獅子とアンティーク 8
夕まぐれの涼やかな風が吹いた。
暗がりに包まれだした朧森の気温は、ともすれば肌寒くすら感じるほど。
汗ばむくらいの夏の陽気も深く閉ざされた森の奥までは届かない。あらかじめ薄手の上着を羽織ってきたが、これが半袖のシャツ一枚なら身震いしていただろう。
空気が冷えていた。
物理的にも、心象的にも。
「えっ、と……暁彦? いま、なんて……」
最初に口を開いたのは大和だった。
他の面々はいまだ魂の脱け出たような、こう言ってはなんだが、すこし間抜けな顔で固まっていた。
驚くかなという予感はあったものの、まさかここまでとは……。
たぶん桂姉やミシェル、それに大和あたりは察してるんじゃないかと思っていたのだが。
「だから、織目さんの祖父さんの遺産を探すんだって。……なあ、早く行かないか? そろそろ寒くなってきたんだが」
「いやいやいやいや…………おかしいでしょ? おかしいよね? 本当の遺産ってなに? じゃあさっきの小判はなんだったの? 圧倒的に説明が足りてないって自覚できてる?」
こいつがここまで慌てるのも珍しいな。
普段の意趣返しにしばらく焦らしてやろうかと思ったが、冷えてきたのも事実なので、要望に応えることにした。
「……とりあえず、移動しよう。話は歩きながらするよ」
目的地まではすこし距離がある。
歩いていればじきに身体も温まるだろう。
相変わらず歩きづらい小径の上空を、季は盛りとばかりに伸びた枝葉が覆っていた。
黄昏を迎えた森は、神秘とも幻妖ともつかない日常から隔絶された異界のような気配を漂わせている。太古の人々がこの地に人ならざる存在を見出したというなら、それも素直に信じられそうなほど。桂姉にしがみついた霧小路さんがガタガタ震えているのもさもありなんといった風情である。
もうそろそろ明かりが必要だ。俺はショルダーバックから小型のペンライトを出して、うしろのメンバーに配った。
全員分ではないが、二人で一つずつ使えば用は足りるだろう。
「随分と準備がいいね」
「まあな」
夕方に集合する時点で帰りは遅くなりそうだとは想定していた。
あの御曹司がこちらの安全にまで配慮するとも思えない。万が一のために最低限の備えはしてきてある。
安物のペンライトの先を捻じると灯りが点いた。
なんとか視界を確保できたところで、いよいよ話をはじめることにした。
「さて、どこから説明するか……」
「あのさアキにぃ、結局あの小判は誰が埋めたの? もしかして、ニセモノ?」
うしろから蕗が疑問を投げてくる。
ふむ……なら、そこからはじめるか。
「確証はないが、あれはおそらく本物だ。あと埋めたのは獅賀貴嗣で間違いない」
「ははあ……となると、あの遺産は囮ってこと?」
「一方の側面だけ見れば、まあそうなるな」
大和が要領をえないといった顔をするが、こればかりは故人の意思だ。この場で明言はできない。
憶測だけど、と前置きして、俺はいつも通りの論述をはじめた。
「以前、とある会社の元会長が、獅賀貴嗣を評してこう言ったんだ。“経営の手腕に秀でた人間ではない”とな。だが同時に破滅しかけの獅賀家を建て直した才人であるとも言っていた。
では織目さんの祖父が持っていた才覚とはなんだったのか。
……俺は、先見の明、ってやつじゃないかと思ってる」
獅賀貴嗣は古い年代の人間には珍しく公私をきちんと分別する性格だった。
うつろう時代の機先を読み、いち早く海外の富裕層と縁を繋いで、傾いた名家を再興してみせた。
もちろん本人の趣味がたまたま彼らの嗜好と合致した幸運もあるとは思うが、好景気にただ沸きたつ当時の人々とは一線を画す視点の持ち主だったのだろう。また骨董品の本当の価値を追求しようと尽力した愛好家だからこそ、海の向こうの筋金入りのコレクターたちにも受け入れられたのではないだろうか。
