこに住んでるけど、今迄そんな話、聞いた事も無いよ」
文也は笑いながら否定した。
「大丈夫だよ!幽霊だろうが何だろうが僕が付いてるから、だから一緒に帰ろう……佐登美」
「文也さん!佐登美をよろしくね」
「はい!」
文也は自宅にいる時よりもよく喋り、良く笑顔を見せている。嫁の実家だから気を使っているのか……と言うより、重蔵や敏子の前の文也の方が、気を使っている気がする。
佐登美は仕方無く、文也とあの家へ帰る事にした。
帰りの車の中、文也はさっきと打って変わって一言も喋ら無い。
佐登美も、何を言っても否定されるのは分かっている。もう何も話す気持ちにもならなかった。誰にも信じて貰え無い事に、もはや夢だったのか?むしろ夢であって欲しいと思い始めていた。
駐車場に車が停まると、佐登美は渋々車から降りる。
玄関へ向かう文也の後ろを早足で追う。
扉を開ける文也に隠れる様に中を覗くと……いきなり仁王立ちした敏子が目に入った。
『目ん玉ひん剥いて』とよく聞くが、まさにこう言う事なのかと思える表情の敏子がいた。
「こんな時間に、ふしだらな娘だ!いったいお前の親はどんな躾してんだい!」
いきなり敏子の罵声が飛んで来た。
「母さん‼︎」
文也が遮るが、敏子は辞めようとしない。
「遊び歩いて迎えに来させるなんて図々しい。なんの役にもたたないんだから、さっさと出て行けばいいんだ!」
「止めろ‼︎」
文也は珍しく声を荒げ、敏子に反発した。
「なんだい……お前……」
敏子は文也を睨み付け、足元のスリッパラックを蹴飛ばし威嚇する。
動じない文也と暫し睨み合い。
「ふん‼︎」
敏子は、悔しげにリビングに消えて行った。
文也の硬直した顔が、佐登美を見てほころんだ。
「心配で……多分、愛情表現なんだよ」
「愛情?……表現?」
敏子の言葉からも、文也との様子を見ても、その言葉はどちらからも感じられ無い。