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義脳から発見されたムシの残骸。どこかの誰かによって生み出された悪意の塊は、便宜的に『コピーキャット』と名称が決定した。しかしエレンは、ムシはあくまでムシとしか呼ばない主義だった。
コピーキャットは、感染力は非常に低いが、しかし侵蝕性は極度に高い。より強固なプロテクトだけを選択し侵蝕するという、実に奇妙なプログラムだ。しかもその侵蝕方法というのが、ネット上に溢れる人間の行動を模倣し進化しているというのだから、なおのことタチが悪い。そして何より、プログラムが自らに課した制限である。この制限がどのような効能を発揮しているかは不明だが、ひとたび制限の枠から外れてしまえば、ムシは爆発的に感染する恐れがある。その事態だけは避けたかった。
果たして、このようなムシを造ったのは何者なのか。それを探ることも、外注の対ムシ部隊である指定管理組織の仕事だった。
エレンと恭介の二人を乗せた偽装バンは、神田周辺の駐車場に停まっていた。エレンが集中して調べごとをしたいので、停まってくれといったからだ。
そしてそのエレンはというと、シートをリクライニングさせて、身体を横にしているところだった。
「ハル、バックアップお願い。もう少し調べてみるから」
彼女は一言そう言うと、目をつむり、眠りに落ちた。電脳空間へと意識を送ったのである。
さて、そういうわけで恭介は一人取り残された。メモ帳片手にいろいろと見てみたが、どうにもそれだけではなにもわからない。いったい、このムシの制作者の意図はなんなのか?
恭介は、かけていたメガネのフレームにふれた。スイッチオン。これはただの視力矯正具ではなく、拡張現実表示可能なデジタル・アイウェアである。拒絶症である彼にとっては、このメガネだけが唯一電脳化者の世界に近づける道具だった。だが、もちろんこれで電脳化と同じ効用を得られるはずがない。すべてには限界がある。
恭介はため息一つ。それからデジタル・アイウェアを操作する。フレームに内蔵された三次元スキャナーが彼の手の動きを認識。また眼球の動きをトレースするアイ・トラック・コントロールで、彼はレンズに描き出されるデータを操作する。
恭介は、紙に書き殴ったメモをデジタルデータに変換。さらにそのメモ書きを元にして、今回の事件と似たような事件が無かったか警察庁のデータベースに検索をかけた。さらに同時、国立情報学研究所のデータベースにアクセスし、類似したムシのデータをリストアップしていった。
このようなことは、彼にとっては朝飯前だった。警察庁にいたころは、ずっと資料の整理係だったからだ。朝から晩まで延々と情報とのにらめっこが続いた。「電脳化者や義脳にやらせればすぐ済む仕事なのに。なんでCBDDのお荷物の受け皿にするかな」などと言われながら。
恭介はそれが悔しくて、CBDDでもこれぐらいの仕事はできると立ち向かった。しかし、結局は上からクビを宣告されるのを待つだけだった。
――俺はここまで来てなにをやっているんだろう……
データベースから事例を洗いながら、彼はぼんやりと思った。
そうして調べているうち、彼は警視庁がかつて担当した事件の中に似たようなムシが使われた事例を見つけだしたのだ。
それは五年前の事件。当時大学生だった男が警視庁のシステムにムシを忍ばせ、新宿署のパトカーを数台暴走させたというものだった。この事件により少なくとも三人の警察官が怪我を負い、一般人にも被害が及んだ。そしてその際に犯人が走らせたムシが、今回のコピーキャットと基盤構造が非常に酷似していたのだ。
恭介は、さらに犯人の情報と、事件の続報を同時に検索をかけた。
データベースにヒットあり。事件後、逮捕された男――牧留一は懲役八年を言い渡された。
牧の犯行は、当時のプログラマの内でも話題になった。警察を動かし、新宿のど真ん中で派手な玉突き事故を誘発させたのだ。しかもそれまで、新宿署は一切ムシの侵入に気づかなかった。さらに悪い事に、事件当時の新宿駅前では若者向けのネットイベントが催されており、自身の視界をライブ配信する一般人が大量にいた。おかげで日本中の人々が、警察の失態を目撃したのだ。その事件に、一時日本中で物議が醸された。
しかし、この国の人間は三日もあれば日常に戻ってしまう。牧の犯行は一部では警察権力への反抗の象徴としてカルト的人気を得たが、しかしすぐに忘れ去られた存在になった。その原因の一つとして、彼が犯行の理由をいっさい語らず自首し、しかも大人しく有罪を受け入れたことがあった。結局、彼がどうしてこのような犯行に走ったのかは誰にもわからないまま。すべては闇に消えた。