「たぶん獅賀貴嗣は、自分が死んだあと、明臣がどういう行動に出るか予測してたんだ。だから暗号の答えもあらかじめ二つ準備してあった」
「じゃあ、さっきのあいつの推理も間違いじゃなかったの?」
「そういう風に誘導したんだろうけどな。文章の表面だけを素直に読み解けば、遅かれ早かれ刑場の石碑に辿り着く。たぶんあの高価な金貨が御曹司に宛てた遺産だったんだろうさ」
身を乗りだした蕗はその答えに不満そうな表情を浮かべる。そんな顔をされても、実際に遺産が埋まってたんだから仕方ないだろう? 文句は織目さんの祖父に言ってほしい。
「それで? 暁彦はもうわかってるんだよね? 暗号の素直じゃない読み解き方ってやつをさ」
その言い方はやめろ。それじゃあまるで俺がひねくれ者みたいだろうが。
からかうように薄ら笑う大和を睨み返して、苛立ちまぎれに鼻を鳴らした。
「……あの文章の本来の意味を知るには、もっと深い踏み込みが必要だ。そしてそれは挑戦者が“いくつかの条件”を満たさなければ辿り着けないようになっている」
『兄様は、その条件を満たしていなかったということですか……?』
「ああ。さっきの話を聞いた限りだと、獅賀のお坊ちゃんにはまず不可能だろう」
「ねえアキにぃ、ここまできてあるなしクイズ? もうやめようよ……あたし、そういうの苦手なんだから」
別にそんなつもりはなかったが……。
だがたしかに、こいつはとんちなんかの捻った問題は苦手そうではある。
そもそも正解を探すまで集中が続かないだろう。興味がなければさっさと放り出してゲームでもはじめそうだ。その辺、こいつとミシェルはよく似ている。
焦らす意味もないので、積った不満を爆発させかねない妹のためにも、さっさと種を明かすことにする。
「問題を読み解くには“菩薩の知恵”が必要なんだ。最初の鍵は、織目さんが握ってる」
『……え?』
いきなり名指しされた隣の織目さんが、調子はずれの声をもらす。頼りない灯りに照らされた他の面々も、狸に化けた狐でも見つけたかのようにきょとんと呆けていた。
当然、説明はまだ途中である。
しばし皆様のお耳を拝借。どうか最後までご静聴いただきたい。
「獅賀の坊ちゃんは偽フェルメール人形を地図だと断じた。その捉え方は正解から大きく外れるわけじゃない。……恨み節じみた文章の配置は、たしかにあるものの位置を示している」
だが、それは元刑場の空き地ではなかった。
「最初にそこの名前を聞かされた時、すこし違和感があった。いくつかあるうちの一つだけ、なじみのない名称がまじってたんだ」
「な、名前?」
「そう。……ところで話は変わるが、織目さんは骨董品に関する罪といえば、なにを思い浮かべる?」
適役だろうと、専門家に質問を振る。
多少慌てた彼女は、しかし、すぐに記憶を辿るように答えを考えはじめた。
『えっと、過去にあった事件でしたら……やはり窃盗でしょうか? 研究家の方達の間では、アンティークのオーナーが亡くなった際に、一緒に棺に入れられてしまうことなども問題視されますし……あとは……』
その時点で、周囲から小さく息をのむ反応があった。どうやら何人かは察したらしい。
「……ねえ暁彦。きみが言いたいのは、もしかして……」
疑惑をたしかめるように大和が口を開く。
続きを引き継いで、俺は言った。
「たぶんそれで合ってると思う。――獅賀貴嗣の遺した暗号は“アンティークの愛好家”の視点で読み解いていくんだ。だからこそ、骨董品をガラクタとしか思えない御曹司には理解できなかった。
見取り図なんてアイテムは必要ない。出題者が求める鍵は他にある。言ってみればこれは……そうだな、言葉遊びの連想ゲームみたいなものか」
頭の中を整理しながら、そう結論を出した。
みんなは――とくに蕗あたりは、話についてこれているだろうか? 今回はそれでなくとも情報量が多い。多少の不安を抱えつつ、とにかく一つずつ説明を進める。
「話を戻そう。俺が違和感を覚えた名称の件だ。
