もし死角を見つけたら
【第二章 もし死角を見つけたら】
家に帰ったら妹がのびていた。
そこはダイニングルームに繋がる扉の前で、夏場の日焼け跡が残る小麦色の腕と脚はぐったりと力なく横たわり、「部活で邪魔になるから」と短く揃えている髪が、さながら二時間サスペンスの被害者のごとくフローリングの床に広がっていた。
すわ事件かと一瞬ビビッたものの、帰宅した時に玄関はきちんと施錠されていたし、彼女のお気に入りの部屋着であるカエルさんパーカーワンピにもこれといった乱れはない。
――なんなら、その指先は水性インクらしき塗料で【ごはん】などと床を汚す始末。
願わくはこれが身内でなければ……と祈りを捧げてみるものの、さっきからチラチラこちらの反応を盗み見る顔は、もはやどうしようもなくわが家の愚妹――蕗であった。
「……廊下、ちゃんと掃除しとけよ?」
「……アキにぃの塩対応に心が折れそうだよ」
なら最初からしなければいい。
よくわからない苦言を黙殺して跨ぎ越えようとすると、蕗はむくりと身体を起こして歩みを阻害してきた。
「ねー、アキにぃ遅くない? なにしてたの? あわれな空腹の妹を放ったらかしてさー」
「買い置きの菓子パンがあっただろ。食べなかったのか?」
「食べたよー。もう食べ尽くしました」
なん、だと……?
食べ尽くした? 今朝の時点ではたしかにあったはずの、お買い得サイズのメロンパンとナイスなスティックを?
「もう毎度のことだけど……そのちっこい身体のどこに吸収されてるんだ?」
「ちっこくないわ! 前にならえだってうしろから十六番目だわ!」
眦を吊り上げて妹が叫ぶ。どうでもいいが……それ、小さくないか?
俺も卒業した地元の中学校は、たしか一クラスが三十六人の編成で、そうすると女子は約十八人ということになる。それで後ろから十六番目なら……
「か、数え直すなーっ!? このアホ彦! ファンタスティックギャラクシーエロス!」
「おい! …………身内の口からそっち方面で罵倒されるのは、こんな俺でもさすがにダメージ負うのでやめてください……」
兄として切実なお願いである。
あってないような地位を守るため、兄はなりふり構ってなどいられない生き物なのだ。
「ったく……すぐに夕飯の支度するから、おとなしく待ってろ。もう風呂には入ったのか?」
「ううん。部活のあとにシャワーだけ浴びたけど」
「だったら先に入ってこい。その間に作るから」
「はーい。今日のメニューはなんですか?」
「鰆のピカタだよ」
「ええー……魚なの……?」
蕗が不満そうな声をあげる。
やかましい。食べるしかしないくせに文句を垂れるんじゃありません。お前がそう言うと思って、せめて洋風に寄せてやったんだろうが。骨はずすの面倒くさいんだぞ、あれ。
「桂姉はどうした。まだ帰ってないのか」
「文芸部の会議が長引いてるんだって…………って、わが家のコミュにメッセージきてたんですけど?」
「そうなのか? じゃあ、あとでまたアプリの見方を教えてくれ」
「まだ覚えてなかったの!?」
さながら宇宙人でも見つけたかのような目を向けられる。
おいおい……自慢じゃないけどな、兄ちゃんまだスマホ自体あんまり慣れてないんだ。最新機種のゲーム機を一日で使いこなすお前とは違う。購入して一ヶ月なんて、俺からすればRPGのチュートリアルみたいなものなんだ。俺たちの戦いはまだまだこれからなんだよ。
「信じらんない……山梨のじーちゃんですら、ソシャゲのハイランカーなのに……」
「金と時間を持てあました隠居生活の老人と比較するなよ」
「興味あるかないかの問題だと思うけどなあ……あ、そうだ。スマホの使いかた教えてあげるからさ、今日の晩ごはんハンバーグにしない?」
「却下。そもそも挽き肉のストックがそんなにない」