そして、そんな牧留一がいま、仮釈放の状態にあるというのだ。
考えられる可能性は二つ。牧が新たな犯行に及んだのか。それとも、牧のフォロワーが彼を騙った犯行でもしようとしているのか。
恭介はその仮説を自分のメモ帳に書き殴った。そして、アイウェアに表示されたすべてのウィンドウを消して、電源を落とした。
このような同時作業は彼の特技だが、問題はとてつもなく疲れることだった。疲れた目を押さえて、恭介はシートにもたれた。
するとちょうどそのとき、エレンが起きあがった。
「ねえ、重要参考人らしき人物がわかった」
「牧留一。違うか?」
と、恭介は書き殴ったメモ帳を見せる。
エレンはそれを見て、驚いたようだった。
「なんだ、アンタなかなかやるじゃない。拒絶症のくせに」
「どうも。でも、そのほめ言葉は言われ慣れているんだ」
*
《さっきのムシ、五年前にあった事件に使用されたムシと類似する基盤配列だった。犯人はちょうど二週間前に仮釈放になってる。名前は牧留一。北区のアパートで観察保護を受けながら、在宅のプログラマとして働いている模様》
牧のアパートまで向かうなか、エレンは坂本への報告を続けていた。
《了解。それで、いまからそこへ行くのね?》
《まあ。接触しだい、また報告する》
《お願い。気をつけてね》
通信終了。
エレンは、坂本の電脳空間から現実に戻ってきた。
クルマはケイヒン・ライン沿いに北区へ進む。駅から少し離れたアパートが、牧に与えられた住居だった。
そこは商店街からも遠く、近くにはコンビニエンスストアが一軒あるだけの小さなアパートだった。周りには同じようなアパートが何軒か連なっているだけで、他にはなにもない。
仮釈放の身にある牧は、月に二回の保護観察をのぞいては、いたってふつうの生活を送っているとの話だった。保護司の話でも、プログラマとして生活できるのは、彼にとって長年の夢で、非常に充実した生活を送っていたという。そんな彼が再び罪を犯すようには見えない、とも。
しかし、人間には裏と表があるものだ。
恭介は偽装バンをアパートの駐車場に停めると、エレンとともに牧の部屋を訪ねた。彼は二階建てのアパートの一階、その奥の角部屋に住んでいた。
一回、インターホンを鳴らす。個人番号識別付きのセキュリティドアだ。室内にいる牧には、訪問者は準警察企業であると情報が開示されているはずだ。
しかし、インターホンを幾度鳴らしても、牧は出なかった。恭介は執拗に鳴らしたが、それでも出ない。
「代わりなさい」
と、しびれを切らしたエレン。
彼女は革ジャンにポケットを突っ込んだまま、右足を突きだした。どすん、と強い衝撃。玄関が一瞬ではずれ、奥に倒れた。完全義体がなせる技だった。
「おい、エレン。勝手に入るのは……」
「牧は何度インターホンを鳴らしても出なかった。こっちは公安員会指定の警察企業だって開示してる。なのに出ないのは、公務執行妨害になる可能性だってある。だから、いいの」
エレンはそういって、土足のまま部屋の中に入っていく。玄関をすぎても靴を脱ごうとする様子はなかった。
牧のアパートは想像以上に暗く、散らかっていた。カーテンというよりも暗幕のような分厚い布で窓は覆われていて、光は一切差し込んでこない。電気もついておらず、人気はまったくないといって良かった。
床は食べカスと包装紙で埋まっていた。ゴミ箱からあふれるお菓子の包装紙。どろどろに溶けたチョコレートがカーペットに染み着き、もうとれなくなっている。
「牧は在宅のプログラマのはず……。買い物にでも出掛けているのか?」
「さあね。やつが帰るまで待ってる?」
「ドアを壊したくせにか?」
「言っておくけど、私は正しい判断をしたつもりだから」
「ああそうかい」
エレンは頬を膨らませて、むすっとしてみせた。
それから二人は牧のアパートを見て回ったのだが、彼はどこにもいなかった。ある場所をのぞいて。
それはユニットバスだ。牧は完全義体では無いから、排泄行為だってふつうにする。だが、今の今まですっとトイレにこもっていたとでも?
恭介はいやな予感がしたが、エレンは問答無用でドアを蹴破った。
そのとき、エレンは妙な手応えを覚えた。ドアを破っただけではない。何か、ぐねりとしたものを踏みつぶした感覚。肉か何かを踏みつぶしたようなイヤな感触だ。
エレンはすぐに飛び退いて、ドアの向こうを確認した。
いやな予感は的中した。
そこには、トイレに座る腐乱死体があったのだ。