誰でもいいが、カラスが水鳥だって話を聞いたことはあるか?」
これには全員が戸惑いながらも首を横に振った。
もちろん俺もそんな認識はない。
「この朧森にある池や川の多くは、実際に目撃された水鳥や、形状を鳥に喩えた名前がつけられている。中でも明確に鳥の種類を示したもので、なじみのなかった名称が一つ。
それが森をほぼ縦断する『夜烏川』だ」
薄闇の中で一足早く夜の色に染まった川を指差す。
水音を響かせて滔々と流れゆくその様は、明るいうちには癒しの効果もあるのだろうが、こうも暗いとひたすら不安だけがかきたてられる。
もし水底に落ちたら二度と浮かび上がれなさそうだ。
「カラスは都会だろうがどこにでもいるし、夜行性という印象もピンとこない。だが遠い昔、入霞に暮らす人々は、水鳥の訪れる森に流れる川になぜか夜烏と名をつけた……これは調べてみてわかったことだが、“夜烏”はゴイサギという鷺の別称らしい。なんでも夜間に飛ぶ時の鳴き声がカラスに似ていることから、この呼び名がついたそうだ。
さて……“サギ”だ。骨董品にまつわる罪。暗号の序文は、ここからはじまる」
反応がない。
慌てて振り向くと、全員がそれぞれケータイを覗き込んで、そのあとすぐ互いの顔を見合わせて唖然としていた。
お願いだから声をかけてほしい。
いきなり立ち止まられたら驚くし、ここで放置されると寂しくて死にそうだ。
「……もういいか? 続けるぞ?」
「あ、うん……ごめん」
頼むぞ、まったく……。
「文章は最初の一節を除けば、すべて人形の関節に記されていた。この形状は周辺の池の数や位置とも合致する。順番に照らし合わせていこう」
記憶を呼び起こす。
罪人への呼びかけ。その次は――“死を臨め”。
「骨董品が“死ぬ”瞬間といえばいつだ」
「うーん…………壊れたら、とか?」
「それだと修復されるか、あるいは壊れた状態のままでも、美術館に展示されることだってあるだろう? 機能としてはまだしも、物にとって欠損は完全な『死』とはいえない」
ヒントを示すと、別の場所からすぐに答えが返された。
『……人から忘れ去られた時、ですね』
なんだか悲しそうな声に申し訳なさが湧く。そんなつもりはなかったのだけれど、いささか豊かすぎる彼女の感受性は、悲愴な状況を想起して憂いを覚えたようだ。
やさしい性分も度をすぎれば考えものである。
とはいえ、その人柄と強い想いのおかげで、俺は暗号の解読法に気づけたのだが。
「そう、忘却だ。時が流れて記憶から消え去った骨董品は、存在としての死を迎える……“鴇忘池”。これは時と忘れの語呂合わせだな。次の一節は“過去は価値を失くし”だったか」
すでに死に例えられた池は通りすぎた。
スマホのメモを確認しつつ、凹凸だらけの土の道を進み、まもなく見えるのは……。
「織目さんたちの話を聞いた印象だと、骨董の価値を決定づけている要素の一つは、その品がどんな経緯を辿ってきたかだと思うんだが、間違ってるか?」
『いいえ、合っていますよ。アンティークや美術品の価格を定めるのに重要視されるのは、主に稀少性と来歴です。どんなオーナーの元に渡って、どこで展示されたか……それによって、オークションに再出品される際の値段がプライマリープライスより高騰することもよくあります』
「つまり骨董品は“過去そのもの”が価値になるわけだ。……しかし、反対にその過去の価値が損なわれるケースもある。有名な例を挙げると、日本の保険会社が数十億で買ったっていう絵画かな」
『はい。“贋作だと判明した時”ですね…………ですが、あの、新屋さん? 申し上げにくいのですが、ファン・ゴッホの十五本の『ひまわり』は、あとから専門家の調査で真筆と断定されていますよ?』
「……嘘だよな?」
絶句する。
沈黙したみんなから白けた気配が漂った。
言わずともすでに察せられているが、まあ知ったかぶったのだ。その、なんというか……説明しながら、ちょっと調子づいてきたから。