「うぅー……じゃあお風呂で背中も流したげるからさー、せめてボリューム増やそうよー。魚だけだと食べた気がしないんだよー……」
妙なしなを作って蕗が縋りついてくる。
こいつ、今日は重度の腹へりモードか……。
「…………鰆を天ぷらにして、天丼にする。お前の好きな玉ねぎとゴボウも大量に揚げてやるから、それで妥協しろ」
「わはーい! アキにぃ、お風呂でサービスしたげるからね!」
「やかましいわ。ふざけたこと言ってないで、さっさと自分の用を済ませてこい。廊下の片づけも忘れるなよ」
飛びついてくる妹をかわして、さっさとキッチンに向かう。背後からブーイングがあがるが構ってなどいられない。おかげで余計な手間が増えたのだ。
溜め息を吐きつつ材料の下処理をはじめると、扉の向こうで軽快な足音が響いた。しばらくするとかすかなシャワーの音が聴こえてきたのでゴボウを削ぐ手を速める。
桂姉には訊きたいことがあったのだが、いないのなら仕方がない。
とりあえずいまは飢餓状態のお子様のため、夕飯の準備を急ぐとしよう。
そうして米が炊きあがり、よく熱された油がパチパチと小気味よい音を鳴らしはじめた頃、機を見たかのように玄関から「ただいま〜」とやわらかい声が届いた。
◇
いただきます、と三人揃った唱和のあと、どんぶりと箸を手にする。
すこしだけ白米を冷ましたおかげで熱くはない。合わせる具材がなんであれ、丼物とは勢いよくかっこんでこそ真の味を発揮する料理だ。なんでもかんでも熱々にすればいいという考えでは、決して至高のどんぶり料理には辿り着けないと俺は思う。
……と、そんなどうでもいい考察はそこそこに、器を口元へ引き寄せた。
正直、空腹である。
これが夏場なら、揚げ物などすれば作り手の食欲も減退するものだが、この時期は気温的にまだ肌寒い。
さらに予定外の頭脳労働も相まって、空っぽの胃が「はやく栄養をよこせ」とばかりに食欲を増幅させていた。
その要求に逆らうことなく、どんぶりに盛った最適温度の食事を勢いよく頬張る。
黄金色にカラッと揚がった天ぷら。噛みしめればサクサクと衣が割れ、薄く下味をつけたゴボウの香ばしさや、玉ねぎの甘みがじゅわっと口いっぱいに広がる。
そこに白米のもちもちした食感が合わさり、続いて大葉の軽やかな歯ごたえがあとを追う。
――なにより、本日の主役である『鰆』。
薄めの衣と共にほろりと身が解ける。
あっさりした味ながらその旨みは濃厚。直前に和えた甘じょっぱい出汁醤油のタレが、さらに魚の風味を引き立てる。
当然、箸休めの白菜の浅漬けや豆腐の味噌汁にも抜かりはない。
もはや食卓についた誰もが余計な言葉など発さず、どんぶりの底の米一粒を味わい尽くすまで、黙々と箸を動かし続けるのであった――――
「ふへあ…………おいしかったー……」
恍惚とした表情で箸を置いた蕗が言う。
うむ。なにやら奇妙な声が漏れたあたり、充分に満足できる食事だったようだ。
そんな判定方法はすこぶる嫌だなとしみじみ思いながら、俺は姉さんの淹れてくれた食後の茶をすする。
「本当に美味しかったわ、暁彦ちゃん。ごちそうさま」
「ん。おそまつさま。口に合ったならなによりだ」
「もちろん。暁彦ちゃんの作る料理は、どれも最高だもの」
褒められれば嬉しいのは人の常だが、さすがにその言い回しは大仰ではないかとも思う。
この活発な妹とは対照的にほんわかした姉――新屋桂は、積極的に身内を称賛したがる傾向にある。
長姉という立場ゆえだろうか。だが、年上といっても俺と一つしか変わらないのだ。さすがに歳の近い人間に真っ向から褒められると、いくらなんでも気恥ずかしい。
そうして閉口する俺を前に、桂姉はふいに眉尻を下げる。
「……暁彦ちゃん。いつもお料理してもらって、私はとても嬉しいし助かるのだけど……暁彦ちゃんは大変じゃないかしら? 今年から高校生だし、宿題の量も増えたでしょう?」