やはり、不明瞭な情報を口にするべきではないな。
浮かれた自分を戒めつつ、咳払いして目前の湖を指した。
「あれを見てくれ」
「……ねえ、本当にこっちにあるの?」
蕗が疑惑の眼差しを向けてくる。
お前は兄の言うことが信じられないのか。
もういいだろ? な? 忘れてくれよ。今度、アイス買ってやるから。
「偽物だと判明すれば、骨董品は過去の価値を失う。この朧森ため池は人工の貯水池。要するに、偽の池ってことだな」
「暁彦はこれまでの信用を一瞬で失ったよね」
「うるさい」
茶々を入れる大和をいなして、道の先を見据える。
ここで半分ぐらいは進んだはずだ。
しかし、
「……まだ先は長いですね」
こちらの内心を代弁するように芳倉さんがぽつりとつぶやく。
たしかに、目的地まではまだ遠い。広大な上に足場の悪い朧森は、ただ歩くだけでもひと苦労だ。
――だがゴールは確実に近づいている。
先の見えなかったすこし前までとは状況そのものが違う。
宵闇に沈む暗い道は、けれど間違いなく未来へと続いていた。
「行こう。ここまで来れば、もうひと息だ」
自身をも奮起させるように告げて、再び夜の森の探索に踏みだした。
◇
いまは向かう予定はないが、一応はそこも暗号に含まれるので、探索を続行しがてら説明しておく。
「文章の配置で見ると、ため池の反対側にある道が“不義なる富は幻となり”の場所だ。小金井さんが言ってた月の虹とやらの元観測地だな」
「双羽池跡、だっけ? ここはどう解釈するの?」
好奇心をにじませた旧友からの質問に頷いて答える。
「この跡地のことを、霧小路さんが別の名前で呼んでただろう」
「う、ん……小学生の、頃…………クラスのみんなが、おひつじ池跡と、呼んでいた……」
背後から震えた声が返される。
最近はこのメンバー相手なら比較的スムーズに話せていた霧小路さんだが、怯えきった現在はすっかり元に戻ってしまっている。さっき、どうしても無理なら先に帰るように勧めたのだが、うらめしそうに「絶対……いや……」と断られた。
ずっとひとりぼっちだった彼女は仲間はずれになるのを極端に恐れている。
それこそ狼を前にした仔羊のごとく怯える霧小路さんは、我が家のしっかり者の長姉に任せるほかなかった。
「小金井邸で見た地図だと、たしかに鳥というよりは角を生やした牡羊の頭みたいな形だと思ったよ。
……で、これは慣用句だな。『羊頭を掲げて狗肉を売る』だったか。詐欺とほぼ同等の行為を差して“不義なる富”。そこが埋められてなくなったから“幻となり”だ」
「はあ……それにしても、よくこんな複雑な答えを思いついたもんだね」
「そうか? クイズの内容は中学生でもわかるレベルだと思うが」
俺も解けたのは昨日の夕方だが、発想を変えれば答えは芋づる式に引き出せた。
結局、目先の勝負に執着しすぎていたのだ。もっと柔軟に、獅賀貴嗣の視点に立って考えるべきだった。そうすればこれほど苦労もしなかっただろう。
「暁彦は頑張ればペンギンも空を飛べると思うかい?」
「……はあ?」
「なんでもないよ。まったく、無自覚な人間はこれだから……」
いきなりなんの話だ……ペンギン?
俺はそこまで呆れられるようなことを言ったのか?
「あ、見えたよ! 次の場所!」
はしゃいだ蕗の声に会話が途切れる。
しなやかな指の示す先に、弱々しい月の光を受けてかすかに揺れ動く湖面が見えた。
日はすでに沈んだ。そろそろ、解説を再開しないと。
「ここで五つめだな。あてはめる暗号は“死の足元に罪は開かれる”。……これは簡単だろう。『罪』に該当するのは序盤で判明したサギだ。そして『死の足元』は……」
「“す”で巣鷺池、か。五十音表の下ってことだね」
言葉の続きは大和にさらわれた。「どうだい?」とでも言いたげな顔でこちらを向くが、実際の心情はわからない。自分で推理してみたくなったのだろうか?
なんなら、先を引き継いでもらってもかまわないのだが……。
「正解だ……続けるか?」
「遠慮しとく。おれにはこれが精いっぱいだよ」
即答だった。大和は、まるでいたずらを成功させた子供みたいな顔で肩をすくめる。
つくづくよくわからんやつだ。
「じゃあ、次でラストだな」
巣鷺池を通りすぎると、だんだん道が開けてきた。
ここから先は散策に訪れた人たちが通るルートに繋がっていく。わずかではあるが、視界も明るくなった気がする。もう幾分か奮起して歩けば、じきに森の入口へ辿り着くだろう。
同時にそれは、探索の終着が近づいていることを意味していた。
「最後は……すまんが、実はこの文章だけ、意図がよくわからなかったんだ」
にわかに周囲がざわめく。
ここまできて不安にさせるのもなんだが、下手にごまかしてもしょうがない。
みんなが落ち着くのを待って、説明を続けた。
「とはいえ、遺産の隠し場所には見当がついてる。読み方も、たぶんこれだと思えるものなら……蕗、春の花の代表格と言われたら、なにを思い浮かべる?」
「え、は、ハナ? えーっと…………やっぱり、桜かなあ? ベタだけど」
「そうだな。全員とまでは言わないが、日本人なら大多数はそう答えるだろう」
自信なさげな蕗に首肯して、いよいよ足場が整ってきた道の先を見はるかす。
「“亡骸がせめて花の許にあれば”。ここは御曹司の意見とかぶるが、この『花』は前面に記された時期と照らし合わせても桜で間違いない」
「でもさー、この辺りに桜なんてあった? 前に来た時には見なかったと思うんだけど……」
よく覚えてるな、そんなこと。
俺なんて電話で小金井さんに確認するまで把握していなかったというのに。そもそも、前に朧森を訪れた時は風景を観察する余裕などなかった。
「蕗の言う通り、この森に桜の木は自生していない。訊いたところによると、街以外じゃ山の中腹まで登らないと見れないそうだ。
そこでもう一点。桜には他の呼称がいくつかある。正確には品種の銘だが、そっちも有名だろう」
さて、そろそろわかっただろうか。
話しがてら歩くうちに、最後の目的地が見えてきた。
静謐な夜の中に佇むそれを見て、誰かが小さく声をあげた。
「“ソメイヨシノ”――いつか霧小路さんがミヨシ様と呼んだ土地神は、正式なところでは『御善乃』という名前だった。
メッセージの場所は桜を示す。獅賀貴嗣が遺産を隠したのは、あの祠だよ」
誰も言葉を発さなかった。
沈黙が、冷えた空気に滲み込んでいく。
物言わず膠着した視線の先で、朽ちかけながらも厳粛な気配を漂わせる古い祠が、木々の隙間から差した淡い月明かりに照らしだされていた。
◇
遠くから眺めるといまにも崩れ落ちそうに感じた小堂は、しかし近づいてみれば見た目の印象よりもがっしりした造りをしているのがわかった。朱色の屋根や木製の壁は長く風雨に晒された影響か色褪せているが、そこまで汚いとも思わない。おそらく、誰かが定期的に掃除しているのだろう。
『ここが、お祖父様の……』
夢でも見ているみたいに、織目さんがたどたどしい声でつぶやいた。
歩きだそうとして、けれど躊躇うように足を止める。
ライオンの頭が不安定に揺れた。その姿はまるで親を探す迷子に見えた。
「……それで? タカツグが遺産を隠したとして、探すのはこの祭壇でいいのかしら?」
「いや、そっちじゃない」
否定するとミシェルが訝しげな顔をする。
そんなに疑うなよ。さっきの失態はいい加減忘れてほしい。
「せめて花の許にあれば、だ。桜の名を冠する祠自体に隠すのはおかしい」
その点は御曹司も惜しかったのだろう。先入観に凝り固まっていなければ、ひょっとしたら正解に辿り着いていた可能性だってあったのかもしれない。
所感としてはかなりギリギリな綱渡りのような気しかしないが、それでも獅賀貴嗣の目論見はこれで達成されたことになる。
「たぶん、そう遠くないと思うが……」
森の散策コースから祠までは等間隔に平たい石が敷いてある。どれも半ばから土に埋もれかかっているが、お参りに訪れる人を気遣ったのだろう。
それらを一つずつ、祠から近い順に検めていく。