「気にすることないよ、ネエやん。アキにぃは料理が趣味みたいなものなんだからさ」
「そうそう…………いや、待て。蕗がそれを即答するのはおかしくないか?」
「ねえアキにぃ、知ってる? いちいち細かいこと気にする男子はモテないんだよ?」
溜め息混じりに蕗が言う。
その「わかってないな〜」という、呆れかえったような顔。
こいつにはいずれ、なんらかの形で兄の威厳というものを思い知らせてやる必要がある。
「でも……」
「まあ蕗の言う通り……こいつに代弁されるのはものすごく納得いかないけど……なんにしても料理当番はそこまで負担になってないから、別に気にしなくていいよ」
それに桂姉は部活があるし、蕗に至っては料理を覚える気がない。
とくになにをしているでもなく、料理もそれなりに得意な俺が当番をするのが一番合理的だ。
「だいたい桂姉は洗濯当番してくれてるだろ? それで充分だよ……どっちかといえば、たった週三回の風呂掃除ですらサボろうとする蕗の方が問題なわけで……」
「めんどくさいお風呂掃除するくらいなら、あたしはアキにぃをキレイにするよ!」
「兄と風呂場のカビを同列で扱うのはやめろ」
なんて妹だ。
「うふふ。蕗ちゃんは本当にお兄ちゃんが大好きなのね」
そして相変わらずのんきな桂姉が、ふわふわと正気を疑う発言をする。
普通、兄を大好きな妹は、兄の肌をお風呂用洗剤でボロボロにしようとはしないと思う。
「あー、そうだ……桂姉、同級生で“織目”って女を知らないか?」
「おりめ……? えっと……う〜ん、たぶん同じ学年にはいないと思うのだけど……ごめんなさい、私もちょっと学年全員の名前は把握してないから……」
「そっか。いや、知らないならいいんだ」
あまり期待はしていなかったので、とくに肩透かしという感もしなかった。
ならば彼女はさらに上の三年生か、あるいは別棟の特別クラスなのかもしれない。あれほどの知識を修められる頭なら、有り得ない話でもないだろう。
ちなみにうちの高校には「特進科」「英語科」「普通科」といったコースがある。桂姉は二年、俺は入学したてで、ともに普通科の所属だ。
ちょっとした進学校であるうちの特進科は、最難関ではないもののそれなりに敷居が高い。県内都市部の大鷹宮にある有名私立よりはマシなのだろうが、受験合格は普通科とは較べようもない高難易度だ。
とりたてて進学に意欲的でない俺など、最初から選択肢に数えてさえいなかった。
「その織目さんに、暁彦ちゃんはなにかご用なの?」
「別に用事ってわけじゃないんだけど……」
さて、どう説明したものだろう。
そのまま話して信じてもらえるだろうか。
“うちの学校にライオン頭の女子生徒がいるみたいでさ”――と。
……だめだ。信じてもらえないどころか、まず俺の頭が疑われる。
蕗など嬉々としていじり倒してきそうだ。
仕方なく今日の出来事を端折って説明することにした。それはもちろん、自分が仕掛けの謎に気づいたのだという部分も。
俺に拾った牡丹餅を見せびらかして回る趣味はない。
結局、適当にぼかした女生徒の正体に二人はさほど興味を示さず、どちらかといえば機巧を用いたロマンチックな贈り物の方が気になるようだった。
奇妙な女子高生・織目さんの情報はゼロ。
とはいえ必死になって探りを入れるほどの関係でもない。学年や選択コースが違えば在学中に会話を交わす機会もすくないのだ。地方都市の公立校としては、うちにはそれなりに多くの在校生がいる。
そもそも、あの怪しすぎる風貌の人物と親交を深めたいかといえば、答えは限りなく否だ。
俺は普通の高校生活を送りたい。ありふれた日常でいい。
それがいかに貴重なものか、俺は身に染みて理解している。
なのに……なんか気になるんだよなあ、あの人。
なんでだろう?
まあ気が向いたら学校で訊いてみるか、と思い直し、俺はケイ姉の食器洗いを手伝うべく席を立った。