やがて、六つめに手をかけた時――待望していた反応があった。
なるほど。暗号の六番目、か。
「……ここか」
湿った土を払って、敷石の縁に指をかける。ぐらつく石を何度か揺らしてやると、ボコッと引っかかりが抜けたような感触があった。
思ったより深いようだ。しかし一人で持てないほどの重量ではない。
この下がどうなっているかわからないので、慎重に。ゆっくりと重い鉢植えを移動させる要領で石塊を持ち上げる。
やがて、敷石の形にくり抜かれた地面が見えた。
その中心には……
「あ、あれ! なんか埋まってる!」
目を丸くした蕗が指差した先、濡れた黒い土の真ん中に、ビニールに覆われた小型の包みが顔を出していた。
一辺が十七、八センチ程度。ここからだとその包みは正方形に見える。
周りの土を軽くほぐして取り除く。浸水を最も危惧したのか随分と厳重に梱包されているようだ。引き上げるために上部を掴むと、中にカサカサした古紙のような手触りがあった。
場所は特定できたが、さすがに遺産の内容まではわからない。
中身を壊さないようゆっくりと地中から抜き出した。
そうして出てきたのは、片手に収まるサイズの直方体だった。
ビニールの表面についた泥を払って、受け取るべき少女へとそれを差し出す。
「ほら、祖父さんからだ」
『あ……』
呆然としていた織目さんがたどたどしい手つきで小箱を受け取る。その白い指先は危なっかしく思えるほど震えていた。
みんなが固唾をのんで見守る中、包みがそっと土の上に横たえられる。
汚れることを気にする様子もなく、地面に膝をついた織目さんは、繊細なガラスの彫像でも扱うみたいに、丁寧な手つきですこしずつビニールを剥がしていった。
幾重にも巻きつけられた新聞や油紙を除くと、中からは古い木の箱が姿を現した。
どこにも銘はない。
ただ長い時の流れを物語るように、日に焼けて、汚れの染みついた木箱。
封じていた麻らしき紐が解かれると、いよいよ周囲の緊張も高まった。
けれど蓋に手をかけた瞬間、織目さんの腕は動かなくなった。
「サヨコ」
名前を呼ばれて、力の入った華奢な肩がビクッと跳ねる。
気がつけば、異国の少女が織目さんのすぐ傍まで歩み寄っていた。
「そのマスクを預かるわ」
『え? ……あ、あの……』
「逃げてはダメよ。いまはちゃんと自分の目でたしかめなさい」
こんな状況であってもミシェルは普段通りだった。
嗜める言葉は相変わらず手厳しいが……きっと、それが彼女の親愛の示し方なのだと思う。
ミシェルは興味のない人間にはそもそも関わらない。
幾度となく交流を重ねるうちに、だんだんとその気質も理解できてきた。
『……はい』
しばらく迷っていた織目さんはようやく肚をくくったらしい。決然と頷いて、ライオンの頭に手をかけた。雛が殻を割って生れてくる時のように、ゆっくりと偽の仮面が引き抜かれる。
いつかと同じ、形のいい額に汗で貼りついた前髪。深窓の令嬢然とした、清廉という形容の似合う涼やかな美貌が、月明かりの下に現れた。
ミシェルにかぶりものを預けた織目さんは、再び祖父の遺産と向き直る。
暑気に紅潮した頬はそのまま。
肺の空気をすべて絞り出すような深呼吸をして、静かに目蓋を閉じる。
「それでは――――遥か遠き昔日のカケラを、拝見いたします」
凛、と響く。
彼女が遠い過去と向き合うための呪文。
澄んだ声で唱えた少女は、瞳に知性の光を宿して、木箱の蓋に指をかける。
やがて、最後の封が解かれた。
「……そう。あのメッセージは、そういうことだったのね……」
箱の中を覗いたミシェルがぽつりとつぶやいた。
どうやら収められていたものを見てなにか察したらしい。
それに返事をすることもなく、しなやかな指先が繊細な動作で中身を持ち上げる。
現れたのは――なんらかの動物を模った、小さな彫像だった。
「なに、あれ……怪獣?」
「もしかして、狛犬じゃないかしら?」
ライトの光に照らされたそれを見て、蕗と桂姉がそれぞれの見解を口にする。
言われてみれば、神社で見かける二対の石像とよく似ている。
全長は四センチほど。デフォルメされた姿なのか、厳めしい顔つきで顎を開いた獣が、まるで威嚇するように虚空を睨みつけている。
しかしその長い尾や体の模様は、素人目にも見事な細かい意匠によって構成されていて、ただの置物じゃないことはなんとなくわかる。……あと、たぶん材料は象牙だ。クロ爺のところでそれらしき品を何度か見たが、すべてガラスケースの中で丁重に保管されていた。あれが本物なら、間違いなく稀少な品なのだろう。
とはいえ、動物の正体は一向に掴めなかった。
加えてあの彫刻はいったいどういう用途で作られた代物なのか。
首を捻っていると、背後の霧小路さんがおずおずと声をあげた。
「あれは……たぶん、根付」
「ネツケ?」
「和服を着る時、巾着なんかを、帯に留めるための道具……」
はあ。そうなのか。初耳だな。
ただこの身の不明を言いわけするなら、うちは女性陣の筆頭であるおばさんが伝統行事に対する興味が薄いため、和服を拝む機会自体がほぼないのだ。最後に見たのはたしか蕗の七五三だったか。
そのせいか、新屋家の人間は和装の知識などからっきしである。この場に服飾や手芸に詳しい霧小路さんがいてくれて助かった。
「ええ、そうよ。タカツグはこの根付を、死の間際まで身に着けて手離さなかったわ」
くるりと振り向いた彼女は、青く冴えた瞳で俺を捉えた。
口は開かないものの、怜悧な猫を思わせる眼差しが雄弁に輝いている。
たしかめたいことがあるのかもしれない。
しかし、それよりも先に、囁くような声が耳に届いた。
「――和泉屋友忠の『玉獅子』…………祖父が、一番はじめに手に入れたアンティークです」
手の中の彫像に視線を落としながら、誰に向けるでもなく織目さんは説く。
懐かしがるように。
愛おしむように。
かすかに震えた声には、そういったやわらかな感情が滲んでいた。
その説明を聞いて、ようやく俺の中にわだかまっていた疑問が氷解した。
いままで見聞きした骨董品に比べて、大切な弟子でもある孫娘に遺すには随分と簡素な品だと訝しむ気持ちもあったのだが、出自を聞けば疑いようもない。
これは紛れもなく、獅賀貴嗣が唯一無二の少女に託した遺産なのだろう。
「てことは、本物の作品なのか。その玉獅子とやらは」
訊ねてみたのは興味本位だった。
答えなどすでにわかりきっている。
最後に偽物を贈るなんて、そんなこと有り得るはずもない。
けれど、
「わかりません」
「……え?」
「和泉屋友忠に関する資料は、ほとんど残されていないんです……十八世紀の人気の根付師だった友忠は、『装劍奇賞』に記されるほど当時から贋作が多く、真作とされている鑑定基準も推測の域を出るものではありせん。この玉獅子も、素材こそ友忠の得意とした象牙ですが、見る人によって価値が大きく変動するでしょう」
織目さんから返されたのは、まったく予想外の答えだった。
……本物と判断する基準がない。
そんないわくつきの骨董品を、獅賀貴嗣は孫への遺産に選んだのか?
「……ですが、それこそが鑑定の真髄であると、祖父はいつも言っていました」
記憶を手繰り寄せるように、目を伏せた織目さんが言う。
「いかに知識があろうと、どんなに証拠を揃えようとも、最後に判断するのは自分の眼と直感である、と。“後世の発見でいとも容易く価値がひっくり返るアンティークの鑑定は、見渡す限りのアーモンドの木々の中から、真冬にたった一本の桜を見つけだすに等しい作業だ”とも……だから私には、たくさんの作品を見て、眼を肥やし、感性を磨けと教えてくれたのです。それがいつか私自身を助ける力になると、そう言って」
ああ、だから……。
織目さんの受けた教えが明かされたことで、ついに不明瞭だった答えが腑に落ちた。
人形に記された暗号の最後の一文だけは、どうしても骨董に結びつけることができなかったのだ。
だが、これではっきりした。
獅賀貴嗣は孫娘に向けて、遺産がここにあることを伝えていたのだろう。
織目さんだけが知る言葉で。
もし道に迷っても、最後はこの場所へ辿り着けるように。
「……あら?」
ふいに声をこぼしたミシェルが、箱の中に手を伸ばす。
空になったはずの底から、一枚の紙が取り出された。
「はい。クッションの下敷きになってたわ。あの男はよっぽど隠しごとが好きなようね」
皮肉っぽい物言いをして、出てきた紙を織目さんに差し出す。受け取った織目さんは、食い入るように紙面を読み込みはじめた。
……やがて、その目からぽろぽろと涙があふれだす。
「おじい、ちゃ…………おじいちゃん……っ!」
取り繕うこともできず、素の口調に戻った彼女は嗚咽をもらして、もうここにいない祖父を呼ぶ。その両腕は、宝物みたいに形見の獅子と手紙を抱いていた。
誰も動かない。すぐ隣にいたミシェルだけが、震える背中をやわらかく撫でていた。
しゃくりあげる織目さんに声をかけることは憚られた。
この時間は彼女だけのもの。
寂しさも、悲しみも、すべて織目さんが自分で受け止めて、噛みしめながら未来へ進むために与えられたものだ。
いま必要なのは耳触りだけがいい小綺麗な言葉じゃない。
ただ黙って傍に寄り添い続ける、本当の温もりだろう。
「ニーヤ……あなたは、最初からこの形に持ち込むつもりだったのね」
顔だけをこちらに向けたミシェルが静かな声で問う。
疑問ではなく、辿り着いた答えをたしかめるような口振りだった。
すべてが思い通りに進んだわけじゃない。想定外の部分もたくさんあった。
しかし、ここに到るまでの道筋を組み立てて実行したという意味なら……答えは「イエス」だ。
「それが獅賀貴嗣の意図だと推測したからな。中でも一番安全だと思える手段を選んだ」
「ええ。そして私は、ただ安心を得るためだけにあんな雑用をさせられたのね」
「悪かったよ……でもミシェルもこれで、後々まで余計なことを思い煩わずに済むだろう?」
言い返すと半眼で睨まれる。
そう。俺はミシェルに、まさに雑用レベルのおつかいを頼んでいた。
「そうね。たしかに安全だわ。……だってこのアンティークは、もう存在しないはずの代物だもの」
昨日、俺がミシェルに頼んだもの。
それは――獅賀貴嗣の遺体と共に火葬された、副葬品のリストだった。
生前に愛用していた品の中に、いくつか骨董品らしき銘柄が挙がっているのを見て、俺は自分の考察が正しいことを確信したのだ。
すでに焼失したものなら、織目さんが所持していても御曹司の手は及ばないだろう、と。
おかげで今日は安定して勝負に臨めたのだが、ミシェルからすれば意義の薄い使いっ走りをさせられたようなものだろう。
この礼はいずれ折りを見てきちんとするべきなのかもしれない。
じゃないと代償が怖そうだ。
「……おじーちゃん、最後に織目さんになんて伝えたのかな」
普段よりおとなしい蕗が独り言のように訊ねた。
それは俺にもわからない。ミシェルなら目に入ったのかもしれないが、個人へのメッセージを盗み聞くのはあまりに無粋だろう。
……ただ、彼の骨董マニアが伝えたかったことは、なんとなくだがわかる。
人形に記された暗号は、織目さんだけでは決して解けない問題だった。
たとえば入霞に住む霧小路さんや、なんにでも興味を示す大和、フォロー役のミシェルや桂姉、織目さんを助けようと奮起した芳倉さんや蕗……それに、多少自惚れてもいいのなら、最後に暗号を解読できる俺が必要不可欠な構成だ。
誰かがいなくなっても、たぶんこの暗号は解けなかった。
つまり、獅賀貴嗣はこう伝えている。
“仲間と共に挑め”と。
織目さんが自分だけの部屋から外の世界へと足を踏み出した時、はじめて暗号の鍵は開かれる。
そうして深く暗い森の奥の宝箱が守っていたものは、そう――
「――旅立つ孫娘の勇気を讃えた、祝福の言葉だろう」
憶測の抽象的な答えに、けれど蕗は素直に頷いた。
なにか思うところがあったのかもしれない。
いずれにしてもたしかなのは、祖父からのメッセージが正しく孫娘に伝わったという事実のみ。
肩から力が抜けていくのを感じつつ、大きく息を吐き出して顔を上げた。
木々に囲われた空はもうすっかり夜の色に染まっている。
まばらに散らばった小さな星が、一日の終わりを報せるみたいに、夜空のそこかしこで光を降らしはじめていた。
もう疲労困憊で、立っているのもやっとといった状態だが……いまはとりあえず、すべての問題が無事に片づいたことを喜ぶとしよう。
こうして、四月の終わりから続いた騒動は、ひそやかにその幕を下ろした。




